尖兵の戯言
美しい月光だ。白く、冷たく、朧げな。
不思議と眠気はない。だが、それは敵陣の最中ゆえの緊張感ではなく、絶景に見惚れる純粋な子供の好奇心からであった。
「綺麗なお月さんだ」
対面にしゃがむ老兵も目を細める。手負いの左脚はまだ動かぬまま、身体をくねり窓際へ寄った。顔の皺が浮き目立ち一層老けて見えるが、月に見惚れる恍惚は彼を若くしているように見える。
五人入るまでがやっとのような、吹けば飛びそうな廃屋。朽ちる前は倉庫だったのだろうか、数えるほどの農具が錆びれている。そこに彼、老兵は倒れこんでいた。最早壁に凭れる気力もなく、全身に脂汗を滲ませて唸っていた。
私は焦った。応急処置を施さねば命が危ぶまれる。そうして咄嗟に彼を助け、今に至る。原因を尋ねると、罠にかかったと云う。老眼で見えなかったのだろうか。罠の形状は報されているというのに。
やがて、月光が差した。硝子の外れた小窓から二人が照らされ、老兵の白髪と幾重にも刻まれた皺、私には千本針のはちまきがよく目立つ。
「綺麗だねぇ、兄ちゃん」
「ええ、そうですね」
先刻初めて会ったばかりの二人だが、全くといって根拠のない親友の如き親しさがあった。運良く敵に勘づかれることなく廃屋に隠れらているからであろうか。
窮地にて生まれる絆ほど固く、解けない。昔耳にした言葉を反芻する。
老兵は左脚の痛みを堪え、ひゅうひゅう喘ぎながら脈を整えた。
にかりと笑い、ぎこちなく云う。
「兄ちゃん、盗みってのを、したこんあっか?」
訛りがちの言葉に、どこ訛りだろうなどと考えながら、首を横に振る。
老兵は続ける。
「ぢゃあ、あん楽しさがわからんか」
楽しむために盗むのですか、尋ねる。
「たりめーよ」
屑だ。思わず口にした。
老兵はそれにくつくつと笑いながら、
「兄ちゃん、犯罪はなんで悪いと思う?」
突然の老兵の問いに、なぜそんな、と私は返す。だが、老兵は目を瞑り応えない。
老人の暇つぶしなのだろうか、観念した私は暫し逡巡し、言葉を選びながら答えた。
「法律で禁じられてるから、ですかね?」
老兵は私に目を合わせ、口の端をゆったり釣り上げて云った。「正解だ」
「集団で生きる人間は、法で縛らないと秩序がなくなる。秩序が失われること即ち種の危機。それは悪だな」
ぢゃあ、老兵が再び問う。
「法が無かったら、犯罪は悪だと思うか?」
私は、法が存在せず混沌とした世界を想像した。窃盗、犯罪が横行し、人が焼かれ、家が焼かれる。それを、法がないからと云って悪ではないと云えるだろうか。
悲哀と憎悪に満ちた無秩序な世界を、悪ではないと。
「悪だと思います。だから法は必要で――。」
「同じこと云ってるよ、兄ちゃん」
私の言葉を遮って老兵は一笑し、身体を私にぐっと近づけて指を立てた。彼の笑みが私の立腹を誘う。
「いいか、兄ちゃん。法がねえんだ。当然、秩序もへったくれもねえ。秩序がなくなることは考えんな。例えば、兄ちゃんが今ここで俺を殺したとしろ。それは悪か?」
馬鹿げているこの問いに、私は瞬時に答えを出すことができなかった。仮にこの場で老兵を殺したとして誰が悪と決めるのだろうか。家族、味方、老兵、それとも私だろうか。そもそも殺してはいけない理由とはなんだろうか。熟考した後、私は結論を出した。
「悪、ではないと思います」
「馬鹿か」
私は呆気に取られ、またも腹の虫が騒いだ気がした。この老兵は一体何をしたいのだろうか。
「その千本針は飾りか? 俺が死んだら悲しむ人にとってお前は悪だ。俺がお前を殺したら、千本針を丹精込めて作った人達が俺を悪と見なすだろ」
千本針のはちまき越しに額を指で撫でる老兵。確かに、このはちまきは母親を始め、何十、何百の人に縫われた愛の集合体。腹の立つ老兵だが、筋は通っている。
そこで、ふと私は老兵に疑問をぶつけたくなった。私を弄する彼への反抗だ。
「ですけど、その憐れむ人もいない殺人はどうなるんですか」
この疑問に老兵は間を置かず、
「兄ちゃん、死にたいか?」
私の口から素っ頓狂な声が出た。この老兵はさっきから変な言動が多いが、ひょっとすると狂っているかもしれない。
「俺は死にたくない!」
老兵は叫んだ。いよいよ狂ったか。だが、私の警戒とは反して彼は私から距離を置いた。彼は、何かを警戒している面持ちで云う。
「自分がされて嫌なことは他人にもしない。死にたくないのに、殺せるわけがねえだろ。しかも、殺すには、殺される可能性も孕んでる。誰かが悪いと思うじゃない。何を厭わず人を殺せる心を悪と思えない心が悪だろ」
私は、自分が殺人を悪ではないと答えたことを思い出した。人を殺してはならないなど常識であるのに、何故考える必要がある。なんて、未熟だっただろうか。
「確かにそう、ですね。私も死にたくないですし、殺すことは正当化でき、ません」
殺人の正当化など、すべきではない。
「わかってくれたか!? 兄ちゃんは若い。死なず殺さず、生きてくれ」
噛みつくように老兵は云い、表情を崩して壁に凭れた。その時、彼の襟から勲章のバッヂが解れ落ちた。そして、私はそのバッヂに見覚えがあった。
「敵だ」
私の発言で老兵も気づいたのか、或いは始めから気付いていたのか。観念したように老兵は目を見開いて震える右脚で立ち上がり、両手を挙げた。
「兄ちゃん、落ち着きなって。殺さないんじゃないのか。腰に拳銃、着けてんだろ」
無意識に、私の手は老兵の云う通り拳銃を携える腰に伸びていた。道理で、彼が罠にかかるはずだ。形状なぞ知っているはずがなかったのだ。
「なあ、兄ちゃん」
老兵が震える声で、震える腕で示した。
「今日は、月が綺麗だなぁ?」
月光に呼応して、人殺しを讃える勲章のバッヂが煌く。老兵の目は右往左往飛び回り、がくがくと震えている。
拳銃は、まだ一発も撃っていなかった。
一つお尋ねします、老兵に冷たく、白く、真っすぐに私は云った。
「人殺しを殺すことは、悪だと思いますか?」