表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
並行世界の俺は勇者、でもこっちでは無能悪役!?  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/9

【第9章「索引の盗人」】

 夜の空で、薄紙を繰る音が続いていた。

 銀糸の綴じ目の外側を、細長い影が走り、ページの端に知らない「項」が増えては、すぐに消える。

 ユイが糸を手繰り寄せ、王女が民のざわめきを目で鎮め、勇者の俺は柄に指を添える。悪役の俺は影を見上げ、校閲獣は胸の白紙へ一語だけ書いた。


 ――「索引荒らし(インデックス・ポーチャー)」。


 そいつは本文を襲うのではない。

 “探し当てる力”を食う。

 名前の見出し、ページの参照、章の内の小さな「→」。

 見出し語が空転し、索引の指が空を掴むようになった時、人は互いに辿り着けなくなる。


「参照回廊へ」

 俺は主筆で夜空に丸い矢印を描き、銀糸の綴じ目に小さな見出し札を吊るした。

 〈参照回廊〉。

 札が微かに鳴り、床の石畳が回廊のタイルへ変わる。壁面には無数の見出し語が並び、糸で結ばれ、ところどころが切れている。


 影はすばしこかった。

 索引札から索引札へ、音もなく跳び、指先――いや、鉛筆の先で項目を薄くなぞっては、別の棚へ移してしまう。

 「レン(蓮)」の項が三つに割れ、「勇者」「悪役」「現実」の下へと分散され、相互の参照「→」が黒く塗り潰される。


「分断だ」悪役の俺が息を呑む。「“同名異項”を作って、互いを辿れなくする」

「なら――結んでやればいい」

 俺は主筆で空に書く。

 〈共名きょうめい

 “同じ名”に、共のしるしを付ける語。

 ユイが糸で三つの「レン」をひとつの輪にくくり、王女が「これは同じ人の異なる姿」と声に出す。

 輪が光り、黒く塗り潰された参照記号の上に、薄く新しい矢印が浮いた。


 だが、索引荒らしは即座に別の手を打ってきた。

 「王女」の下に「→傀儡」という偽の参照を差し込み、「焚書卿」の下から「→悪」とだけ書かれた古い矢印を引っこ抜いて投げつける。

 参照は、文ではない。

 けれど、参照は“クセ”になる。

 目が、矢印に引かれる。


「対処する」

 勇者の俺が壁を叩き、回廊に響く声で宣言した。

 「参照は、証拠に従う。――“反証票はんしょうひょう”を用意する」

 俺は主筆で短く書く。

 〈反証票〉

 紙片が束になり、回廊の机に積まれた。

 偽の参照へ反証を貼り、確からしい参照へ「確認済」を押す。

 校閲獣が白紙の胸から慎重に「要」と「保留」を選び、ユイが糸で票を落ちないように結ぶ。

 王女は「傀儡」の参照札のそばに立ち、「この言葉は、私の声の反対の位置に置かれるべき語です」と淡く告げ、札を裏返した。

 裏面には、短い回想が記された。

 ――宰相の言葉に沈黙しなかった夜のこと。

 矢印が、ほんの少し弱まる。


 索引荒らしは焦れたのか、姿を濃くした。

 痩せた影。外套は目録カードで縫われ、指は古びた指サック。

 顔は――見えない。

 だが、肩にぶら下がる鍵束の鈍い音と、擦り切れた靴音に、俺はどこか懐かしさを覚えた。


「なぜ荒らす」

 俺が問うと、影は声なき声で囁いた。

 「――“探せない苦しみ”を、知っているから」

 「むかし、燃えた。棚が崩れ、索引が灰になり、誰も、誰にも、辿り着けなくなった。……だから、俺は“削った”。項目を減らし、見出しを一本にし、辿り着く先を“少数の正解”に絞った。――けれど、絞りすぎた」


