十五話「そう言われたら仕方ないよなぁ」
その晩。
三ツ石の言葉通り、本当に祝杯をあげることとなった。僅か四人での大宴会の始まりだ。残った料理がまだ3人前丸々あるというのに、今度は大量のフランス料理のフルコースなどを作ったりして、さらには赤ワイン白ワインシャンパンなども開けたりして、午前3時までドンチャン騒ぎを繰り広げた。だが実際飲んでいたのは自分と三ツ石が主で、燕さんは――しかしよく考えれば淡々とシャンパンを3,4本は開けていた気がする。もちろんお嬢様だけは延々オレンジージュースとグレープジュースを交互に飲ませ、最後はその二つをチャンポンさせたりもしていたが。
竜苑寺も、たっぷりと飲んだ。ここまで飲んだのは本当に久方ぶりの事だった。それに腹も一杯だった。リミッター解除といったところか。
だが、残念ながら。
竜苑寺はずっと、隙を見て逃げ出そうと考えていた。
『――――』
そしてようやく皆が寝静まった、午前五時。
ひとり竜苑寺は、むくりと起き上がった。
「…………」
みな、寝室に下がらず各々でリビングに眠る場所を見出していた。三ツ石はテーブルに突っ伏すようにして、燕さんはロッキングチェアに揺られ、そして竜苑寺と神仔は揃ってソファーのうえだった。
途中眠くなった神仔を寝かしつけてくれるようにと、燕に頼まれたからだった。その時既に、三ツ石は半分船を漕いでいたが。
午前五時。
日が昇る本当に直前の外は、微かに白みそうでしかしやはりまだ碧暗かった。ぼんやり見ていると、吸いこまれそうというより再度眠りそうになる。いかんいかんと、頭を振る。酒は飲んでも呑まれるな、が竜苑寺の信念だった。
そして誰も邪魔する者もいない、絶好の好機。
さて去ろうかと、竜苑寺は足に力を入れた。
「……うにゅ」
太腿に、重みを感じた。
というか見るとお嬢様、竜苑寺の膝の上だった。
「…………」
しばし、考える。どう考えてもこのまま起こさずお嬢様の頭の下から膝を引っこ抜けるとは到底思えなかった。だが挑戦しないことには、無理は道理に返らない。
とりあえず、膝と頭の間に右手を差し込んでみる。ゆっくり、ゆっくり、起こさないように慎重に。ぷに、と子供の頬はどうしてこうも柔らかいかと宇宙の真理を見たような心地になる。うむ、間違いなく酔ってるな。
なんとか、耳まで差し込むことに成功する。指を動かしてくにくにしたいとかいうわけのわからん欲求を抑えこみ、力を込める。支えたというか、手ごたえがくる。そしてゆっくりと、膝を引き抜いた。抜けた。ミッションは、完璧に成功した。辺りを見回す。クッションを無事見つけ、手の甲の下にセット。そしてゆっくりと手を引き抜くと、お嬢様の頭は無事クッションの上に収まった。
寝返りを打つ。起きない。
ミッションコンプリートだった。竜苑寺にとって、これぐらいの障害はないも同然だとか意気揚々と思ったりした。やはり酔っていた。さて、今度こそ本当に別れも言わずに去ろうかと、やや重い腰を上げ――
ぴん、と引っ張られた。なにかに。それほど強い力ではなく。それに竜苑寺は少し驚き、振り返る。
「……むにゅ」
神仔が、ズボン引っ張ってた。
「…………」
竜苑寺はなにも言わず、その指を引き剥がそうとかかった。掴んでいるのは甲が下になっている右手の親指と人差し指だけで、竜苑寺のポケット近くの生地を摘んでいるだけに過ぎなかったから、それは容易い事と思えた。
しかし、その最中――
「……おにーさん」
そんなにか?
「かなも、いっしょいく……」
そんなに、なぜだ?
「……さびしーから」
「…………」
竜苑寺は4秒考え、座り直した。座り直して、腕を組んで、渋面を作って、そして色んな事を考え、整理して、まとめて、その結果――諦めて、足も組んだりしてそのまま、目を閉じた。眠りづらいことこの上ないが、なに公園のベンチと比べれば天国と地獄だ。
そして竜苑寺は、二度目の眠りに就いた。
燕は、いつもとまったく同じ時間に目が覚めた。午前6時25分。それは酒に酔おうとも、決して変わることのない習慣だった。齢9つの時分よりメイドとしての在り方を習い、そして実践してきた燕にとって、それは当たり前すぎるほど当たり前のことだった。
「んー……少し、眠いかしら?」
微かに伸びをして、燕は自分の体の状態を点検してみた。疲労は、さほど感じない。昨日は食事こそ普段の倍以上作ったが、逆に言えばそれ以外の業務はしていなかったからだ。
さて、今日も一日が始まる。
燕は無駄もなく、すっくと立ちあがった。まずはこの目の前に広がる、昨日はお嬢様と三ツ石さんにあとでいいからと言われて出来なかった大量の洗い物からだ、と視線をテーブルに向けた。
それで自然、ソファーまでが視界に入った。
それで、気づいた。
「あらあら?」
燕は手を口に当て、微笑んだ。
ソファーでは現在、なぜか難しい顔で腕組みして、横にならず腰掛けた姿勢で眠りについている竜苑寺と、その膝の上に頭を乗せてなぜか右手でそのジャケットを引っ張る神仔の姿が、目に入ったからだった。
そして神仔の表情は、このうえなく緩んだものだった。もっと端的に言えば丸っきり心許し、甘えているかのようですらあった。
「まあまあ」
その姿は、まるで厳格な父と無邪気な娘のように燕の瞳に映った。それを眼の端に入れながら、久々に本当にウキウキした気分で燕は後片付けを始めた。傍では三ツ石が、ガーガーいびきを立ててテーブルに突っ伏し眠りこけていた。
それはとても形容し難い程に平和な、朝の一風景だった。