たつこい
今日は風がやけに強い。
学校の屋上に立つ僕の髪が容赦なく乱れている。しかしうだるような夏の暑さの中では、この風は汗に染みて実に気持ちが良い,
はずだ。本当は。
しかし、今の僕はこの風で震え上がっていた。ただでさえ緊張で耳元に心臓があるのかというくらい拍動が聞こえてくるし、腹の底がキリキリと痛むのに、さらにこの風だ。出てきた冷や汗がさらに冷やされて氷漬けになる。
そう、僕は否応無しに緊張していた。この稲熊幸の生きてきた18年間で、一世一代の大勝負を前にして。
告白をするのだ。
南山美雨さん。彼女を見たときに、世界は変わってしまった。今までの”好きになった“なんて、なんてことない偽物、紛い物に思えるくらいの、衝撃。少女漫画っぽいキラキラトーンが、彼女の周りが、少しだけ輝かせて見えるようになった。彼女が写っている写真ならどんなに小さくても見つけられるし、朝挨拶できるだけで気分が舞い上がる。自分が少し気持ち悪い自覚はある。でも、人を好きになるって、こういうことなんじゃないか? 自己弁護しすぎか。
南山さんは、少し独特な雰囲気の子だ。少し世界観が違うというか、見えている物への距離感が普通の人と違う気がする。でも、感情表現が気持ちいくらいにパッキリしている。嬉しそうな時は周りにまで嬉しさを伝播させるくらい喜びを表現するし、怒っていることや困っていることもちゃんと言う。周りの女の子と違い化粧っ気もなければ、ネイルもジェルも、髪だっていじっていない。ナチュラルな美しさというか、いつ見ても『映える』なぁ、なんて思って見とれてしまうのだ。
でも、僕が彼女に惚れたのは決してそういう“要素”だけじゃない。
4月のある日、金曜日。運命が始まった。
その日は雨が降っていた。ザァーっという煩い雨じゃなくて、シトシトとした静かな雨。雨の日独特の埃っぽい匂いと、どこか遠くに感じられる音。今自分が見ているのはフィルターの中に写っているもので、世界に僕しかいないかも‥‥‥なんて詩人みたいなことを考えてしまう学校の帰り道のことだった。
僕は雨の日が心から好きだ。今日も早く家に帰って風呂に入り、雨音をBGMに参考書でも片付けよう。そう思いながら、雨の中にいる至福を感じながら帰っていた。
僕が登下校に使う通学路には、大きめの公園が一つある。なんの変哲も無い、普通の公園。
帰る時その公園を眺めることが習慣となっている僕は、見つけてしまったんだ。
その名の通り、美しい雨の中に。
「南山、美雨‥‥‥?」
思わず口に出していた。その頃はクラスに馴染むのに必死で、クラス全員の名前と顔を一致させたくらいだった。しかし初めて彼女の名前を見た時、綺麗な名前だな、なんて思ったのはなぜか強烈に覚えていた。
彼女は傘を差しておらず、雨曝しになっていた。そんな状況は男として放って置くことはできない。僕は意を決して彼女に近づいた。
「南山、さん?」
声をかけながら、彼女の頭上に傘を持っていく。彼女は振り向いた。今思えば、少し瞳が濡れていた気がする。遠くから何かが轟くような音が聞こえていたのはよく覚えている。
あ、好きだ。
どこから湧き上がってきたか、そんな言葉が僕の中から来た。
なんで? 分からない。でも、好きになった。今までの好きと今の好きは全然違った。彼女とは話したこともなければ、意識したことすらなかったのに。
彼女の目を見た、たった一瞬。そのたった一瞬に、僕の全てが奪われた気がした。
「なに?」
ぼうっと突っ立っている僕を見て流石に不審に思ったのか、彼女は声をかけてきた。
「あ、いや、えっと‥‥‥なにしてるの? 風邪引いちゃうかも、だけど」
「あ、そっか」
彼女は今の今合点がいったと言う風に足元にあったカバンを弄る。彼女の背中、カッターシャツが透けて下着が見えていた。僕は気まずくなって目をそらす。
「‥‥‥うっそぉ」
落胆したような声をだす。
「どうしたの?」
「ない。傘、ないの」
「え?」
「うわー、どうしよ。持ってきたはずなのになぁ。やばいよ」
その困惑の声を聞いて、さらに好きになった気がした。‥‥‥いや、そんなことを思ってる場合じゃない。男を見せろ、幸! 女性が困ってる時、手を差し伸べるのが男だろう!
