30:真実を告発する前に。
ここまで読んでくださった方に、心よりお礼申し上げます。
まず最初にお伝えしておきます。
私、幸円一は、一橋鎖がブログ中で「T」と呼んでいた人物です。
私はフリーライターでも、編集者でも、何か特別な立場の人間でもありません。高知県内で働く、ただの会社員です。どこにでもいる、平凡で、凡庸な男です。
そして、真崎芽衣の叔父です。
子供のいない私にとって芽衣は、娘のような存在でした。いいえ、今となってはそれ以上の存在だったと感じています。
彼女がいなくなった日から、私の時間は止まっています。止まったまま、ただ現実だけが先に進み続けて、何も取り戻せないまま今日まで来ました。
私が一橋鎖という男を知ったのは、彼の炎上騒動がきっかけでした。
最初は、怒りしかありませんでした。
彼は、ありもしない妄想をさも事実のように書きつらねていました。
それも、面白がるように。
ふざけた温度で。
知ったふうな口調で。
私にはそれが、耐えられませんでした。
芽衣は、誰かの暇つぶしの題材ではありません。
芽衣は、誰かに都合よく消費されるために生きていたわけではありません。
ありもしない妄想で、芽衣を侮辱した。
今でも、許していません。
私は一橋鎖を特定して、直接抗議しようとしました。そうしないと、芽衣が死後も汚され続けているような気がしたからです。
そのために私は、彼の記事を穴が空くほど読みました。どこかに彼の個人情報につながる情報がないか。どんな些細なものでもいいから、足がかりがないか。そう思って、何度も何度も読み返しました。
ですが、そうする内に、私は別のものを見つけてしまいました。
「違和感」です。
浜部拓也ではない、真犯人がいる…などという大それた話ではありません。
ただ、面識も確認されていないような赤の他人同士が、たまたま同じ場所にいて、その一度きりの偶然によって、芽衣が奪われた。
この事件が、そんな馬鹿げたことで片付くものだとは、どうしても思えなかった。
あの日、芽衣がその結末に至った理由が、何かあったのではないか。
私は、警察に行きました。
一橋鎖の記事を印刷し持ち込み、もう一度調べ直してほしいと訴えました。それが馬鹿げた行為であることはわかっていました。でも、私が出せるものはそれしかなかったのです。
当たり前ですが、結果は門前払いも同然の対応でした。
「すでに事件は解決しています」
丁寧で、取り乱す私に優しく寄り添う言い方で、しかし、ただ結論だけを繰り返す、とても冷たい言葉でした。
芽衣のことは、もう終わったことになっている。
私はどうしてもそれを受け入れることができませんでした。そして同時に、理解しました。
ただ悲しんでいるだけでは、ただ怒っているだけでは、何も変わらない。
何か確たる証拠を、掴まなければいけない。
掴んで、突きつけなければいけない。
けれど、私のような凡庸な会社員が一人でできることなど限られています。
だから私は、一橋鎖を利用することを思いついたのです。
炎上騒動で名前だけは広まっている。
事件を追っているという体裁もある。
彼の記事は、良くも悪くも人を集める力がある。
私はそこに賭けました。
私は、地元に住んでいる地域密着ライターのような者だと身分を偽り、彼の記事に共感した者として、協力者として近づきました。
もちろん、怒りは消えていませんでした。むしろ、近づけば近づくほど、腹の底で燃え続けました。必死にそれを隠し、彼と共同で取材を続けました。
共に現地へ行ったこともあります。一緒に歩いて、一緒に話を聞いて、一緒にメモを取りました。
一橋鎖のブログが再開してからは、さらに多くの情報が集まり始めました。
それまで眠っていたものが、掘り起こされるような感覚がありました。
私は確信しました。
これで、あの日の芽衣に近づける。
…そう思いました。
しかし、一橋鎖は、あまりにも慎重でした。
確証がなければ書かない。
断定できないことは書かない。
名前は出さない。
団体名も出さない。
線引きが多すぎる。
私には、それが理解できませんでした。
真実を公表されて困るのは、悪意ある者だけではないか。書かれたくない事実があるのなら、それは隠したい側に問題があるのではないか。
私は一橋鎖を説得しました。何度もです。
ですが、彼は頑として受け入れませんでした。
多少の譲歩はありました。表現をぼかしたり、書き方を変えたり、順番を変えたり。見え透いた浅はかな偽善で、辿り着ける真実を自ら手放すような選択をしたのです。
日を追うごとに、ブログのアクセス数は落ちていきました。記事に言及するSNSの反応も、目に見えて少なくなっていきました。
当然です。人は、熱が冷めれば次の話題に移ります。けれど私にとっては、芽衣の死は「話題」ではありません。次などあるわけがないのです。
熱を提供し続けなければ、芽衣の死すら消費されてしまう。その思いから、私は一橋鎖のやり方を無視し、行動を起こしました。
2022年4月28日の記事、「関係者からの詳細」を書いたのは私です。
彼のブログに、彼の名前で、より真実に近い書き方で。それによりさらに多くの情報が寄せられると信じていたからです。
しかし、事はそう上手くは運びませんでした。
記事への言及は、取材方法や行き過ぎた表現に対する非難の言葉で埋め尽くされ、私が期待したあの日の芽衣に近づく情報は皆無でした。
そして、このことで一橋鎖と私の間に決定的な亀裂が生じたのです。
私は焦りました。
やっと掴みかけた「あの日の芽衣」が、このままではまた闇に消えてしまう。
私にはそれが、耐えられませんでした。
だから私は、最後の手段に出ました。
一橋鎖から禁じられていた取材です。
珂木共生祭で芽衣と行動を共にしていた人物、ブログでは「A」と伏せた芽衣の友人。
「浪川結花」に直接、話を聞きに行きました。
一橋鎖とはこの時点で決別しました。結局、勇気のない彼は私の望む方向に動くことはなかったのです。
登校中にも、下校中にも。
手紙でも、電話でも。
断られても、無視されても、私はやめませんでした。
止まれなかったのです。
止まってはいけないと思ったのです。
もとより、止まる気もありませんでした。
連日にわたる私からの追及に追い詰められた彼女は、ついに語ってくれました。
それは、一橋鎖のような綺麗事に塗れた線引きの仕方では、辿り着けなかった真実でした。
そしてその真実は、彼が守ろうとしていた誰かを、確実に壊すものでもありました。
けれど私は、書きます。
一橋鎖は、守るべきものを間違えていたのです。それは、壊されて然るべきものだったのです。裁きを受けるべきだったのです。
私は芽衣の叔父です。
私は芽衣を守れなかった人間です。
私は、取り戻せないとわかっていても、あの日の芽衣に少しでも手を伸ばしたいのです。
最後に、その真実を、すべて実名で語らせていただきます。




