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一月三日

作者: quiet


 実家に置いてある漫画を読んでいるうちに、どうしてもその続きが気になって、一人暮らしの部屋に戻る途中で本屋に寄ることにした。


 新宿。

 電車の乗り換えにはよく使うけれど、改札の外まで出たことはめったになかった。思いのほか三が日のうちから人の多い山手線を下りて、夜、ふらふらと歩いた。調べると、そんなに歩かないうちに大きな本屋に入れるらしい。


 私は人ごみというのがまったく得意じゃない。

 中学生のころ、田舎の若者らしく友人と連れ立って長々電車を乗り継いで東京まで出てきたことがあったけれど、そのときも三十分もしないうちに人の多さに目を回してしまって、友人の真っ白なパーカーの背中を追いかけるのが精一杯だった。


 今でもそれは、大して変わっていなかった。

 駅から出てすぐの周辺地図看板をじっと眺めたときには、私も結構都会慣れしたな、なんて思ったのに、行きたい場所はそのどこにも書いていなくて、とりあえず、と人の流れに沿って歩き出すことにした。私は目的地を定めないまま動き始めてしまう癖があって、すぐに迷子になる。徒歩一分の場所で一時間迷うなんてことは日常茶飯事だから、三十分くらいまでは最初から覚悟していた。


 思ったよりも早く、自分が逆方向に進んでいたことに気が付けた。信号を待っているときに振り向いたら、そっちにでっかく看板が輝いているのが見えた。自分の注意深さを誇りつつ引き返したけれど、途中のスクランブル交差点でひどい目にあった。どうやって歩いたらいいかわからなかったのだ。私の前にいた人はすいすい向こう側に渡っていったのに、私は人波に呑まれて三段階右折を強いられた。日頃から、普通に生きているだけなのにやたらに向こうから来る人が私にぶつかるようなルートを取ってくることもよくあって、なんだか世の中はそういう些細なところでも理不尽だと思う。


 ところで、そうして横断歩道を歩いているうちにふと気が付いたのは、私が自分で思っていたよりもずっと人を観察しながら生きているということだった。すれ違うだけの人たちに視線を送るたび、なぜだかその人が何をしているのか、どういう人なのかを考えている自分に気付いた。

 横断歩道の先にあった靴の店にたくさんの人がいるのを見て、あの人たちはどういう生活や人生を送っていて、何のためにこの一月三日から買い物に来ているのだろう、とその理由を考えているときに、ひょっとすると普段から常にこういうことを私は無意識にしていて、それで人酔いが激しいのかもしれないと思った。

 田舎の、それこそ私の地元のようなところだったら、そういう生き方も可能かもしれないけれど、新宿ではとても人が多すぎて摂取する情報を処理しきれない。もう少し頭がよかったらもっと人ごみに強かったかもしれない、と思い、この場所に溢れている人たちすべての人生を考えこみながら歩けたらどれほど楽しいだろう、と夢を見た。もっと頭がいい人になってみたい。そう思う。


 横断歩道を渡ればあとは簡単だった。大きな看板が外に出ているから間違えようがなかったし、それに何階に何がある、ということまで丁寧に入り口に書いてあった。にもかかわらず、私は気付いたら漫画も何もない空間に足を踏み入れていた。四方八方、どこを見ても文庫本しか見当たらない。後でもう一度案内板を見ても、どうやって自分が階を読み取りちがえたのかさっぱりわからなかった。ときどき、世界は私を騙しているんじゃないかと思う。


 ついでだから、とうろうろあたりを見回ってみた。本屋では、その並べ方を見ると、こんな本が流行ってるんだという発見ができる。ハードカバーで読んだ本が文庫になって平積みされているのを見ると、やっぱり人気になった、とちょっと誇らしくなったりする。

