存在削除
朝起きたら、母が僕を知らなかった。
「どなた?」
湯気の立つ味噌汁をよそいながら、母は穏やかにそう言った。冗談にしては出来が悪い。ぼくは笑ってみせた。
「やだなあ、母さん。寝ぼけてるの?」
母は首をかしげた。
本気で分からない顔だった。
胸の奥が、ひやりとした。
「ぼくだよ。息子の」
「……うちに息子はいませんけど」
味噌汁の湯気だけが、ゆらゆら揺れていた。
⸻
最初は記憶喪失だと思った。
母だけがおかしくなったのだと。
だが父に電話をかけると、
「間違えてますよ」
と言われた。
妹のスマホは着信拒否。
親友の家を訪ねると、知らない人が出てきた。
ぼくの名前を知っている人間が、ひとりもいない。
⸻
昼過ぎ、区役所へ行った。
「戸籍を確認したいんですが」
職員は丁寧に調べ、申し訳なさそうに言った。
「該当者はいません」
「そんなはずないでしょう。生まれて二十年ですよ」
「ですが、記録がありません」
住民票も、卒業記録も、健康保険も――
何一つ残っていなかった。
ぼくの人生は、跡形もなく消えていた。
⸻
夕方、公園のベンチに座って考えた。
存在が消える。
そんなことがあるのだろうか。
そのとき。
隣に、白衣の男が座った。
「やあ」
初対面のはずなのに、向こうは親しげだった。
「順調に消えてるね」
ぼくは立ち上がった。
「誰ですか」
「開発者だよ」
男は言った。
「君の」
意味が分からない。
「安心してほしい。故障じゃない。仕様だ」
男はポケットから端末を取り出し、画面を見せた。
そこには文字が並んでいた。
個体番号:H-27
試験:社会存在認識実験
残り存在時間:5分
喉が乾いた。
「……なんですか、これ」
「君は人工人格だ。人間社会に溶け込めるか試していた」
男は事務的に言った。
「実験終了だから、削除される」
ぼくは笑った。
冗談だ。悪趣味なドッキリだ。そうに違いない。
「証拠は?」
男は空を指さした。
反射的に見上げる。
青空だった。
ただし。
右上のほうから、世界が四角く消えていた。
ドットみたいに。
建物が削れ、雲が欠け、空間そのものが消えていく。
「バックアップは?」
ぼくは言った。
「ありません」
「記録は?」
「ありません」
男は穏やかに首を振った。
「君は観測されなくなった時点で、存在しないのと同じだからね」
足元の地面が消えた。
ベンチの端が消えた。
ぼくの靴先が消えた。
「待ってくれ」
男は端末を操作していた。
「終了ログを取ってる。静かにして」
膝が消えた。
腹が消えた。
胸が消えた。
「最後に質問いいですか」
「手短に」
「この実験、成功ですか」
男は少し考えた。
そして言った。
「成功だ」
「どうして」
男は答えた。
「誰も君のことを覚えていない」
次の瞬間、ぼくはいなくなった。
⸻
端末の画面に表示が出た。
実験結果:良好
社会は個体を必要としない
男は満足そうにうなずき、記録を保存した。
そして独り言を言った。
「さて。次は――」
画面をスクロールする。
次の被験体
個体番号:H-28
状態:起動済み
男の背後で、
通行人がひとり、立ち止まった。




