第6話 異能の敵
その男はひたすら走っていた。
帝国南西部のサイマ領の小さな街から召集された兵士の彼は、地元では功績を多く持つ勇敢な人間として少々名を馳せていた。
都市に常駐している時は強盗を四人、暴徒を三人、発生した殺人事件の犯人を一人捕縛し、都市に訪れた要人が郊外で盗賊に襲われた際いち早く加勢し返り討ちにするなど、戦場で敵将の首を獲った事に比べればささやかな功績だったのかもしれないが、『頼りになる兵士』として市民からも好感を抱かれていた。
それで調子に乗っていたり、浮かれていた訳ではない。
前線への召集命令が詰所に通達された時、彼は嫌がったり怯えたりせず、いよいよ地方の夜警ではなく国の兵として活動が出来ると息巻いていた。
腕には自信があった、小規模だが盗賊征伐程度の戦闘なら何度かこなした事はあり、戦いの何たるかは上官からの話や教本を通して知っているつもりだった。共に召集された兵士仲間も手練れの味方が多く、戦に臨む不安は少なかった。帝国軍が珍しく負けを繰り返しているのも、今まで弱小国家だった王国がやっとまともに反抗出来るくらいには力をつけてきただけなのだと勝手に思い込んでいた。
そんな僅かな不安と多くのやる気を胸に、前線の要塞であるカーセム家の城へと入った。
あわよくば敵の指揮官を討って名を上げてやろうと、下に見られがちな地方の兵士の評価を覆してやろうという野望を秘め、配備された城塞の近くの塹壕で戦いに備えていた。
数日後、彼のそれなりに強い戦意はあえなく跡形もなく消え去ってしまう事になったのだが。
「くそっ! なんだよあれ、ふざけんな!」
男と並んで走ってきた二人の兵士のうちの一人が。呼吸が上がって苦しい喉からそんな台詞を吐き捨てた。
狼から追いかけられる兎のように、男は使う事もなく重荷にしかなっていない剣を右手に握りしめ、重い鎧を鬱陶しく感じながら肺を限界の限界まで酷使しながら走り続ける。
丁度正面に村が見えてきた。おそらく農奴が住んでいたのだろうが、この辺りの農奴は例外なく前線に徴兵されていると聞かされている。あの村には今誰もいない筈だ。
一先ずあの村に駆け込もうとした時、後ろから多くの人間の声がやかましく聞こえてきた。
彼と同じく前線に配備された兵士達のようで、彼と同じく必死の形相でこっちに向かって走ってきている。
正直あんな連中どうでも良い、まずは自分が村に入ってやる、そう思っていた矢先だった。
後方に迫っていた、一応戦地での仲間である兵士達十人程の体が一斉に燃え上がったのだ。
猛烈な熱風が男を背後から襲い、その熱と圧力によって彼の顔が苦悶に染め上る。
「ぐっ……! まさかもうっ!?」
村の入口に差し掛かったところで転倒しつつ、男は真っ赤に燃え上がる兵士達の方を見る。
野太い悲鳴が入り乱れ、火から逃れようとのた打ち回る大勢の兵士達、だが火は一面に広がっており、逃げようとしても火の海の広大な範囲からは脱出が叶わず、ただただ燃え尽きるのを待つしかないようだった。
「ひぃ! 来た、来やがったあの化け物!」
男は突然発生したあの炎の出所を知っていた、そして知っているからこそ彼の中の恐怖を増幅させた。
燃え上がった兵士達が殆ど動きもせず炭と化すのを待つだけになった時、その業火を割るようにして新たな人影が現れる。
右手に一振りの大剣を持ち、王国軍の象徴である黒と青を基調した服装をし、しかし戦場の兵士ならば必ず纏っている鎧は全くつけず、火の海の中だというのに堂々と歩いている。それは男が少し前に前線で遭遇し、そして彼が死にもの狂いで持ち場を離れここまで走ってきた理由でもあった。
火の中に立つ人間、まだ二十歳にも満たない少年から、男は永遠に逃げてきたのだから。
「諦めて投降してください、帝国の兵士」
まともに火を浴びたにも関わらず、肌に火傷すら見当たらないその少年は、大剣を一度横に振って男達に告げる。
「ふ……ざけんな! 散々仲間を殺しておいて!」
男と逃げてきた他の兵士二人のうちの一人が、怯えながらも声を張り上げて叫んだ。
そう、彼等の仲間はたった今そこで焼け死んだ者達と同様に、目の前にいる少年によって容赦なく壊滅させられたのだ。
まるで整地のために草木を焼き払うかのように、あっさりと。
「帝国の悪行は許されない、それに加担した者は討つ。当然の事です」
「何が悪行だ! そっちがやってる事の方がよっぽど悪逆非道だろ!」
追いつめられながらも投降の意思を示さない兵士達に、少年は落胆したように溜息をつく。
「……では、降伏してくれないのですか?」
そして少年は、今目の前で起きた虐殺など無かった事のような温和な表情と声で、対照的に衝撃で体を凍りつかせている男達に尋ねた。
