地下鉄
銀座四丁目の交差点を渡りながら、藤谷信一郎は、並んで歩く水野舞子の横顔を盗み見ていた。鼻筋がとおっていて、かたちのいい唇をしていた。その唇を味わったのは最近のことである。今日は京橋のレストランで夕食を奢った。
すでに日は暮れていたが、夏の夕刻は蒸していた。歩道にはビルから洩れる照明と街灯の光がたまっていた。
銀座は、それでも人びとの賑わいがあった。
歩きながら、藤谷信一郎は、日比谷のホテルへの道順を思い浮かべていた。
「疲れたかい?」
隣の水野舞子に訊いた。彼女は首を横に振った。会社では上司と部下の関係である。藤谷がひとまわり上になる。きっかけは、飲み会の二次会の帰りに藤谷のタクシーに水野舞子が同乗したことだった。車内で藤谷は水野舞子の手を握りしめた。拒絶の抵抗はなかった。その日は酔いも手伝って、気持ちが積極的になっていたのだと思う。
今夜は、その水野舞子の豊かな肢体を思いきり堪能するつもりだった。
「静かなところで飲みなおそう」
藤谷は水野舞子の横顔を見て誘った。
「ごめんなさい、用事があるんです。今日はこれで失礼します」
意外な相手の反応に藤谷は驚いて立ち止まった。
「用事って、大事なことかい? まだ、いいじゃないか」
「……母の作ったすいとんを一緒に食べる日なんです。今日は終戦記念日ですから」
水野舞子が母親と二人暮らしなのは聞いていた。だが、すいとんとは奇妙である。
「お母さんと、すいとんを食べるのかい? それは、君のうちの風習なの?」
「亡くなった祖母のいたときからの習慣なんです。食べながら祖母の戦争体験の話を聴いてました」
ふうん、と藤谷は反応した。辛気くさい一家だ。水野舞子への欲求が減殺するような話である。
藤谷は、感情を抑えて言った。
「わかった。また、連絡するよ」
「失礼します」
そういうと、水野舞子は頭を下げて、有楽町駅の方向へ去っていった。
その後ろ姿に目をやりながら、まぁ、いい、と藤谷は思った。水野舞子はすでに自分の掌中にあるも同然だった。そのプロセスにいささか手間がかかるほど、あとの喜びが大きいというものだ。雑踏のなかで藤谷はひとり笑みを浮かべた。
数寄屋橋の地下鉄の昇降口から藤谷は地下へ降りた。四丁目に戻る格好だったが、銀座線の改札口へ地下道を歩く。渋谷の馴染みのバーへ行くつもりだった。予定変更だ。
階段をホームへ降りると、前照灯を輝かせて、ちょうど電車が来たところだった。
ホームドアが開く。藤谷は車両に乗り込むと空いた座席に腰掛けた。車内は乗客でやや混雑している。座った乗客が申し合わせたように携帯を操作しているのは、見慣れたいつもの光景である。藤谷もメールを確認しようと、携帯を手にした。
電車が走りだした。
……そのときである。カチッ、と音がして、車内が一瞬暗くなり、予備灯の暖色のあかりが点灯したあと、すぐに車内灯がともった。第三軌条から車両に電気を取り入れる為の集電靴の位置が切り替わる音だった。電気が途切れる為に瞬間的に照明が消える。
藤谷は、おや、と思った。これは古い銀座線の車両の特徴ではなかったか。ここで、初めて藤谷は車内の変容に気がついたのである。
先ほどまでの携帯を操作する乗客の姿も、明るい車内の内装も消えていた。
藤谷の隣に座っているのは、夫婦者らしい男女だったが、ぼそぼそ話している。衣料の点数切符で洋服を新調する、という話、シンガポール占領の話題と、出征した甥の安否のこと、モーターの音に紛れながら、切れ切れに聞こえる夫婦の会話だった。
向かい側のシートには、荷物を床に置いた着物姿の老婆、その隣には、詰め襟の学生服を着た学帽をかぶった男性、そしてカーキ色の国民服を着た中年の男性が座っていた。
藤谷信一郎は、目の前の光景が信じられなかった。この車両は、いったいどこを走っているんだ!
その古い、昭和9年製の銀座線1200型の車両は8月15日になると、路線で目撃されることがあるという。




