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三十の巻 事件のち公方様

 (ふすま)を開けるとすぐに何かが起きていると気づく。何故なら、開け放たれた瞬間、流れ出す空気の中に、もわっとした血と尿の匂いを感じたからだ。


 (これは……)


 暗闇となる部屋を照らそうと、私は無意識で帷様に預けた手燭(てしょくを)を奪う。そして部屋の中にそのまま手を伸ばす。


 手燭のゆらゆらと揺れる橙色(だいだいいろ)の光の中。宇治(うじ)の間に敷かれた畳の上には、私と同じような藍色の小袖に身を包む女が転がっていた。


 ここからでは顔がよくわからない。しかし髪は大きくみだれ、解けている。

 片手は何かを掴もうとしたのか大きく伸びきっており、畳には爪で引っ掻いたような数本の筋が出来ていた。

 

 見た目に大きな傷は見当たらないものの、私は確かに血の匂いを感じている。


 (一体どこから?)


 疑問に思い、もう少し良く観察しようと一歩近づき、私は転がる女と目があった。


 この瞬間、私は初めて動揺する。何故なら。


「お(なつ)さん……」


 畳で悶絶(もんぜつ)したような表情で固まったまま、息絶えていると思われるのは、先日長局(ながつぼね)の前で、台所仲間のお寿美(すみ)ちゃんと共に、根掛(ねがけ)の事で言い争った彼女だったから。


 あの時の彼女は私達を言いがかりだと言って、睨みつけていた。しかし現在、お夏さんの(きつね)のような、横にスラっと伸びた涼しげな目元は歪んでおり、瞳はカッと見開いたまま、私ではなく宙を睨んでいる。そして何より、染み一つなかったはずの顔には、赤紫色をしたうっ血の跡が見受けられた。


 (なんで、お夏さんが)


 状況を受け入れるにつれ、一体何があったのだろうかと、極々自然な疑問が湧いた。


「あ、耳から血が」


 部屋に漂う血の匂いの原因かも知れないと、さらにお夏さんに近づこうとして、突然目の前の視界が遮られた。


 次の瞬間、帷様の腕が伸ばされ力強く私を抱き込んだ。その結果、私は帷様の胸元に自分の顔をギュッと押し付ける形となってしまった。


「と、とば……殿様(とのさま)。化粧がついてしまいます」

「それ以上、見てはならぬ」

「え、でも」


 流石に死体を見る事は好きではないし、出来れば避けたいと思っているほうだ。けれど、生まれた時から伊賀者(いがもの)である私は、普通の十七歳の生娘(きむすめ)ではない。


 今までも任務で死体は見た事があるし、何なら、この手で闇に(ほうむ)った者すらいる。その事に後ろ暗さを感じてはいるが、それが私に課せられた任務なのだから、仕方ないと割り切って生きている。


 だから誰かの死に恐怖を覚えること。

 その事に私は人より鈍感になっている。


 よって「大丈夫だ」と、言おうとして。


「俺はこんな現場を見せるために、ここにお前を(かこ)ったわけじゃない。だから見るな」


 絞り出すような声で告げられ、私は言おうとしていた言葉をのみこむ。


 深い意味は良く分からない。


 (それに囲ったとか、意味深(いみしん)だし)


 それを詳しく尋ねたい気持ちはある。それに私はか弱くないし、わりとこういうのは平気だとも伝えたい。


 けれど、帷様の声がいつになく真剣で、私を抱き込む腕が微かに震えているのを感じた途端、なにも言えなくなる。

 何より、私の事を思って言ってくれた言葉だということ。それはこんな私でもちゃんと理解できたからだ。


公方(くぼう)様、検死が必要かと思われますので、検使(けんし)を呼びます。よろしいでしょうか」

「あぁ、頼む。検使願(けんしねがい)は私が後日提出する。それから奥医者の曲直瀬(まなせ)と、大老(たいろう)柳生(やぎゅう)宗範(むねのり)にも知らせておいてくれ」

「かしこまりました。毒殺の可能性もありますので、公方様は一先ず中奥(なかおく)へお戻りになられた方がよろしいかと」

「わかった」


 近衛らしき人物と会話を交わした帷様はようやく私を離してくれた。


 私は帷様に悪いと思いつつ、チラリと亡骸(なきがら)に目を向ける。すると視界がすぐに紫色で埋まった。帷様が私の視界をまたもや、己の体で強制的に遮ったからだ。


「話がある。そなたも来い」


 すっかり将軍の顔に戻った帷様は、厳しい声で命令すると私の肩を掴んだ。そして私の体をくるりと回し、廊下に向かって背中をちょんと、指で軽く押す。


 どうやら、私を無理矢理でも宇治の間から退出させたいようだ。


 (これは帷様の優しさか……)