 焚書卿の時と同じ匂いがした。

 単純へ逃げた誰か。

 生き延びるための、過剰な整頓。


「なら、奪うのをやめて、一緒に“編む”側に来てくれ」

 王女が一歩進み、目録カードの裾をやわらかく持ち上げる。

 「索引は、合意。――“共同索引フォーク・インデックス”を」

 俺は主筆で大きく書く。

 〈共同索引〉

 見出し語の横に、小さな丸がいくつも現れ、民の指がそこへ“自分の道”を書き込めるようになった。

 「王女→回想→広場→第六日の市→共文憲」

「焚書卿→回想→灯台→『港が燃えた日』」

「レン→(勇者)→法→手続き」

「レン→(悪役)→影の注→裏抜け道」

「レン→(現実)→教室→ノート→観測」


 索引荒らしは、立ち尽くした。

 やがて、指サックを外し、鍵束をユイへ差し出した。

 「――“索引長インデックス・スチュワード”になれるだろうか」

 ユイは糸で鍵束を結び、にっこり笑った。


 共同索引の輪が回廊に広がると、切れていた参照矢印が次々につながった。

 黒く塗り潰されていた「→」の上を、淡い銀が静かに渡っていく。

 校閲獣は白紙に「検索は祈り」と書き、猫の落書きが端で丸くなる。


 ただ――最後にひとつだけ、空白が残った。

 「第一筆記」。

 項目はあるのに、参照がない。

 「見届ける」と告げて去っていった、あの古い影。

 索引長はしばらく黙ってから、カードへ小さく書いた。

 ――「第一筆記→『余白に立つ』」。

 それは、まだ本文のない参照だった。

 やがて本文が追いつく、と信じるための「→」。


 回廊を出ると、王都の夜がやわらいでいた。

 索引は生き返り、人は互いに辿り着く道を取り戻した。

 俺の主筆の根元の傷が、またひと筋、浅くなる。


 けれど、その安堵も束の間だった。

 銀糸の綴じ目の高みで、静かに何かが開く。

 目録の表紙。

 ――「総目録カタログ」が、頁をめくったのだ。


 ページの端に、冷たい活字が光る。

 〈再配架リシェルフ予告〉

 〈要約版の作成〉

〈外典の凍結〉


 勇者の俺が剣に手を添え、悪役の俺が影から顔を上げる。

 王女は一歩も引かず、ユイが糸を握り直した。

 索引長は鍵束を鳴らし、校閲獣は白紙に「備える」と書いた。

 観測者のノートに、太い青で章題が増える。

 ――『総目録へ上申』。


 俺は主筆を握り直し、深く息を吸った。

 ここから先は、物語の“かなめ”そのものに触れることになる。

 総目録は、善でも悪でもない。

 ただ――“纏める”。

 なら、こちらは“流す”文を持って臨むしかない。


「行こう」

 銀糸の綴じ目の先、巨大な背表紙の暗がりへ。

 次の章の扉が、静かに開く。


【第10章「総目録」】


 総目録は、書庫のさらに上層――天井と見紛う高さにあった。

 巨大な背表紙に白いタイトル。段付きインデックスが果てしなく並び、指で触れるたびに地層のような記憶がざわめく。


 中央席に座るのは誰でもなかった。

 “機構”だ。

 声は淡々と、活字のように等間隔で落ちる。


「――上申を受理。要旨を述べよ」

 王女が一歩進む。

「私たちは“共文憲”を立て、声の場を確保しました。版面憲章で余白を守り、共同索引で辿り着く力を取り戻しました。――これらを“外典”ではなく、“生きた本文”として扱ってほしい」