 店内を歩き回っているうちに、本を探して移動する、ということに不思議な心地を覚えた。普段だったらインターネットで数クリックもすれば必要な情報は出てくる。けれど今は、天井近くの吊り看板を見ながら区画を探して、棚の裏に何があるかを歩き回って確かめたりしている。ふっと、インターネットが先にこの世にあって、それからただ指先を動かすだけでは味気ないから、と宝探しのように本屋が生まれたような気がした。動きながら何かを探す、というのはエンターテイメントだった。


 すれ違う人の一人が、うっすら口元に笑みを浮かべているのを見て、私は仲間意識を覚えた。本がたくさんある空間にいると、それだけで楽しくなってしまう。他にも同じ人がいるだろうか、と本から人に目を移してみると、思いのほか店内に人が多いことに気が付いた。

 疑問に思ったのは、これだけ人のいる場所で、なぜ今まで自分がくらくらしてしまわなかったのだろうということで、すぐに自分で答えを出した。みんな本を目当てに来ている人たちだからと、無意識に人の目的や生活を測ることをやめていたのだ。

 でもそれだけじゃないはずだ。本が目当て、というのは大雑把すぎる。ミステリが目当て、海外SFが目当て、時代小説シリーズが目当て、それぞれがそれぞれに特色があるはずで、私はもっとそういうところを気にしてもいいはずだ。そうしないのは、結局私が、本というものを本というくくり以上に細かく見ていないからなのかもしれない。本と生活では本の方が好きなのだと思っていたから、これは意外なことだった。


 案内板をよく確認すると、漫画だけは別館にあるということで、私は店から渡り通路に出て、何となく歩き出した。どちらが別館かわからない段階から足は動いていたけれど、途中でちゃんと矢印が見えたので安心した。

 通りすがりに、海外ミステリのランキングが店頭に並べられていた。一冊を手に取る。裏を見ると、外貨表示の上に、日本円を表記したシールがある。中身を見ると特に差し支えない程度の英語で書かれていたので、一瞬買おうかと思った。けれど、なぜ日本語の本を買うときは入念に下調べをするようになったのに、洋書だけはフィーリングで買おうとするのだろう、という自分への問いかけに答えられなかったので、そのまま先へ進んだ。


 目当ての漫画が本当に置いてあったのは、まったく予想していないことだった。

 小さな本屋を使う癖がついていると、何か明確に欲しい本がある状態で本屋に行く場合、そうと決めた時点で失望の準備ができている。本屋というのは何でもいいから面白い本が欲しい、というときに行く場所であり、何か特定の本を求めて立ち寄ったとしてもおおむね望みは叶わない。そういう場所として私の中で位置づけられていた。


 喜んでその漫画を手に取って、会計を済ませ、階段のあたりで荷物を整理していると、その位置から見えるレジの人たちの後ろ姿が、みな同じような動きをしているように見えた。


 ついさっき、人々の情報が多様すぎて処理しきれない、ということを考えていただけに、それは私の心にくっきりと残った。歩きながら考えた。普段外出しないために、階段の段が妙に低くて力が要るだとかそんな細かいところまで気にしながら。

 あのレジの人たちを重ね合わせたら、ときどきは完全に同じ動きをしている人がいるんじゃないか。空間だけで考えなくてもいい。時間を含めて四次元的に私がものを見ることができたとして、やっぱりその場所で同じ動きをしている瞬間があるんじゃないか。そう思うと、ついさっき手に取った洋書の前を歩くときも、私がしたのと同じように手に取った人がいるかもしれない、と頭に過った。


 建物の外に出ると、巨人が横たわっていてぎょっとした。ぎょっとした直後、それが看板に大写しになっているだけの人だったということがわかり、今度は自分にぎょっとした。本当に現代社会で暮らしているのだろうか。普通の人は、看板を見て巨人と勘違いしたりはしないと思う。


 帰り道、さっき手こずったスクランブル交差点を避けながら、駅への道を辿った。今にして思うと、自分が来た道をちゃんと戻れるだけで感動ものの地理感覚の成長だ、と感じるけれど、そのときの私は、とにかくこんなことばかりを考えていた。


 歩いたり、ものを見たりするのは、楽しい。


 ビルの三階にはカフェが入っていた。人が動いているのが見える。この時間にコーヒーを飲む人たち。これから何をするのだろう。家に帰るのだろうか。それとも買い物?