 それを無下(むげ)にしてまで観察したいかと問われると、微妙だ。


 仕方がないので、私はトボトボと肩を落とし部屋の外に出る。


「他の者は騒がず、柳生が来るまでこの場を守れ。どんな最期を迎えようとも、面白おかしく(さら)す事があってはならぬ。わかったな」


 帷様が何事かと近づいて来た、御広敷添え番達に指示を飛ばす。


「はっ」


 神妙な顔で頷く、御広敷添え番の面々。


「いくぞ。正輝、お前もついて来い。この者から事情聴取をせねばなるまい」

「はっ」

「では参る」


 帷様が歩き出す。そして正輝が私の背後に立ち、早く歩けと言わんばかり、ドンと強く背中を押した。そのせいで私は前のめりになりながら、歩き出す事となる。


「ちょっと押さないで。ちゃんと着いてくから」

「わかればいい、さっさと歩け」


 (なによ、偉そうに)


 多分さっきの仕返しだ。その事に気付いたが、どうしようもない。

 私は渋々、前を歩く紫色の大きな背中を見つめながら足を進めるのであった。



 ***



 先程はお仙ちゃんと、半ば見学気分で歩いた御殿(ごてん)内。帷様は「勝手知ったる我が家の庭」と言った感じで、右へ左へと迷わず進む。


 その迷いなき足取りの跡をつけながら、私は段々と憂鬱(ゆううつ)な気分になってくる。


 なぜなら。


 (やっぱり、帷様は光晴様なんだ)


 嫌でもその事を実感するからだ。


 そしてその事実を知ってしまった以上、今までのように接する訳にはいかないと思う。何故なら私は、後ろにいる正輝と双子だからだ。


 宗門人別改帳しゅうもんにんべつあらためちょうに名の乗らぬ私は、この先も決してひなたを歩く事はない。何かにつくられた影の中でしか生きる事を許されない宿命を背負う者だ。


 (だから、帷様のお側をあまりうろつかないほうがいい)


 桃源国(とうげんこく)を支える征夷大将軍であるお方にまとわりつく染みとなってはいけない。


 しばらく忘れかけていた、私の中から消えない、(よど)んだ気持ちが蘇る。


 悶々とする気持ちの中、何より残念なのは、私の料理をもう二度と「うまい」と言ってもらえないことだと気づく。


 一丁前に人並みな夫婦の真似事をして、その状況を私は結構楽しんでいた。


 (おままごとは終わり)


 私は一時でも、経験できたその記憶だけで、生きていく。


 決意したのと同時に、前を歩いていた帷様が足を止める。そして正輝が襖を開け、室内を素早く確認した。


「大丈夫なようです。今灯りをご用意致します」


 正輝が告げると帷様は頷く。


「ここならば、話が出来るだろう」


 帷様が部屋に入り、慣れた様子で(はかま)をさばくと、畳の上に直に腰を下ろした。

 正輝が手際よく行燈(あんどん)に火を灯し、既に畳の上に腰を下ろした帷様を見て息をのむ。


(しとね)を今すぐにご用意致します」

「いらん」


 正輝の言葉を帷様が短く遮る。


「御意」


 正輝は軽く頭を下げてから、襖の横に立つ。


「座ってくれ」


 帷様に言われ、私は部屋に入る。すると待ってましたとばかり、背後にいる正輝が、ピシャリと勢いよく襖をしめた。


 (何もそんなに勢い良く閉めなくても)


 正輝の態度を不満に思いながらも、恐る恐る帷様の前に正座した。


 そして最悪の場合に備え、脱出口確認とばかり、襖にチラリと視線を送る。すると襖の出入り口を遮るように正輝がしっかり腰を下ろし、私の逃げ場を()っていた。


 (こういう時だけ仕事が早いんだから)


 心の中で文句を言いながら、私は目の前に座る帷様の顔色をうかがう。帷様の表情は相変わらず硬いものだ。


「騙すつもりはなかったのだが、結果そうなってしまった。すまぬ」


 帷様は開口一番、謝罪の言葉を述べると同時に、私に対し頭を軽く下げた。


「いえ、きっとご事情がおありなのでしょうから、私ごときに謝罪などなさらないで下さい」


 私の口からは、自然に物わかりの良い答えが飛び出す。


 どうやら抱えていたはずの怒りを何処かに置き忘れて来たようだ。不思議なもので帷様を前にした私は、()いだ海のように静かな感情に支配されている。


 (そっか、私はくノ一だから)


 感情を押し殺すのは慣れている。だから本音を漏らさぬよう、自然に防衛本能が働き、この状況を自分に納得させようとしている。


 私はやたら穏やかに整う気持ちを理解した。


「そなたが怒らぬのは、これのせいか」


 帷様は肩口に白抜きされた、東雲(しののめ)の紋を手でつまむ。


「そうかも知れません」

「なるほどな」


 帷様は、東雲家を表す尊き、丸に三つ重ねの雲を虫がついたかのように指で(はじ)いた。まるで帷様自身がその御紋(ごもん)をうっとうしい、そう思っているかのような態度だ。


「何か私に聞きたいことはあるか?」


 (そりゃ色々あったけど)


 いざ話してみろと言われると、どこまで立ち入った質問をしていいのかわからなくなり、なかなかうまく言葉に出来ない。

 

 しばし悩んだ末、私は今一番気になる事を質問する事に決めた。


「さっきの、宇治の間にあったご遺体についてですが、御末(おすえ)であるお夏さんだと思いました。とば……公方様も一度井戸部屋でお会いしたと思うのですが、お夏さんだと思われますか?」

「…………ああ」


 長い沈黙のあと、短く肯定する帷様。


「お前が狐のようだと言っていた女で間違いないだろう。というか、俺はお前を騙すような事をした。その事について何も思わないのか?何故普通に会話が出来るのだ」

「何故と言われても、特に思う事はありません。むしろ帷様が公方様だと判明し、幾つか不思議に思っていた事が解決したので、すっきりしました」

「その幾つかとは何だ」


 (え、言わせるの?ここで?)