「……化け物が、偉そうに」
誰かがそう呟いた、それが相手を刺激するような言葉だと分かっていても、口からこぼさずにはいられなかった。
でなければこの惨状の中でまともな精神を保っていられると思えなかったからだ。
こんな化け物相手に平伏して、後でどんな目に遭うのだろうか、どんな罰が与えられるのだろうか、悪い想像ばかりが彼等の頭に充満する。
結局、仮にも帝国の民であるという誇りと仲間を大勢殺したこの化け物相手に命を預ける気になれないという抵抗からか、誰も手にした剣を地面に落とす事はなかった。
少年はそこで、兵士達が皆投降する気がないと悟ったのか、残念そうに溜め息をついてから、
「なら仕方がない、裁かせてもらいます!」
直後、碧い眼に暗い光を灯した少年の姿がぐにゃりと歪み、その場から消え去った。
「なっ……!」
それに男が呆気にとられている内に、他の二人の兵士の近くで閃光が瞬き、少し遅れて呻き声を漏らしながら二人がその場に崩れ落ちていた。
二人とも胴体を鎧の上から斜めに切り裂かれ、傷口からは微かに白い煙が立ち上っている。
「っ……!」
あまりに急な出来事に驚きすぎて声も出せずに驚く男の目の前に、兵士二人をあっさり切り裂いた少年が駆け足で近づいてくる。
「チッ……!」
逃がす事すら許さないと、尖った眼光を灯す少年の右手の剣の刃は煌々と燃え上がる橙色の炎を帯びている。それがどういう原理なのかは分からないが、実際に少年の剣は燃え上がっており、離れていても熱気が肌にピリピリ伝わってくる。
自分の命が大切ならば、ここで男が取るべき判断は一つだ。
少年に刃向えばどうなるか、分からない訳がない。だがこの少年は敵である、自分は敵軍である王国軍の一員のこの少年と戦うために故郷サイマ領からわざわざやってきたのだ。ここで敵に下るという事は、『前線で敵を食い止めろ』という至極単純な命令に逆らう事となる。
帝国軍は基本的に捕虜をわざわざ救助するような方針を取らない、というのも今までは前線に送られる兵士は侵略した国や民族の人間を中心に投入したからであり、捨て駒同然の扱いで突撃させていたからだ。
しかし捕虜が帝国の人間だったとして、敗戦続きで余裕のない帝国軍がわざわざ捕虜救出のために作戦を行うとは考えにくい。加えて敵に捕まったという汚名を背負って故郷に帰るという恥辱だけはなんとしても避けたい。戦績がそのまま当人やその家系、領地に影響するこの国で汚名を被る事は、そのまま故郷全体の評価の下降に繋がってしまうからだ。
敵前逃亡してでも、投降だけは避けるべきだ。これだけ混乱した戦場で、誰が戦わず逃げたかなど調べる余裕もない筈、最悪逃げ切れればいい。
とにかく今はこの場を切り抜ける、そう心を決め込んだ男は戦場で一度も振るう事のなかった剣の柄を両手で握りしめて、己を奮い立たせる。
(落ち着け……倒す必要はない。逃げる隙を見つけて、カーセム城が落ちた時に次の臨時拠点になる事になっている地点まで逃げて、とにかく逃げる!)
少年は男が戦うつもりと思ったらしく、剣を改めて身構えている。
後は相手の動きを見極めて、死にもの狂いで逃げてやる。今まで経験してきたどんな戦闘よりも集中し、覚悟をし、持てる力を全て出して逃げてやる。
少年の腕が僅かに動く。それを見て逃げるための、生きるための一歩を踏み出した男だったが、その最初の一歩目の右足に違和感が走った。
「っ、なにが……!?」
視線を足下へ落とすと、草の生えていない砂地である筈の地面から小さくも苛烈な火が発生していて、そのまま男の右足に燃え移っているのが視界に映った。
鎧をしているのにお構いなしにとてつもない熱が肌へと伝わってきて、あっという間に右足全体が猛火に包まれる。
「いっ、やめろ! おい、てめぇの仕業だろ! 止めろ! まだ何もしてないだろうが!」
「剣を捨てずに構えた、それだけで十分です。王国に仇名す人間だという証拠には」
少年がどこか寂しそうにそう告げるのを待って、右足の炎が生き物のように体の節々にまで広がっていき、男の体を火だるまへ変えていく。
「ひぎっ……たす……熱い! 熱いあつっ、がっ! ひあああああああああああ!」
周囲の大気が全て炎へ変換されていき、息を吸うのも叶わず悲鳴すら上げられない。
体全体がとてつもなく熱い、今この時も焼かれて皮膚が肉が炭へと変えられていくのを身を持って味わいながらも、どうしようも出来ない。猛烈な熱さが思考を鈍らせ、どうすればこの火から逃れるかを考えようとする事も出来ない。
(ふざけ……こんな、せめてまともな死に方させ……!)
声も発せず、心の中での負け惜しみも言い切れず、軽く指で弾かれるようにあっさりと男の命は炎の中に消えた。