表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/9

【第1話「もう一人の俺」】

 六月の雨が、校舎の窓を叩いていた。授業の終わりを告げるチャイムはとうに鳴り、廊下の足音もまばらになっている。教室に残っているのは、俺――篠崎蓮ひとりだけだった。

 テストは中の下。部活は幽霊。帰宅してもゲームを少し、適当な動画を流して眠る。明日も同じ。明後日もきっと同じ。

「……俺の人生、ほんと、平坦」

 口に出した瞬間、言葉は消しゴムのカスみたいに机の上でほろりと崩れ、見えなくなった。大げさな不幸はない。目立つ才能もない。派手に嫌われているわけでも、熱烈に好かれているわけでもない。俺は、誰でもない誰かとして、今日もここにいる。

 窓の外に広がるグラウンドは薄い水膜に覆われ、白線がぼやけている。視界も、心も、輪郭が曖昧になる。そんな時だった。


 ――ぱきん。


 世界の端で、ガラスが割れるような音がした。錯覚かと思って瞬きをする。だが違う。窓の向こう、雨のカーテンの手前に、空間の表面にだけ黒いひびが入っている。校庭のベンチの上、空気の薄皮がナイフで裂かれたみたいに、細い線が走った。

「……え?」

 立ち上がる。足が勝手に窓へ向かう。ひびは、静かに、しかし確実に広がっていく。蜘蛛の巣状に伸びた線と線の交点が、ぽたりと雫になって――落ちた瞬間、そこに穴が開いた。

 穴の向こうに、見知らぬ空があった。雨は降っていない。青ではなく、淡い金色の空。雲が逆さまに流れている。心臓が跳ねる。夢じゃない。これは、現実だ。俺は窓枠を掴んだ。指先の冷たさがやけに鮮明で、だからこそ逆に現実感が遠のいていく。

 穴は広がり、縁から光がこぼれ落ちる。その眩しさに目を細めた瞬間、穴の向こうから、誰かがこちら側へ足を踏み入れた。


 俺だった。


 背丈も顔立ちも、声の色も、何もかもが一致している。違うのは――纏っているものだ。鋼色の胸甲、白いマント、腰に吊られた剣。泥汚れの上から清められたような輝き。何より、目が違う。迷いの少ない目だ。まっすぐ、鏡のこちら側の俺を射抜く。

「……誰」

 ようやく出た声は、情けないほど細かった。もうひとりの俺は、短く息を吐き、頷いた。

「篠崎蓮。お前と同じ。ただし、世界が違う」

 別世界、という単語が頭のどこかで点滅する。フィクションの中の常套句。けれど、いま目の前にいる彼は、フィクションではない。雨の匂いの中で、金属の匂いが確かにした。

「俺は――勇者だ」

 そう言って、彼は剣の柄に手を添えた。抜く気はない。ただ、そこに剣があることを、俺に理解させるための仕草。

「勇者?」

「この言葉が通じるなら早い。魔王と戦い、国を救った。称えられ、祈られ、祝福された。だが――」

 言葉を切って、彼は窓の外、校庭の一点を見た。雨に濡れたベンチ。その上空に、別の亀裂が走る。そこから、別の景色が覗いた。薄暗い石壁。鉄の枷。遠くで鐘の音が鳴る。寒い。

「別の世界では、俺は悪役だった。裏切り者として断罪され、処刑された」

 瞬間、胸の奥がざわりと波打つ。脳が、覚えていない記憶の輪郭を勝手に拾い集める。見たことのない景色なのに、頬にあたる風の冷たさだけがやたら具体的だ。

「待て、どういう――」

「説明は後だ。時間がない」

 勇者の俺は、淡々と告げる。その口調には焦燥が滲んでいるのに、声は崩れない。訓練で鍛えられた声だ。俺の喉は乾いて、うまく飲み込めない唾が、喉の奥でつっかかった。

「世界は、ひとつじゃない。分岐がある。選択の数だけ、平行して伸びる道がある。お前の“明日部活に行く/行かない”程度のことで、本来大きくはズレない。だが稀に、大きな分岐が起きる。英雄か、悪役か。国が救われるか、滅びるか。そういう岐路だ」

