第14話 やさしい人ほど、つらい
家のドアを開けたとき、私は少し驚いた。
部屋の灯りがついている。
時計を見る。
夜の十時を少し過ぎていた。
橘がこんな時間に帰っているのは、珍しい。
「ただいま」
私は声をかける。
リビングから橘の声が返ってきた。
「おかえり」
キッチンの方からいい匂いがする。
私は靴を脱いで部屋に入った。
テーブルの上には、皿が二つ並んでいた。
簡単なパスタ。
サラダ。
ワインのボトル。
橘がエプロンを外しながら言った。
「今日は早く終わった」
私は少し驚いて笑う。
「料理してたの?」
「たまには」
橘は肩をすくめた。
「コンビニばっかりも飽きるだろ」
その言い方が、昔と同じだった。
付き合い始めた頃、橘はよく料理をしてくれた。
パスタとか、簡単なものだけど。
でも、忙しくなってからはほとんどなくなった。
私は椅子に座る。
「ありがとう」
橘はワインをグラスに注ぐ。
「乾杯」
グラスが軽く触れる。
小さな音。
私はパスタを一口食べる。
普通の味。
でも、どこか懐かしい。
「どう?」
橘が聞く。
「美味しい」
橘は満足そうに頷いた。
テレビはついていない。
部屋は静かだった。
こういう夜は久しぶりだと思う。
「最近さ」
橘が言う。
私は顔を上げる。
「うん?」
橘は少し考えてから続けた。
「疲れてるだろ」
私は一瞬言葉を止めた。
「仕事」
橘が言う。
「忙しそうじゃん」
私は小さく笑う。
「まあ、普通」
橘はグラスを回しながら言った。
「美奈子、昔から無理するからさ」
その言葉を聞いたとき、胸の奥が少しだけ揺れた。
橘は、ちゃんと見ている。
全部じゃないかもしれない。
でも、私のことを見ている。
「ありがとう」
私は言う。
橘は肩をすくめる。
「当たり前」
その言い方は、少し照れくさそうだった。
昔からそうだ。
優しいことを言ったあと、必ず照れ隠しをする。
私はワインを飲む。
少しだけ胸が痛む。
橘は悪い人じゃない。
むしろ、優しい。
長い時間を一緒に過ごしてきた。
笑った夜もある。
旅行もした。
くだらないことで笑い合ったこともある。
その全部が、消えたわけじゃない。
それなのに。
ななしのカウンターを思い出す。
園田の横顔。
静かな声。
「来てくれて、ありがとうございます」
胸の奥が、少しだけ苦しくなる。
橘が言う。
「そういえば」
「うん?」
「最近、ななし行ってるよな」
私はグラスを置く。
「うん」
橘はワインを飲む。
「いい店だよな」
その言葉は、少し意外だった。
「そう?」
「うん」
橘は笑った。
「落ち着くし」
私はその笑顔を見る。
昔と同じ笑顔。
少しだけ無邪気で、少しだけ自信がある。
「園田って人」
橘が言う。
私は少しだけ息を止める。
「うん」
橘は続けた。
「いい人そうだよな」
私は顔を上げる。
「そう思う?」
「うん」
橘はグラスを見つめながら言った。
「静かだけど」
「うん」
「悪い人じゃなさそう」
私は何も言えなかった。
橘はそれ以上何も言わない。
ただワインを飲む。
部屋は静かだった。
時計の音だけが聞こえる。
私はその夜、改めて思った。
恋は、
嫌いな人から離れるときだけ起こるわけじゃない。
むしろ、
優しい人の隣で
静かに始まってしまうことがある。
橘は悪くない。
それでも、私の心は少しずつ動いている。
そのことに、私はまだ名前をつけられなかった。