 「根拠は」

 勇者の俺が続ける。「手続きと合意。予審と起訴、移植と読み合わせ。……そして“更新”の通過」

 悪役の俺が静かに笑う。「裏の釘を抜き、抜け穴を塞いだ実務もある」

 ユイは糸をひらいて示す。「結び目の数」

 索引長が鍵束を鳴らす。「参照の回復率」

 校閲獣が白紙を掲げる。「『ゆるし』の適用事例」

 観測者は教室の机で、ノートの見返しに“要約”を記した。

 “叙述・手続き・実務・結束・参照・検証”。

 ――六点。


 総目録は静かだった。

 やがて、上段の見出しがくるりと回り、乾いた文字が落ちる。

 〈再配架リシェルフ基準〉

 〈要約版アブリッジド作成〉

 〈外典凍結〉

 「――本機構は整合を旨とする。長すぎる叙述は“要約版”に編まれる。逸脱が多い叙述は“外典”に凍結する。……それが“統べる”ということだ」


「要約は要る」

 俺は頷く。「けれど、切り落とす要約ではなく、“流れを保つ要約”にしてほしい」

 「定義せよ」

 俺は主筆で空に書く。

 〈可変版リビング・カノン

 “決定版”ではなく、“生きて続く版”。

 更新ログが残り、外典とも相互参照し、縮約は「あとで戻れる」前提で行われる版。

 ユイが糸で各章の見出しに小さな結び目を付け、戻り道のしるしを作る。

 索引長が「→旧版」「→外典」の参照札を増やす。

 校閲獣は白紙に「要約=入口」と書き、王女は「声は入口で削られない」と言い添える。


 総目録の上段が、もう一度だけ回った。

 「――可変版、仮採用。試験期間:七日」

 「試験?」勇者の俺が眉を上げる。

 「本機構は、結果を問う。――『再配架のリシェルフ・ストーム』を通過させよ。可変版の“戻り道”が、本当に働くかを見る」

 悪役の俺が小さく笑う。「嵐ね。……背が剥がれる試練だ」

 「条件がある」総目録は続ける。「“筆”は分散される。主筆一本で嵐は越えられない。――分筆スクリプト・シャードせよ」


 主筆が、掌の中で薄く震えた。

 俺の肩に、重いものがそっと置かれる気配。

 綴師の老女の声が、遠くでささやく。

 ――束ねた事実で返せ。一本の糊に頼るな。


 俺はユイを見、勇者と悪役の俺を見、王女、索引長、校閲獣、そして観測者のノートを見た。

 「分けよう。――“書く責任”を」

 主筆の羽根が、静かにほどける。

 黒い羽根が七つ。

 “結句の針”“版面監の定規”“索引の札筆”“校閲獣の白筆”“王女の声筆”“勇者の条筆”“悪役の注筆”。

 そして俺の“余白筆”。


 総目録は頷かず、否定もせず、ただ上段に薄い印を付けた。

 〈試験開始、三日後〉

 「――嵐に備えよ」


 王都へ戻ると、空の色が少し濃くなっていた。

 ユイは針を糸で磨き、王女は声を休め、勇者は条を束ね、悪役は注の裏を点検し、索引長は札を並べ、校閲獣は白紙を増やし、観測者はノートの目次を作り直した。

 俺は、余白筆で“沈黙の時間表”を市に貼る。

 〈毎日、昼と夜に十五分ずつ、書かない〉

 借りの返済のため、呼吸のため。

 ――嵐の前に、息を整える。


 そして、三日が過ぎた。

 空が、開いた。

 紙の海が、背表紙の上からひっくり返るように押し寄せ、見開きが音をたててめくれ、索引の札が風鈴のように鳴り、参照矢印が波の中で揺れた。

 “再配架の嵐”。

 可変版の試練。


 俺は叫んだ。

 「――戻れ道印!」

 ユイの針が見出しに結び目を打ち、索引長の札筆が「→旧版」を灯し、王女の声筆が要約の入口に“声の保護”を施し、勇者の条筆が法の道を示し、悪役の注筆が裏から橋を架け、校閲獣の白筆が「要/保留」を切り分ける。