「……SFの読みすぎだろ」

 反射的に言い返した。自分でも軽口だとわかっていたが、言わずにいられなかった。勇者の俺は、わずかに口の端を緩める。

「かもな。だが、もうひとつ知っておけ。今、世界同士が干渉を始めている。まるで雨の水たまりが合流するみたいに、境界が薄くなっている。やがて衝突が起きる。ぶつかった先で、片方は弾け、片方だけが残る」

 喉の奥で何かが落ちた。ゴクリという音が、自分にだけ聞こえた。

「……それ、俺たちはどうなる」

「知らない」

 あまりにも率直な答えに、足元が一瞬、ぐらりと傾いた気がした。知らない、か。勇者でも、わからないことがある。

「だから来た。分岐の中で、一番自由度の高い“ここ”の俺に」

「自由度?」

「お前はまだ、何者でもない。勇者でも悪役でもない。役が、決まっていない。だからこそ、選べる。あるいは、壊せる」

 選べ、という言葉が、胸板に突き刺さる。俺は、選んでこなかった。選べるほどの才能も、責任も、なかった。だからこそ、今まで軽く生きてこられた。だが――今、選べと言われている。

「何を、選ぶ」

「勇者の座を奪うのか、悪役として死ぬのか。あるいは――」

 彼の視線が、ふいに俺の背後へ向いた。俺もつられて振り向く。黒板の上、時計の横に、いつのまにか小さな裂け目が生まれていた。教室の空気がひとつ息を吐くみたいに揺れ、そこから、低い笑い声が漏れる。

「――“書き換える”のか」

 誰かの声が重なった。俺でも、勇者の俺でもない第三の声。次の瞬間、黒板の裂け目から紙片が一枚、ひらりと舞い降りた。ルーズリーフより少し厚い、羊皮紙のような肌。そこには、整った字でこう書かれていた。


 《処刑予定:篠崎蓮(悪役)。罪名:王女誘拐、国家転覆未遂。》


 背筋に氷柱を差し込まれたみたいに、冷える。見覚えのない罪状、見覚えのない世界。なのに、俺の名前だけが間違いなくそこにある。

「これは……」

「“向こう側”の台本だ」

 勇者の俺が紙片を拾い上げ、眉間に皺を寄せた。紙の裏面には小さく、追加の注釈が記されている。《処刑日時:今晩・第七刻。公開処刑。歓呼を許可。》

「今晩?」

 反射的に問い返した俺の声は、掠れていた。勇者の俺は小さく頷く。

「時間は流れている。世界ごとに速度差もある。向こうではもう、断罪が決まっている」

「ふざけるなよ」

 口が勝手に動いた。机を叩く。乾いた音が教室に跳ねて、雨音がほんの少しだけ遠のいた気がした。

「誰が決めた。知らない場所で、知らない俺が、知らない罪で殺される? ふざけるなよ。そいつが俺だっていうなら、なおさらだ。俺は――俺は俺だ」

 叫んだ瞬間、胸の底で何かが割れた。薄い膜みたいに張り付いていた“諦め”が、ひびを作り、ぱらぱらと崩れ落ちる。たぶん、勇者の俺は、こういう瞬間を何度も通り抜けてきたんだろう。だから彼は、安心したように息を吐いた。

「そう言うと思った」

「簡単に背中を押すな。責任取れないくせに」

「責任は、お前自身が取る。俺たちは“同じ”だ。だから助けに来た。だけど、導くつもりはない」

 言葉は冷たくも、どこか優しかった。俺は拳を握る。指の骨が一本一本、存在を主張する。

「方法は」

「二つ」

 勇者の俺は、教卓の上に紙片を置き、指を二本立てた。

「ひとつは、お前が“向こう”へ行って、悪役の俺を入れ替える。処刑台に立つのは“偽の俺”だと証明し、罪を暴く。これは危険だ。準備もいる。味方を探さなきゃならない」

「もうひとつは」

「“台本”そのものを書き換える」

 黒板の裂け目から、また紙片が一枚、落ちてくる。書式は同じだが、空欄が多い。項目名だけが整っている。罪状、日時、場所、配役――。

「書き換えるって、どうやって」

「わからない。ただ、亀裂が増えている。境界が薄くなればなるほど、こちら側から“向こうの物語”に干渉できる可能性がある。誰かが俺たちの“筋書き”を書いているなら、俺たちはその筆を奪い取れる」

