表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

思いついた1人議論集

因果の話

作者: 魚羅投句

ミーム汚染開始

この世では因果が生きる上で重要。

だから君たちに因果を教えてあげよう。


おっと、間違えた。これでは因果が正しく表記されてない。そういうのを論理の飛躍と言うのかな。


ではもう一度。


この世では因果が生きる上で重要。

しかしそのことをしっかり認識している人は意外と少ないのではないか。

そう思った僕は他人よりすごいところをお披露目して自尊心を満たして自己満足するためにこの事を誰かに伝えないといけない。

だから君たちに因果を教えてあげよう。


くどいと思うだろうがそうしないと大事な部分が抜け落ちることが多く、伝わることも少ない。

故に行数が3倍になるくらいに長ったらしくあるべきだ。少なくとも、速さを重視しない今は。

速さを重視する必要があるのはその速さに価値がある場合のみであり、今から始める話がどれだけ遅くても価値は変わりようがないからだ。


これに具体例を入れるとわかりやすくはなるだろうが文量が更に倍になりそうで、面倒臭いと思うので具体例はなるたけ入れないようにしようと思う。というか自分で当てはめてみるのが一番理解しやすいだろう。だって知らないことを知らないことで例えるよりは明らかに知っていることで例えるほうが簡単だろう。


ここで注目するべきは「明らかに」という言葉だ。

これはまさに論理の飛躍の印である。というのも自分の中で組み立てられた事象の道筋が他の人にも同じように存在していると考えたからそんな言葉が出たのだ。諸君もこういうのに気をつけなければ相手に自分を押し付けるような面倒臭い人間になってしまうよ。


飛ばされた論理を補完するならば、

知らないことを理解するために知らないことを使ってもまたその知らないことを理解する必要があるため、手間がかかる。が、前もって理解していることを使えばその手間がかからない。だから自分の知っていることで例えるほうが簡単だろう。


では、まず諸君はこの世界がどうやってできているか知っているだろうか。僕は知らない。


色々な説はあるが、その中の一つ、某科学アドベンチャーでも取り上げられ、相対性理論などから生まれたアインシュタインの遺物、そう世界線だ。


色々と省くが世界線の集合体があり、その中の1点を観測することで世界はその一点に収束するという事だ。それをわかりやすくした図が円錐がふたつくっついた砂時計みたいなやつだ。気になったら調べればいいと思う。その説によれば、過去と未来は現在から離れるにつれて広がっているが、現在だけは一点しかない。そこからは無限に過去や未来へと世界は広がっていくが現在においては世界はただ一つのものとなる。そして、ここには因果関係があるのだ。蛇足ではあるがこれが間違った解釈であるならば、この理論は自分が考え出したものであり、この具体例の価値は大きく失われるであろう。


さてさて、わかるかね、そこにある因果関係が。

答えは、認識だ。

無限大にある世界のうちひとつを観測者である我々が認識しているから世界は存在している。


(さらにもう一対の蛇足開始)


ちょっと外れるが、僕はこの理論?が好きなんだよ。だって、観測者がいない世界は存在していないことにもなるのだ。観測されない場合は世界線という無限大が同時に存在するというね。シュレディンガーの猫と同じ話になってくるわけだ。更に、自分達の存在証明は主観しかないから不可能だ。という持論をぶち込むと観測者は自分1人ってことになる訳だ。つまりは僕が死ねば世界も死ぬ。っていう妄想ができるわけだ。楽しくない?

なお、この感覚は個人の感想であり、本文に対しては関係がない。じゃあ入れるなよ。というのは至極当然、その通りなのだが、web小説という認識に甘えて自分の伝えたいことを入れてしまうのもまたしょうがないことなのではないだろうか。


(4本目の蛇足終了)


観測している我々が世界を作っているのだが、その主な観測方法は見ることや聞くことといった五感やその他もろもろの感覚神経から伝わる電気信号だ。ここで矛盾が生まれてしまう。


世界は我々が感じなければ存在しないことになる。

我々は存在するから世界を感じる。

ではその我々を存在させるものとは何か、それはいわゆる光や分子などの世界によるシステムだ。

なんだかSFのような言い方をしているようにもとらえられるが、光の起源は何か、それは謎だがしかし、我々より先にそれらが存在していたのは確かで、それらを利用するために目があり、耳があるのだ。


もし光がなければ、我々は色のない世界、黒ですらない世界に生きていたわけで(ここでは光がないと進化がまた変わり…みたいなのは省く)、下手したらXもYもZも存在しない世界に生きていたわけである。そうなるともはや本に載っている文字と何ら変わらない存在になっていたかもしれない。


また話が逸れていたが、要は世界が世界を観測する方法を作り、我々は世界を観測することで自分たちを作らせているのだ。さらに因果をたとえるとするならば、善と悪のようなものであり、白と黒、生と死にも似たようなものである。どっちが先なのかはともかく、お互いがお互いを確定させているのだ。


そう、お互いがお互いを確定させる。これほどぴったりな表現が思いついたことが誇らしい。

もちろんこれは、何も世界と我々だけでなく、僕と君にも通用する。

僕は君にこの文章が知られていなければ、少なくとも君の世界には存在していない。

君も僕の文章を読んだとアクセスログに表記されなければ、情報は少ないけれど、数少ない読者の一人であるということはわかる君は、存在していないことになる。


おそらくこの相互の因果関係が人間には必要であると考える。

認識されないと確定されない。確定されないというのは存在が消えるのと同じこと。

存在が消えるということは死ぬのと同じ。ここで何を間違えたのか人間様お得意の生存本能が働くわけで、承認要求なるものが表にさらされるのだろう。認めてもらうにもその相手が探し出せないと例えば、モニター越しであったり、自分自身の体であったりがその相手となるのだ。


モニター越しならばまだよい。はいはいキモオタ乙で解決する。

しかし、自分の体が相手になると、痛覚による対話が始まってしまう。そうなるともう大変、もはやそれは生存確認の段階に移行しているわけでいつの間にか薬に手を出し、内臓を腐らせ、挙句の果てには四六時中吐しゃ物をまき散らす生物に成り下がる。とはいえそこで介護とかが受けられたのなら結果的には成功である。


どうやら僕にはこの話題、因果をしゃべるには学が足りないみたいだ。おそらく探せばもっとしっかりとしたことを書いた人がいるはずだ。そっちをあたってくれ給え。またいつか再挑戦するだろうが、その時はいつになるやら。


最後に一つ。因果関係がわからないような発想がよくあるだろう。そんな時は何かに書いて考えてみるといい。そこでしっかりとした因果が作れたのなら、次からはその因果を頼って発想をつくりだせる。思いつきというのは無意識下で認識せずに因果を無数に伸ばした先の一つの到着点である。まあ、さっきの世界の話と同じようなものなのだろう。


どうだろうね?


自分語りもここまでくると心配になるね。まったく、どうしようもない駄作だよ。結局因果についてほとんど教えてもいないじゃないか。逃げやがって。


いつものことじゃないか。そもそも駄作の人間なんだ。そりゃ駄作しか書けないよ。それが因果ってものなのだよ。


あーハイハイ、もうその長ったらしいへ理屈みたいなのはこりごりだよ。地下に潜って手記でも書けばいいんじゃないのか?


あはははは、やっぱり影響受けちゃってるのはばれちゃうね。まあそれもこれもすべては因果の橋でつながっているのさ。




終了



まあ寝れば解除されるようなレベルですけどね。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