 観測者のノートが、目次から一気に該当ページへ飛ぶための“しおり”を増やす。


 嵐の中、俺は余白筆でただ一語を書き続けた。

 〈まだ〉

 頁の端に、本文の脇に、欄外の角に――“まだ”。

 断たれそうになる行の手を握り、切り落とされそうになる回想の横に椅子を置き、呼吸の穴を広げる“まだ”。

 “要約版”の短い行が、そこから呼吸して、本文へ引き戻されていく。


 ――嵐は長かった。

 だが、必ず止む。

 止んだとき、王都の空は澄み、銀糸の綴じ目は深く息を吐いた。

 総目録の上段が、遠くで一度だけ回る。

 〈可変版、採用〉


 静寂。

 俺は膝をつき、余白筆を抱えた。

 羽根の先に、薄い傷が数本。

けれど、折れてはいない。


 その時――総目録の最上段に、ひびが走った。

 活字が、僅かに滲む。

 「……第一筆記が、動く」索引長が低く呟く。

 遠い地層で、古い誰かが、立ち上がる音がした。


【第11章「三人の署名」】


 ひびの向こうから、柔らかな紙の足音が近づいてくる。

 第一筆記――物語が“文”になった最初の頃の残響。

 姿は薄く、輪郭は余白そのもの。

 けれど、その歩みを支える杖には、年月の重みがあった。


「――見届けに来た」

 第一筆記の声は、王女の祈りに似て、観測者の息継ぎにも似ていた。

 「可変版は通った。ならば最後に、著者の在り方を確かめる。――“三つの署名”だ」


 勇者の俺、悪役の俺、そして俺。

 ずっと並んで歩いてきた三つの蓮。

 索引では輪になり、版面では呼吸を合わせ、嵐ではそれぞれの筆で働いた。

 ――それでも、どこかで一本に収束しなければならない瞬間がある。


「署名は誰が」

 勇者の俺が静かに問う。

 第一筆記は首を振る。「“誰か一人”ではない。“どう署名するか”だ」

 悪役の俺が苦笑する。「合著者コオーサーにするか、匿名の“われわれ”にするか、あるいは“可算無限の俺”にするか」

 観測者のノートに、青い欄外が増える。

 ――『署名=責任=読者への約束』。


 王女が俺の手を握った。

 「あなたは、最初に“俺は俺だ”と書いた。……その“俺”は、いま、どれ?」

 俺は答えを探し、胸の奥の“まだ”を見つめた。

 ――俺は、三人分の視線で世界を見てしまった。

 剣の高さで。

 影の隙間で。

 教室の窓から。


「……“一人称複数”で署名する」

 俺は言った。

 「“私たちは、蓮だ”。――合著者でもなく、匿名でもなく、最初から“多声”として受け取ってもらう。責任は分散ではなく、重ね書き。読者と合意で“筆頭”が必要な時は、その章ごとに交代する」


 第一筆記は長い沈黙ののち、杖で床を軽く叩いた。

 「――やっと、余白が署名した」

 ユイが涙を拭い、索引長が鍵束を鳴らし、校閲獣が白紙に「了解」と書く。

 勇者の俺は微笑み、悪役の俺は肩の古傷を軽く叩いた。

 観測者のノートに、太い署名欄が引かれる。


「ただし、代償がある」第一筆記が続ける。

 「主筆は“個”の筆だ。――“私たち”の署名の瞬間、主筆は分解し、世界へ散る」

 王女が息を飲む。「あなたが……書けなくなる?」

 「儀礼の派手さでなく、日々の手続きと合意で回せるようにしてきた。なら、行ける」

 俺は笑ってみせた。「奇跡に頼らずに済むなら、それが一番安い」


 嵐の後の空に、ゆっくりと白い紙が舞った。

 第一筆記が差し出したのは、短い“終章の用紙”。

 「ここに署名せよ。――君たちの筆致で」

 俺たちは並び、筆を取った。

 勇者の条筆で「私たちは」、悪役の注筆で「蓮だ」を少し傾け、王女の声筆で「声は在る」を添え、索引長の札筆で「→読者」を付け、校閲獣の白筆で「要/保留」の余白を残し、ユイの針で結び、観測者がノートに同じ形の署名を写した。

 最後に、俺が余白筆で小さく一語だけ。

 〈まだ〉


 主筆が、掌の中で温かく砕け、風へ散った。

 羽根の破片は、王都の市へ、燈湾の回想柱へ、製本所の机へ、教室の黒板の端へ、索引の回廊へ――静かに降りた。

 可変版の中で、それぞれが“日々の筆”になっていく。


 第一筆記は、満足げに頷いた。

「これで、君たちは“著者の複数形プルラル・オーサーズ”だ。……最後に、ひとつ」

 杖の先が、銀糸の綴じ目の奥――遠い海の方向を指す。

 「“海の下の文庫”。沈んだ文たちが、まだ、呼吸できていない」

 燈湾の灯台の灯が、遠くでまた揺れる。

 焚書卿が回想を続ける音が、微かに聞こえた。


「行こう」

 最後の旅は、沈黙の海だ。

 俺たちは手を取り合い、綴師の老女から受け取った防水紙を背に括り、ユイが糸で体を結び、索引長が羅針盤代わりの索引札を用意し、校閲獣が白紙を丸めて浮き袋にした。

 観測者のノートの端が、波の匂いで湿った。


【第12章(終)「最終章『まだ』」】


 海は、静かな紙だった。

 水面は薄い半透明のトレーシングペーパー。

 潜るほどに音が吸い込まれ、言葉がほどけていく。

 海底に、文庫が眠っていた。

 塩で白くなった背表紙、砂に埋もれた見出し、紐の切れた背。

 沈んだ文たちは、声を持たず、ただ揺れていた。


 “著者の複数形”の俺たちは、分散した筆で静かに働く。

 勇者の条筆で背を立て、悪役の注筆で裏から糸を通し、王女の声筆で最初の声を与え、索引長の札筆で「→戻る道」を差し、校閲獣の白筆で「要/保留」の呼吸穴を開け、ユイの針で結び目を作る。

