第11話 待ってしまう夜
橘が寝室に入ったあと、部屋は急に静かになった。
テレビの音も消えている。
キッチンの時計の秒針だけが、規則正しく時間を刻んでいる。
私はソファに座ったまま、スマートフォンを手に取った。
特に用事はない。
ただ、なんとなく。
画面を点ける。
通知はない。
当たり前だと思う。
夜の十一時を過ぎている。
この時間に連絡が来ることなんて、普段はほとんどない。
それでも、私はメッセージアプリを開いた。
一番上にある名前。
園田博美
最後のやりとりは、数日前。
また、ななしで
あの言葉が、まだ残っている。
私はその画面を見ながら、少しだけ考えた。
もし、ここでメッセージを送ったらどうなるだろう。
たとえば――
「今日はありがとうございました」
それくらいなら自然だ。
でも、指は動かなかった。
理由はわかっている。
送る理由がないから。
今日、店でちゃんと話した。
駅まで歩いた。
別れるときも、きちんと挨拶をした。
それ以上のやりとりは、必要ない。
そう思う。
そう思うのに。
私はスマートフォンを置けずにいた。
ソファの背もたれに体を預ける。
天井を見る。
さっきまでの帰り道を思い出す。
恵比寿の夜。
歩く音。
園田の声。
「今日は来てよかったです」
その言葉を思い出すと、胸の奥が少しだけ温かくなる。
あれは、たぶん本心だった。
無理に言った言葉じゃない。
そういう声だった。
私はスマートフォンをテーブルに置く。
そして立ち上がった。
キッチンへ行き、水をコップに注ぐ。
冷たい水を一口飲む。
それでも、さっきの言葉が頭から離れない。
なぜだろう。
恋というほどのものじゃない。
まだ、そこまでじゃない。
それでも。
あの人と話す時間は、少しだけ特別だった。
スマートフォンが震えた。
私は思わず振り返る。
テーブルの上で、画面が光っている。
一瞬、時間が止まる。
心臓が、強く鳴る。
ゆっくり歩いて、スマートフォンを手に取る。
通知。
メッセージ。
送り主の名前。
園田博美
私は一度だけ深く息を吸ってから、画面を開いた。
起きてますか?
それだけ。
たった一行。
私は思わず笑った。
なんて、控えめなメッセージだろう。
もし返事がなかったら、そこで終わる。
そんな距離の言葉。
でも、その控えめさが、逆に胸に残る。
私はソファに座る。
スマートフォンを両手で持つ。
返信を打つ。
起きてます
送信。
メッセージが画面に表示される。
その瞬間、少しだけ後悔する。
早すぎたかもしれない。
もう少し時間を置けばよかったかもしれない。
そんなことを考えていると、すぐに返信が来た。
よかった
私は少し笑う。
「よかった」って。
なんだろう、この会話。
それでも、心は少し軽くなっている。
私は画面を見つめる。
数秒後。
またメッセージが届く。
今日、来てくれて嬉しかったです
私はその文字を、ゆっくり読み返した。
嬉しかった。
その言葉が、胸の奥に落ちる。
大げさじゃない。
告白でもない。
でも、確かに気持ちが含まれている。
私は少し考えてから、返信を打つ。
私も、少し驚きました
送信。
園田からすぐ返信が来る。
僕もです
私は思わず小さく笑った。
なんだろう、このやり取り。
短い。
とても短い。
でも、一つ一つの言葉が、妙に重い。
画面の向こうに、園田がいる。
同じ夜を過ごしている。
そのことが、少しだけ不思議だった。
数秒後、またメッセージが届く。
また、ななし行きます?
私は一瞬、指を止めた。
この言葉の意味は、はっきりしている。
偶然じゃない。
誘い。
私は天井を見上げる。
橘は寝室にいる。
部屋は静か。
夜は深い。
私はスマートフォンを見る。
園田のメッセージ。
また、ななし行きます?
その言葉を見ていると、なぜか胸が少しだけ速くなる。
恋は、
大きな出来事から始まるわけじゃない。
劇的な言葉でもない。
ただ、夜に届いた一通のメッセージ。
それが、
心を静かに揺らすことがある。
私はゆっくり息を吐いた。
そして、返信を打つ。
行きます
送信。
その瞬間。
何かが、静かに動き出した気がした。