 無茶だ。だが、胸のどこかが熱くなる。この馬鹿げた話のほうが、俺にはしっくり来る。なぜなら――これまで、俺は誰かに脚本を書かれて生きてきた気がしていたからだ。無難に、平凡に、輪郭の薄い役を当てられて。

「やる」

 自分でも驚くほど、即答だった。勇者の俺が目を細める。

「どっちを」

「両方。行って、書き換えて、ぶっ壊す」

 言葉にすると、喉の奥が軽くなった。笑いが零れる。怖い。けれど、怖さと同じ量の高揚が、指先に火を灯す。

「いい顔だ」

 勇者の俺はそう言って、剣の柄から手を離した。その手を、こちらに差し出す。握手を求める手。俺はためらわずに、掴んだ。手のひらは硬く、温かい。雨音が増す。時計の秒針が、やけに大きく鳴る。

「行くぞ、蓮」

「どこへ」

「処刑台へ。今度は、俺たちの台本で」

 勇者の俺が笑う。俺も笑った。その瞬間、教室の床に走っていた細かな亀裂が、いっせいに光った。圧倒的な眩しさ。視界が白に満たされ、次の刹那、足元の感覚がすっと消える。

 落ちる――と思ったが、違う。浮いている。重力が方向を見失い、胃が宙づりになる。耳鳴り。風の音。雨の匂いは遠ざかり、代わりに冷たく乾いた石の匂いが鼻を刺した。



 目を開ける前に、音が聞こえた。ざわめき。ざらついた笑い。金属が擦れる音。目を開ける。そこは石造りの広場だった。高い城壁に囲まれ、中央に木製の台――処刑台。台の上では、黒い頭巾をかぶった男が斧の刃を点検している。刃が光を返した。

 俺たちは、城壁の陰に身を寄せていた。勇者の俺は、壁際の影に溶けるようにしゃがみ込み、視線だけを台へ向けている。視線の先、台の下で、ひとりの若者が両手を後ろに縛られ、兵士に囲まれていた。

 若者は、俺だった。

 俺によく似た顔。いや、よく似た、ではない。俺だ。顎の角度も、唇の薄さも、同じ。違うのは、表情だ。ひどく憔悴している。唇が乾き、目は赤い。けれど、不思議とその瞳には怒りも、恨みもなかった。何かを諦め、何かを守ろうとしている目だ。

「間に合った」

 勇者の俺が小さく呟く。

「向こうの俺は――」

「悪役にされた俺だ。だが、見ろ。あの目は“悪”じゃない」

 俺は頷きかけて、気づいた。広場の反対側、王城のバルコニーに、白いドレスをまとった女性が立っている。光の糸を編んだような髪。整った輪郭。王女、だろう。彼女の隣に、金髪の若い男――おそらく“勇者”が控えている。民衆が彼らを仰ぎ見て、歓声と罵声を投げる。

 王女は冷たい顔で、台の下の俺を見下ろしていた。視線が合った……気がした。胸がきゅっと縮む。知らないはずの痛みが、なぜかぴたりと馴染む。

「台本通りなら、今から王女の口から罪状が読み上げられ、彼は“公正なる裁き”の名の下に斬られる」

 勇者の俺が、懐から先ほどの紙片を取り出す。そこには細かい進行が書かれていた。鐘が鳴る。王女が告げる。群衆が沸く。刃が落ちる。血が石に広がり――。

「書き換える」

 俺は、黒板から落ちてきた“空欄の台本”を引き出した。いつのまにか、俺の制服の内ポケットに入っていた。ペンはない。だが、指先がじんじんと熱い。紙に触れると、インクの代わりに、指が発光した。驚いて手を引っ込めると、紙の空欄に“遅延”の二文字が淡く浮かんで消えた。消えたのに、鐘の音は予定より一拍、遅れて鳴った。

 できる。少しだけなら、干渉できる。

「蓮、やれるか」

「やる」

 自分の声が震えていないことに、驚いた。勇者の俺は腰の短剣を抜き、柄を俺に渡す。剣は重い。だが、持てる。持ちたかった。俺は頷き、空欄の台本に、さらに指で書き込む。


 《宣告者:王女→勇者。宣告内容:再審請求》


 紙がわずかに熱を帯び、文字が溶け込むように消える。広場では、王女が口を開き――かけて、言葉に詰まった。隣の金髪の勇者が、一歩前に出る。民衆がざわつく。勇者は大きく息を吸い、王女の前に片膝をついた。