 観測者は教室で、図書委員のようにノートへ“貸出カード”を描き、海の下の本の位置を記録する。


 やがて、最初の一冊が浮上した。

 表紙は擦れているが、内側はまだ生きている。

 ――『港の歌集』。

 燈湾の子守唄が挟まっていた。灯の祖母の手で、古い五線紙に鉛筆書き。

 焚書卿が灯台でそれを受け取り、目を閉じて一行目をなぞる。

 標語柱が回想を吐き、歌の合間に短い「沈黙」を挟む。

 合唱が、海風に溶けた。


 次に浮かぶのは、「罪の告白」の薄い冊子。

 宰相ヘルムートの手で書かれた、短い、粗い回想。

 王女がそれを受け取り、「罪は声を失った時に育つ」と穏やかに読み上げる。

 勇者の俺は法の道に載せ、悪役の俺は裏の抜け穴を塞ぎ、校閲獣が白紙に「ゆるし」の欄を残す。

 群衆は怒号ではなく、静かな息でその文を聞いた。

 “納得”は、ゆっくりと土になる。


 海の底の文庫は、多くが見知らぬ言葉だった。

 違う世界の、違う筆致。

 けれど、可変版の索引は開き、版面憲章は呼吸穴を作り、共同索引は輪を広げた。

 俺たちは運び、結び、読み合わせる。

 派手な奇跡は、ひとつもない。

 ただ、薄く、全体に。


 最後に、砂に深く沈んだ一枚の板を見つけた。

 木の板。

 そこには、ナイフでたった一語が刻まれていた。

 ――「まだ」。

 第一筆記の筆致に似ていた。

 俺は余白筆で、その上に小さく同じ字を書いた。

 板はふっと軽くなり、水面へ浮かび、空へ、銀糸の綴じ目へ、王都の広場の空へ――舞い戻った。


 広場に人が集まり、言葉の市がひらかれる。

 ユイの糸が結び目を点し、索引長が案内札を掲げ、校閲獣が白紙を配り、勇者の俺は条を束ね、悪役の俺は影の柵を点検し、王女は声を整える。

 観測者は教室の机でノートを開き、ページの角を折り、目次に印を付ける。

 灯は笛で短く、やわらかく「また」を鳴らす。

 焚書卿は回想柱に日々の一行を刻む。

 ルーラーは断裁機のスイッチから離れ、版面監として見開きの“のど”を守る。

 索引長は鍵束を持って笑い、綴師の老女は背を撫でる。

 猫の落書きは、欄外で丸くなり、校閲獣の膝で眠る。


 総目録は高みから見下ろし、上段を一度だけ回して、短い行を落とした。

 〈可変版・第一刷、確定〉

 〈以後、修正履歴を保存〉

 〈外典との相互参照を常時開く〉


 第一筆記は、余白に立って頷いた。

 「――著者の複数形、ここに成立」

 杖の音が静かに遠ざかり、余白は余白のまま在る。


 俺は、観測者の机の前に立つ。

 窓の外に、王都の影。

 ノートの上で、青いペンが止まる。

 “終章”の見出しの横に、署名欄がひとつだけ、空いている。

 観測者――平凡な高校生の俺が、ゆっくりとペンを置く。

 「――読んだ」と書く。

 それは、この世界で最も強い“固定”だった。


 王都の空に、鐘が鳴る。

 銀糸の綴じ目が、穏やかに伸び縮みする。

 俺は、余白筆――いまは街に分かれた小さな筆の一本を手に、広場の石に小さく一語だけ書いた。


 ――「つい」。


 句点が、石に沈み、やがて光を吸って、静かに消えた。

 その上に、ユイがちいさな読点を一つ、結ぶ。

 王女が微笑み、勇者の俺が頷き、悪役の俺が肩をすくめ、索引長が札を回し、校閲獣が白紙を配り、猫が丸くなる。

 焚書卿が灯台から「今夜の一行」を吐き、ルーラーがのどを守る。


 物語は、ここで――いったん、終わる。

 けれど、声は在る。

 余白は呼吸する。

 そして、いつかまた、誰かが“まだ”を置くだろう。

 その時のために、索引は開き、版面は柔らかく、共文憲は日々書き換えられている。


 読んでくれて、ありがとう。

 ここまで共に綴じてくれて、ありがとう。

 “私たちは、蓮だ”。

 ――署名。


(完)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