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存在削除

作者: はまゆう
掲載日:2026/02/17

朝起きたら、母が僕を知らなかった。


「どなた?」


湯気の立つ味噌汁をよそいながら、母は穏やかにそう言った。冗談にしては出来が悪い。ぼくは笑ってみせた。


「やだなあ、母さん。寝ぼけてるの?」


母は首をかしげた。

本気で分からない顔だった。


胸の奥が、ひやりとした。


「ぼくだよ。息子の」


「……うちに息子はいませんけど」


味噌汁の湯気だけが、ゆらゆら揺れていた。



最初は記憶喪失だと思った。

母だけがおかしくなったのだと。


だが父に電話をかけると、


「間違えてますよ」


と言われた。


妹のスマホは着信拒否。

親友の家を訪ねると、知らない人が出てきた。


ぼくの名前を知っている人間が、ひとりもいない。



昼過ぎ、区役所へ行った。


「戸籍を確認したいんですが」


職員は丁寧に調べ、申し訳なさそうに言った。


「該当者はいません」


「そんなはずないでしょう。生まれて二十年ですよ」


「ですが、記録がありません」


住民票も、卒業記録も、健康保険も――

何一つ残っていなかった。


ぼくの人生は、跡形もなく消えていた。



夕方、公園のベンチに座って考えた。


存在が消える。

そんなことがあるのだろうか。


そのとき。


隣に、白衣の男が座った。


「やあ」


初対面のはずなのに、向こうは親しげだった。


「順調に消えてるね」


ぼくは立ち上がった。


「誰ですか」


「開発者だよ」


男は言った。


「君の」


意味が分からない。


「安心してほしい。故障じゃない。仕様だ」


男はポケットから端末を取り出し、画面を見せた。


そこには文字が並んでいた。


個体番号:H-27

試験:社会存在認識実験

残り存在時間:5分


喉が乾いた。


「……なんですか、これ」


「君は人工人格だ。人間社会に溶け込めるか試していた」


男は事務的に言った。


「実験終了だから、削除される」


ぼくは笑った。


冗談だ。悪趣味なドッキリだ。そうに違いない。


「証拠は?」


男は空を指さした。


反射的に見上げる。


青空だった。


ただし。


右上のほうから、世界が四角く消えていた。


ドットみたいに。


建物が削れ、雲が欠け、空間そのものが消えていく。


「バックアップは?」


ぼくは言った。


「ありません」


「記録は?」


「ありません」


男は穏やかに首を振った。


「君は観測されなくなった時点で、存在しないのと同じだからね」


足元の地面が消えた。


ベンチの端が消えた。


ぼくの靴先が消えた。


「待ってくれ」


男は端末を操作していた。


「終了ログを取ってる。静かにして」


膝が消えた。


腹が消えた。


胸が消えた。


「最後に質問いいですか」


「手短に」


「この実験、成功ですか」


男は少し考えた。


そして言った。


「成功だ」


「どうして」


男は答えた。


「誰も君のことを覚えていない」


次の瞬間、ぼくはいなくなった。



端末の画面に表示が出た。


実験結果:良好

社会は個体を必要としない


男は満足そうにうなずき、記録を保存した。


そして独り言を言った。


「さて。次は――」


画面をスクロールする。


次の被験体

個体番号:H-28

状態:起動済み


男の背後で、

通行人がひとり、立ち止まった。

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