「陛下――」

 彼は言った。台本に書いた通りの台詞ではない。けれど、“再審”を求める趣旨の言葉だ。王女の眉がわずかに動く。群衆のノイズが高くなる。処刑人が戸惑い、斧の刃がわずかに下がる。

「……効いてる」

 思わず呟くと、勇者の俺が頷いた。

「だが、反動も来る」

「反動?」

 言った瞬間、紙片の端が黒く焦げた。空欄の台本の空白が、ひとつ、勝手に埋まる。《妨害者:――》。行を埋めるインクが、蛇のように這い、名前を描く。読み取れない。だが、こちらへ向かってくる気配だけはわかった。

 冷たい風が吹いた。城壁の上、見張り塔の影から、黒い外套の人物が姿を現した。フードの奥で、光が二つ、細く笑う。彼は指を鳴らした。処刑台の下、俺を囲む兵士たちの鎧が、一斉にきしみ、俺の足元の鎖が音を立てて締まる。

「やばい」

 空欄の台本が震え、指が勝手に動いた。書く。書かなければ、押し潰される。俺は紙に爪を立てるようにして、乱暴に文字を刻んだ。


 《乱入者:篠崎蓮(現実)。登場地点:台の影。登場時効果:鎖、解錠。》


 ぐん、と視界が引き寄せられた。足元がふらつく。気づけば俺は、城壁の陰ではなく、処刑台の影にいた。木の匂い。雨に濡れた布の匂い。目の前で、縛られた“俺”が、驚いたように目を見開く。

「誰……」

「俺だ」

 短剣で鎖を叩く。鍵穴に刃を差し入れると、金属があっけなく外れた。書いた通りに“解錠”が起きたのだ。兵士が気づくより早く、俺は悪役の俺の腕を引く。

「走れるか」

「……走る理由が、できた」

 彼は微笑んだ。かすかだが、確かな笑み。俺はその笑みに、救われた。二人で台の下をすべるように抜け、観衆の足元の間を縫う。怒号。驚き。斧の刃が空を切る音。勇者の俺が別の側面から飛び出し、兵士の注意を引いてくれているのが見えた。白いマントが雨に濡れ、剣筋が光る。

 城門まで十歩。九、八――。

 そのとき、黒外套の男がこちらへ手をかざした。空気が重くなる。足が床に貼り付く。動かない。紙片が手の中でもがく。だが、空欄はもうほとんど残っていない。書けない。書けなければ、止まる。止まれば、終わる。

 俺は、悪役の俺の手を強く握った。

「俺は俺だ。お前もお前だ。誰にも書かせるな」

 言って、自分の掌を見た。じんじんと熱い。指先から、さっきと同じ光がにじむ。紙がなくても――書けるか?

 床に貼り付いた足元に、俺は指で“線”を描くイメージを強く思い描いた。拘束、解除、自由――。

 次の瞬間、足元を縛っていた見えない力が弾けた。石畳に、光の線が走り、縄を断つみたいにぱちぱちと火花が散る。動ける。走る。走る――!

 城門の影に飛び込んだ瞬間、背後で鋭い金属音がした。振り返ると、勇者の俺が黒外套の男と刃を交えている。男のフードの奥の光が、じろりとこちらを見る。氷みたいに冷たい視線。

「台本は、こちらのものだ」

 男が、俺に向けて指をすっと下ろした。世界が少し傾く。視界の端が黒く縁取られる。気を失いかけた俺の耳に、勇者の俺の声が飛び込んできた。

「行け、蓮! 今は逃げろ!」

 悪役の俺が、俺の肩を押す。

「行こう。まだ、終わってない」

 俺は頷き、城門の向こうの暗がりへ身を投げた。背中で、誰かの怒号と、鐘の連打と、雨が一斉に降り出す音が混ざり合った。


 世界は、確かにぶつかり合い始めている。


 ――俺は、誰の台本でもない“俺の物語”を書きに行く。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