 信号の向こうで、人と人がキスしているのを見た。どんなキスだったんだろう、と考えてしまった。何でもないじゃれ合いのキスだったのかもしれない。それとも長い長い物語の末にあった、どうしてもそうあるべきだったキスなのかもしれない。


 もしも時間を含めた、四次元で私がものを見ることができたら。


 あの建物から出てきた大学生が、今日何をして過ごしたのかわかるかもしれない。つらい過去から立ち直った、その経緯が見えるかもしれない。

 数人の高校生たちの間にある人間関係が見えるかもしれない。仲が良いのかもしれないし、実は複雑な思いを絡めているのかもしれない。本人たちすら知らない、生い立ちの対称性を見つけることができるかもしれない。

 どこに行く、と囁いてすれ違った二人組の、これからの行き先のすべてと、これまでに済ませてきた用事のすべて、それからどうして今日という日に出かけることにしたのか、その理由もわかるかもしれない。


 あふれている、と思った。

 人生と、生活と、物語が。


 街に、というだけではない。

 人に。人のひとりずつが、膨大な時間と経験と、それから思惑と未来を抱えて生きている。大型ビジョンから広告を流す高層ビル群の下、あまりにもちっぽけな身体で動いているのに、たった一人分だって把握できないような情報量を内に秘めて、何でもないような顔で人々は生きている。


 長い長い時間を、たったこの一瞬に濃縮された人間が無数にいて、私の周りを歩いている。

 私はその人たちの、いつまで正月休みなんだろう、なんて些細なことですら、ひとつも知らずに生きている。


 もう一度赤信号で止まって、私は耳を澄ました。

 この濃密な人たちは、一体どんなことを話しながら生きているんだろう。それはほとんど聞き取れなかった。日本語で、ちゃんと届いているはずなのに、言葉の意味として捉えられない。そういうことがあるのか、と驚いた。私の理解できない語彙を使っているからかもしれない。文脈が掴めていないからかもしれない。どうでもいい、関りのない他人の声は聞けないように作られているのかもしれない。何にせよ、この人の群れの中で私は言葉を理解できず、取り残され、生活の断絶というものに思いを馳せ、最終的に、ひとつだけ単語を聞き取った。


 ゆめかわいい。


 あんまり考えている時間が長かったから、家に着いたら文にしようと、そう思っていた。できれば小説にしたい。小説にするなら、やっぱり最後にオチがなくちゃいけないだろう。だったら、最後に聞こえてきたこの単語を別の、もっとそれらしい単語に置き換えてみるのが一番楽そうだな、と考えた。


 そうだな。大丈夫、なんていうのはどうだろう。そうして私は何か大切なことに気付いてじんときて、なんてそんな言葉を取ってつけれみれば、きっと食べられなくはないものができあがるんじゃないだろうか。

 考えながら顔を上げると、ぽつん、とひとりで半月が浮かんでいるのが目に映った。



 あまりのことに私は笑ってしまった。



 だってあれじゃあ、寂しすぎる!




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― 新着の感想 ―
[良い点] オチがいい、雑踏と月の対比が綺麗 [一言] 心にジンとくる話だった
[良い点] 求めるのは、真実ではなく辻褄が合う物語といったとろこでしょうか。 ゆめかわいい。いい響きの言葉ですね。 大丈夫はまとまりすぎかな。
[良い点] 面白かったです。 主人公がぼんやりと物思いに耽りながら一月三日の町を歩いてるだけの話、楽しめました。 人のキスを見て『長い物語の末にあった、どうしてもそうあるべきだったキスなのかもしれな…
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