 咄嗟にそう思ったが、帷様が私を見つめる目は真剣で、何だか誤魔化していい感じではない。


「すでに正輝……兄から聞いてご存じかとは思いますが、私は帷様が夜中に長局(ながつぼね)を抜け出し、使われていない井戸に消えた事を知っております。それに、大奥は基本的に男子禁制です。けれど帷様は(なん)なく潜入を許されている。それって、帷様が公方様だから許される事なんだって、そう思ったらしっくりきました」

「そうか」

「あ、それと、帷様が趣味で女装をしているわけじゃないことも。寵愛されていた伊桜里様を思うからこそ、女装までして大奥を探っていた。だって公方様として大奥にお渡りされたら、みな本当の事を口になんてしないから」

「確かにな」

「あともう一つあります。それはみんなが公方様はこんな御方(おかた)だと口にする特徴が、帷様そのものだったんです」

「ほう」

「それから……もういいですか?」


 私は得意げになって自分ばかり話していた事に気づき、途端に恥ずかしくなる。


 (しかもつい癖で帷様って言っちゃってたし)


 私にとって馴染みある帷様は、気軽にその名を口にしてはいけないくらいの御方。いわゆる天上人(てんじょうじん)なのである。


 (早く慣れなきゃ)


 先程までは、以前と同じようにはいかない。そう思っていたくせに、つい本人を目の前にすると、いつもの調子に戻ってしまう。


 この症状は、なかなか厄介だ。


「まだ言い足りない事があるなら、全て聞くぞ」

「いえ、大丈夫です」

「そうか。では、こちらからも一つ良いだろうか?」

「なんでしょう?」


 (願わくは今までの無礼を、そして非礼を(とが)める言葉じゃなきゃいいんだけど)


 帷様の口から一体何が飛び出すのか。

 私は緊張しつつ背筋を伸ばす。


「あと少しでいい。お前が嫌でなければ、今まで通りでいてくれないか」


 今までは将軍らしく、威厳ある態度や表情だった帷様。けれど今はまるで幼子が「あれが欲しい」とダダをこねるような、必死で懇願するような表情になる。


「私は、かまいませんけど」


 チラリと正輝をうかがう。


「帷様が願うこと。それはかなえるべきだろう。そもそも伊桜里様の件だって、未だ進展なしなんだろう?」


 私が頼るような素振りを見せた途端これだ。正輝が偉そうに口を挟んだ。


 (けど、悔しいけど、正輝の言う通り)


 何だかんだ新参者(しんざんもの)の御火乃番として大奥に馴染んできたが、実際の目的はそこではない。伊桜里様が残したと思われる書簡を探すことだ。


「幽霊騒ぎに、お夏の死。それにお前が無くした根掛の謎」


 帷様がポツリポツリと言葉をこぼす。


「俺はこの謎を解きたい。そのためにお前の協力がどうしても必要だ。だから今まで通り俺を「帷」と呼んでくれ。頼む」


 そう言って、深々と頭を下げる帷様。その姿に、私は慌てて声をかける。


「ちょっ、ちょっと顔を上げてください。私に出来ることであれば喜んでご協力致します。ですからどうか、頭をお上げください」

「ありがとう。助かる」


 帷様は心底ほっとしたように頭をあげると、ふっと肩の力を抜き、微笑んでくれた。


 (そんな顔をされると、なんだか照れちゃうんですけど)


「ただ、あの、私も一つだけお願いが……」

「何だ?遠慮せず言ってくれ」


 私はゴクリと唾を飲み込み、意を決して願い出た。


「知らなかったとは言え、私も数々のご無礼を帷様に行ってしまったと思います。けれど、それは、その……」

「何だ?はっきりと申すが良い」

「思い切って全部水に流して頂けると、ありがたいです」


 私はテヘヘと精一杯、可愛らしく微笑んでみた。

 貴宮様から盗んだ、忍法「あざとさ返しの術」である。


 そんな私を見て、帷様はきょとんと目を丸くしたあと、くすりと笑みを漏らした。


「承知した」


 微笑みながら許してくれる帷様。その笑顔は国中の女性が失神してしまうくらい、破壊力抜群の素敵な笑顔だった。


琴葉(ことは)、お前が今口にしたその願いすら、既に充分失礼なのだが……」


 正輝が呆れた声で呟いたけれど、私は聞かなかったことにしたのであった。

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