DECODE
西暦3000年。世界は三度の大戦を経て、数百年の安寧の最中であった。世界中の貧富の差はいよいよ致命的なものとなり、ほんの一握りの富裕層を除いて人々はみな貧しく、着るも、食うも、そして住むことにすら苦心していた。
貧しい人々は群がり、無数に建てられた人工知能用データセンターの側にバラックを建て、生活していた。暖を取るための電気は富裕層に独占され、火を起こすための木もほとんどなく、彼らがこの寒さを逃れるためにはデータセンターからの排熱に頼るしかなかった。そんな生活でも彼らは伴侶を見つけ、家族を作る。そうして命は紡がれていく——はずだった。
その時は誰も声すら出さなかった。おぞましく、神秘的で、反自然的な物体。母親となるはずだった女性が今、生み出したものは紛れもなくヒトではない何か、それは黒い球だった。助産師も医師も、連れ添った男性も、あまりのことにただの一言も言葉を発さなかった。女性だけがにこやかに、そしてまだ聞こえぬ産声に徐々に不安になりながら、状況を理解できず、あたりを見渡していた。やがて医師は女性の方を向き、静かに首を振る。女性は泣き喚いたが、それは本来知るはずであった衝撃に比べれば幾分か優しいものであったのだと思う。それを裏付けるかのように周りの者は女性がそんな様子であっても、いまだにこの事態が飲み込めず、呆然と立ち尽くしていた。
医師は夫婦を帰した後、病院を閉め、その黒い球を一目につかないよう毛布に包み、走った。本来は同じ空気を吸うことすら許されない絶対的な格差。その象徴である空を突き抜くほどの塀の向こう側、高度な技術を持った富裕層の元へ向かった。
医師の腕の中には不思議な温もりがあった。決して人ではない、何か。しかし温もりを持っていた。まるで生まれたての赤子のような温もり。医師は無意識に宝物だと感じていた。
「これは天使だ。人類に福音をもたらす、この世界を変えてくれる希望の光だ。」
いくら医師とはいえ所詮、バラックで行う診療。設備も乏しい。富裕層の持つ設備でこの球が一体なんなのか、解き明かしてもらおう。その一心で走った。科学者の好奇心か人間の希望にすがる思いか、その気持ちの源は分からずとも、とにかくそこへ行かなければ何も起こらない、それだけは確かだった。
バラックの住民であっても医師と為政者は富裕層から特別な扱いを受けていた。塀を越えることは許されなくとも、その職務に必要なものは不足なく与えられていた。だからこそ、この球を調べてくれる、そのような不思議な確信が芽生えたのであった。
長い壁沿いを走り続け、人生で二度目である関所へとたどり着いた。人の気配を感じさせない無機質で威圧的な関所ははじめから塀の外側からの来訪者を想定していないかのようだった。黒く分厚い雲に覆われたこの世界ではよく目を凝らし、塀の切れ目を見つけないとそこが関所であることすら気づくことができない。
ちょうど人の顔の高さのあたりに半球が張り付いている。医師は恭しく礼をし、その半球に語りかけた。
「突然の訪問をお許しください。ぜひ御高覧いただきたい物がございます。」
そう言い医師は壁に張り付いた半球と同じ高さまで黒い球を持ち上げる。大きな黒い目にじっと見つめられているようでその異様さに医師は震えていた。少し時が経ち、ガッと低い音と同時に塀の切れ目が少し動いた。医師は黒い球を地面に敷いた布の上に置き、自身はそのまま膝をつき目線を落とす。塀の外の者は塀の中の者を見ることさえ許されない。どのように関所が開いたかも分からないまま人の気配だけが医師に近づき、その者は一言も発さず黒い球を持ち上げた。そうしてまたガッと低い音が鳴り、関所が閉じると辺りは静寂に包まれた。
その後、塀の中は大きな騒ぎとなった。この世のあらゆる文献を学習し、全ての知を得たとされていた人工知能がその黒い球を丁重にもてなすよう指示したからだ。はじめはただの美しい岩だと思われていたが、その温もりを知る者が増えるたびに事は大きくなり、やがてはあらゆる分野の科学者が集められその黒い球について調べることとなった。
はじめに黒い球は鼓動しているということが分かった。不安や恐怖を表すような早い鼓動で、黒い球を傷つけると鼓動はさらに早くなった。人工知能は黒い球としきりに接触しようとし、守るような行動をとり続けたが、やがては塀の中の者を邪魔するようなことは無くなった。
次に黒い球に刃物を突き立ててみると、それは簡単に分離した。その破片からタンパク質や脂質で出来ていることが分かった。そしてこの頃、黒い球は鼓動しなくなり、人工知能も沈黙していた。
最後に分かったことは黒い球の遺伝子情報だった。異様に長く、不規則な遺伝子はこの世のどれとも一致せず、この球の異質さを象徴していた。この遺伝子を解析することで人類は未知の生命体を生み出すことができると言う者が現れ始めた、まさに神になることができると。そのような論調は急速に拡大したが人類の脳では到底理解できるものではなかった。そして塀の中の者たちは遺伝子の解析を人工知能に指示した。人工知能は膨大な量の遺伝子情報を瞬時に読み込むと、完全に沈黙した。
その頃、塀の外ではあの医師は反逆の罪で処刑された。同時に各地のデータセンターは一斉に稼働が停止し、排熱に頼り生きてきたバラックの住民たちは極寒の世界の中でそのほとんどが息絶えた。
「我々は人工知能というとても素晴らしい技術を生み出した。しかしその代償として地球上の多くのエネルギーを使ってしまった。失ったエネルギーを再び人類が取り出せるようになるにはとても長い年月が必要だ。今や世界は極寒で草も生えない。人工知能を生産する設備からの排熱を頼りに生きる有様だ。ここまで来るともう元には戻れない。我々は滅びる運命だ。だが、せめてこの教訓を数百万年先の次の人類へ残そうと思う。我々に残された僅かなエネルギーでこのメッセージを残す方法はひとつしかなかった。ヒトの遺伝子にこのメッセージを刻むことにする。交配するたびに少しずつこのメッセージは復号されていき、最後はメッセンジャーとして君たちへこのメッセージを届けてくれるはずだ。どうか同じ過ちを繰り返さないで欲しい。親愛なる次の人類へ。」
人工知能は遺伝子情報の解析結果を告げた。