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あなたに、会えてよかった。  作者: 西崎小春


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第9話 静かなグラスの人

美奈子が改札を通ったあと、園田はしばらくその場に立っていた。

人の流れは止まらない。

仕事帰りの人、飲み会帰りの人、急ぎ足でホームへ向かう人。

その中で、ほんの数秒だけ動かずにいる自分が、少しだけ場違いな気がした。

改札の向こう側で、美奈子が振り返った。

目が合う。

彼女は軽く手を上げた。

園田も同じように手を上げる。

それだけ。

それだけなのに、胸の奥に小さな余韻が残る。

美奈子の姿が人の流れに紛れて見えなくなってから、園田はゆっくり息を吐いた。

歩き出す。

改札とは反対方向へ。

彼の家は恵比寿ではない。

もう一駅先だ。

今日は歩く気分だった。

夜の空気は冷たい。

でも、嫌な冷たさではない。

むしろ、頭が少しだけ静かになる温度だった。

園田はポケットからスマートフォンを取り出す。

画面を点ける。

何も通知はない。

当然だ。

美奈子はもう電車に乗っているだろう。

メッセージを送る理由もない。

それでも、無意識に画面を見てしまう自分に、園田は小さく笑った。

「何してるんだろうな」

小さく呟く。

自分でもよくわかっている。

期待しているわけじゃない。

何かが起きるとも思っていない。

ただ。

あの夜の余韻が、まだ消えていないだけだ。

歩きながら、さっきの会話を思い出す。

ななしのカウンター。

グラスの音。

美奈子の声。

「私も、少し気になってました」

その言葉が、まだ耳に残っている。

園田は、あの瞬間を何度も思い返していた。

あれは、たぶん社交辞令じゃない。

でも、恋の告白でもない。

ちょうどその間にある言葉。

だからこそ、心に残る。

園田は信号で足を止める。

赤。

横断歩道の向こう側には、まだ人の流れがある。

ふと、ななしの扉を開けた瞬間のことを思い出した。

あのとき、美奈子が入ってきた。

一瞬、目が合った。

彼女は少しだけ驚いた顔をしていた。

それを見て、園田は安心した。

自分だけが驚いていたわけじゃない。

同じ夜を、同じ温度で感じていたのかもしれない。

そのことが、妙に嬉しかった。

信号が青に変わる。

園田は歩き出す。

人とすれ違う。

夜の街は、まだ騒がしい。

それでも園田の頭の中は、さっきまでの店の空気で満たされていた。

静かな照明。

ジャズ。

木のカウンター。

あの店の空気は、いつも少しだけ時間を遅くする。

だから好きだ。

急がなくてもいい場所。

話さなくてもいい場所。

でも、今日は少し違った。

今日は、話したかった。

美奈子と。

園田は自分でもそれに驚いていた。

彼は、もともと人と距離を取るほうだった。

仕事では普通に話す。

必要なことは言う。

笑うこともある。

でも、必要以上に近づくことはあまりない。

それは性格なのかもしれないし、

ただ面倒だからかもしれない。

それでも。

美奈子と話しているときだけは、少し違う。

無理に話そうとしているわけじゃない。

沈黙も嫌じゃない。

でも、気づけば言葉が出ている。

それが不思議だった。

歩道橋を上る。

恵比寿の街が少しだけ見える。

ネオン。

車のライト。

遠くのビル。

その光を見ながら、園田はふと考える。

もし、あの店に今日行かなかったら。

美奈子とは、また会っただろうか。

偶然は、思っているより少ない。

人は、同じ場所に来ることでしか再会しない。

今日、彼女が店に来た。

自分も店にいた。

それだけのこと。

でも、その「それだけ」が、妙に意味を持っている気がする。

園田はスマートフォンをもう一度見る。

メッセージアプリを開く。

美奈子とのトーク画面。

最後のメッセージは数日前。

また、ななしで

自分が送った言葉。

あのときは、深く考えていなかった。

ただ自然に出た言葉だった。

でも今思う。

あれは、誘いだったのかもしれない。

園田は画面を閉じる。

そして、少しだけ笑う。

「危ないな」

小さく呟く。

何が危ないのか、自分でもわかっている。

美奈子には橘がいる。

それは知っている。

ななしで何度か見ている。

仲が悪いわけでもなさそうだ。

むしろ、長く一緒にいる二人の空気だった。

それでも。

今日、駅まで歩いた。

それは事実だ。

園田は自分に言い聞かせる。

焦る必要はない。

何かを急ぐ必要もない。

ただ、同じ店で飲む。

たまに話す。

それだけでも十分かもしれない。

歩道橋を下りる。

夜風が少し強くなった。

園田はポケットに手を入れる。

指先が少し冷たい。

でも、胸の奥は妙に温かかった。

恋というものは、

始まった瞬間に名前がつくわけじゃない。

気づいたときには、

もう始まっていることもある。

園田はその夜、まだ知らなかった。

この静かな夜が、

これから少しずつ、自分の生活を変えていくことを。

そして――

美奈子の夜もまた、

同じように変わり始めていることを。

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