第12話 二人だけの約束
「行きます」
そのメッセージを送ったあと、私はしばらくスマートフォンを見つめていた。
既読がつく。
すぐに返信が来た。
よかった
明日、いつもの時間くらいにいます
短い文章だった。
でも、その言葉の意味ははっきりしていた。
待っている。
私はスマートフォンを置く。
胸の奥が、少しだけ落ち着かない。
明日。
ただ店に行くだけなのに。
それなのに、なぜか特別な夜みたいに感じてしまう。
恋というものは、不思議だ。
大きな出来事がなくても、
たった一つの約束で、
夜の意味が変わる。
次の日の夕方。
仕事はいつも通りだった。
メールを返す。
会議に出る。
書類を確認する。
いつもと同じ一日。
でも、時間の流れ方が少しだけ違った。
時計を見る回数が増えている。
定時が近づくたびに、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
向かいの席の後輩が言った。
「西崎さん、今日なんか機嫌いいですね」
私は少し驚く。
「そう?」
「はい。なんか軽いです」
私は小さく笑った。
「気のせい」
でも、本当はわかっていた。
少しだけ楽しみにしている。
それだけだ。
恵比寿の駅を出る。
夜の空気は、昨日より少し暖かい。
歩く。
ななしまでの道。
何度も通った道。
でも、今日は少し違う。
心が、少しだけ早く歩いている。
店の前に着く。
扉の前で、私はほんの一瞬だけ立ち止まった。
深呼吸。
そして、引き戸を開ける。
「いらっしゃい」
マスターの声。
店の中を見た瞬間、私はすぐに気づいた。
園田がいた。
カウンターの中央。
昨日と同じ席。
グラスを持っている。
そして――
私を見て、少し笑った。
「こんばんは」
園田が言う。
その声を聞いた瞬間、胸の奥が静かに温かくなる。
「こんばんは」
私は席に座る。
今日は、隣。
席は空いていた。
一つ空ける必要はない。
そのことに、私は少しだけ緊張していた。
マスターが聞く。
「いつもの?」
私は頷く。
氷がグラスに落ちる音。
カラン。
その音が、静かな店に響く。
しばらく二人とも何も言わなかった。
でも、不思議と気まずくない。
隣にいる。
それだけで、空気が満たされている。
園田がゆっくり言う。
「来てくれて、ありがとうございます」
私は少し笑う。
「誘ったのは園田さんですよ」
「そうですね」
園田も笑った。
その笑い方が、少しだけ柔らかい。
昨日より、少し近い距離。
グラスを持つ手が、ふと触れそうになる。
触れない。
でも、意識する。
「美奈子さん」
園田が言う。
「はい?」
「こういうの、久しぶりです」
私は首をかしげる。
「こういうの?」
園田は少し考えてから言った。
「誰かを待つ夜」
その言葉を聞いた瞬間、心臓が一度強く鳴った。
私はグラスを見つめる。
氷がゆっくり溶けている。
「私もです」
気づけば、そう答えていた。
園田は少しだけ驚いた顔をして、それから静かに笑った。
「よかった」
その言葉は、昨日のメッセージと同じだった。
よかった。
たったそれだけの言葉なのに、どうしてこんなに温度があるのだろう。
私はグラスに口をつける。
冷たい酒が喉を通る。
でも、胸の奥は温かい。
店のジャズがゆっくり流れる。
夜は静かだ。
誰も急いでいない。
この時間が、少しだけ特別に感じる。
恋というものは、
きっとこういう夜から始まる。
手を繋いだ瞬間でもなく、
キスをした瞬間でもなく、
ただ、
誰かを待って、
その人が来て、
同じカウンターに座っている。
それだけの夜。
でも、その夜は、
これまでの夜とは少し違っていた。