「あの、じゃあ‥‥‥これ」
僕は、差していた黒い傘を彼女に差し出す。
「これ、貸すよ。身体、これ以上冷えちゃまずいでしょ」
「‥‥‥でも、君は?」
「僕はいいよ。家こっから近いし。走っていけば」
「‥‥‥ううん。やっぱいいや。迷惑かけちゃ悪いし、私もこっから走って十分あれば着くから。でも、ありがと────っくしょい!!」
断ろうとした彼女の言葉を、くしゃみが容赦なく遮った。
「‥‥‥」
彼女は恥ずかしそうに鼻を隠しながらこちらを見る。どうやら鼻水が出てしまったらしい。
「‥‥‥ごめん。目ぇつむっててくれる?」
「う、うん」
その通りにすると、しばらくガサガサする音が聞こえた。結構豪快なはなかみを響かせ、スッキリしたのか「いいよ、ごめんね」と言う。
「‥‥‥じゃ、借りてっていいかな?」
手を後ろで組み、少し申し訳なさそうに頼む彼女を見て、やっぱ好きだわ、と結論づけた。
「うん。どうぞ」
そう言って傘を差したまま彼女に手渡す。
「ありがと。明日返すね‥‥‥って、明日は土曜か」
「そ、そうだね」
「‥‥‥」
「‥‥‥」
お互いに黙りこくってしまう。傘の範囲は狭い。二人の距離は30cmも無かった。ああ、ちくしょう。なんか話せよ!
「あ、僕、同じクラスの‥‥‥」
「稲熊君でしょ? 知ってるに決まってんじゃん」
「し、知ってたの?」
「同じクラスでしょ? 知ってない方がどうかしてるよ。でも‥‥‥」
「でも?」
「同じクラスになる前から噂は聞いてたよ。トイレで気を失った下級生を助けたってさ」
僕の存在を認識してくれていた。そのことに少し舞い上がってしまう。
「そうなんだ。なんだか照れくさいな」
「なんでよ、立派なことじゃん。すごいなぁって思ったもん」
「‥‥‥ありがとう」
彼女は本当に思っているような声音で言ってくる。くそぉ、嬉しいなぁ。
「‥‥‥じゃ、そろそろ行くね。傘、ありがとう」
「うん、こちらこそ。また月曜」
「うん、じゃあね」
屋上の扉が開く。
見れば、南山さんが居た。ブレザーを脱ぎ、カッターシャツを捲っている。あの日と同じ姿だ。
この3ヶ月で、彼女とも一応、ギリギリ友達と言えるくらいには仲良くできたつもりだ。決して好感度は低くないはず、ノーチャンではないはず!
生唾をごくんと飲み込んだ。
「南山さん。ごめん、こんなところに呼び出して」
「ううん、全然。暇だったし。それで、話って?」
彼女が来てから、いつのまにか風は収まっている。目に見えるずっと向こうに大きな大きな雲が見える以外は、遮るものがない満点の大空。
今しかない! 心が叫んだ。
「南山さん、僕、君が好きです」
言ってしまった。
目を閉じて叫びながら走り去りたい。顔が熱い。耳まで熱い。それでも、彼女の顔を見つめる。
南山さんは、最初は何を言われたのかわからないようにぽかんとして、次に状況を理解したのか目を見開き、口を手で覆った。耳が赤くなっている。目を忙しないくらいに動かして、おずおずと口を開いた。
「えっと‥‥‥」
あ、まずい。本能が告げた。
「‥‥‥ごめん」
「‥‥‥」
女の子が告白されて「えっと」から始まる時は、断る時。覚えておこう。これからの人生に役に立つ。
「そっか。ごめんね。変なこと言って」
せめて平静を装った。今はそれしかできない。
「もしかして、好きな人とか、いるの?」
意識せず口が言葉を発していた。彼女がもし恋をしているなら、彼女を好きな者として、精一杯応援しよう。
そう思えた時、やっぱり好きなんだな、と思った。
「いや、そうじゃないけど、その‥‥‥」
彼女の歯切れが悪い。
「いいよ、隠さなくて」
「や、違うんだ。ほんとに。えっと、なんて言えばいいんだろ────」
そう言いかけた時、彼女の顔色がさっと青くなった。
「伏せて!」
彼女は僕にタックルしてくる。なんの抵抗もなく倒れ頭を強打した僕は、その痛みに悶える暇もなく、何か大きなものが僕らの頭上を通過したことを認識した。
少しして、何か重いものが着地したかのように振動が襲いかかる。大きな風も同時だ。
『それ』は屋上に降り立ち、大きな翼を畳んだ。そして僕らを見て、凄まじい咆哮を上げる。
その爪、その鱗、その牙、その翼、その目。そしてその姿。あらゆる要素を足していくと、ある答えが浮かび上がった。
でも、俄かには信じられない。
「こ、これ‥‥‥」
恐怖を感じることもなく、驚くこともなく、ただ呆然としていた。僕の脳が、この現状を受け入れることができない。
だって、誰が信じると思う? ────目の前に、ドラゴンがいるなんて。
「えっと、こういうこと、なんだよね‥‥‥」
彼女は困ったように笑った。
その顔も、愛しいと思ってしまった。
「私、『龍の仔』だから」
「────は?」
そうして始まる、僕と彼女の物語。
最初に言っておこう。これは全くよくある────ただのボーイ・ミーツ・ガールである。