第3話 汚れる覚悟
都市レチオンの南西部、活気づく繁華街から少し離れた位置には飾り気のない木造の家屋が乱立する、閑散とした住宅街が存在する。そこに住むのは市民の中でも所得が少ない者が大半で、故に商業が発展する事もなく、スラム程ではないものの廃れた重苦しい空気が漂っていた。
その中に佇む、周りの建物と似通った特徴のない一軒の空き家の二階に、一人の少年と一人の少女が身を隠すために潜んでいた。
「これが、大金か」
盗賊であり罪人であり処刑人である少年は、朽ちた机に腰掛け低く単調な声を漏らす。
「……十分でしょ」
拗ねるように口を尖らせて言い返すルチルは、右手で木製の椅子を掴んで部屋の中央に立っていた。
互いの視線が向けられているのは、ルチルの足下の床に開いた大きな穴である。部屋にあった椅子で乱暴に叩いて出来たそれの奥には、帝国のエンブレムが描かれたこの国の通貨である小銭や紙幣が無造作に散らばっている。
宿屋で一時は少年に身動きを封じられたルチルだったが、兵士から身を隠すために必要な資金を提供すると持ちかけ、それに少年も応じてきた。
この空き家はルチルが母から聞いた、父がこの街を訪れた時に賭博で手に入れた金を隠した場所である。初めて訪れた土地で見つけられるか不安ではあったが、目印として母から教えられていた、かつて店舗として使われていた名残の看板があったお陰であっさりと発見出来た。
「巡礼者の寄付の三倍、乞食や観光目的の旅人の持ち金の二倍、やや立派な食事を七回分、と
いったところか。まぁしばらく逃げる分には足りるだろう」
「え? あぁ、そう、なんだ……そう、ね」
ずっと村で育ち、通貨の概念すら殆ど知らなかった彼女にとって、通貨何枚でどれだけの価値があるのかという事が全く見当がつかないからだ。
「じゃあ、本題に戻るぞ」
とはいえルチルが資金を持っていた事実を確認出来て、若干信用してもらえたらしい。
金を見るまで話を聞くつもりはない、と言って譲らなかった時は面倒だと思っていたルチルは少しだけホッとして、彼と向かい合うように壁にもたれかかる。
「つまり、お前の村の人間が戦に駆り出されるのを止めろ、という要望で良いのか?」
「え、えぇ、そうね」
隠していた金を見せてから、ルチルは少年に自分がこの都市に来た経緯と、村の人間が徴兵されようとしている事を伝えた。『私の村を助けて』という言葉の意味を、少年に理解してもらうためだ。
盗賊であり罪人であり処刑人であり、そしてルチルの協力者に成り得るかもしれない少年は、目を細めて思案するように固い表情を浮かべた後、
「具体的にどうして欲しいのか、説明しろ」
「具体的?」
そうだ、と少年は続ける。
「お前の村の人間を戦いから遠ざける、そのために俺にどうして欲しい」
「それは……」
ルチルは考える。村の人間はなぜ徴兵されたか、誰が徴兵させたかを考え、すぐにその答えを導き出す。
「兵士達……兵士達を倒して!」
あの日、ルチルが母に連れられて村から逃げ出した時、村には大勢の帝国兵達が訪れていた。奴等は日頃から作物を納める時に村にやってきた、あの時はおそらく村の人間に徴兵を命令するために来ていたのだろう。
つまりあの兵士達のせいで、村の人間は戦争に参加させられる事になる。あの兵士達から村の人間を解放すれば、戦いに参加させられなくなる筈だ。
「村の皆を連れてったのは、あの兵士達よ。だから……!」
「愚策だな」
しかし、ルチルの言葉を少年は一蹴した。
「グサク……?」
「愚か、馬鹿、悪い選択って事だ。お前は帝国軍を敵に回すと言っているんだぞ」
「そんな事言われても……」
「徴兵を拒否したのが公に知られれば、拒否した者は勿論、親族関係者も罰が与えられる。大
体の場合課税を重くされるか、反逆心を削ぐために農奴達を分けて遠方の別の農奴村に送ら
れるか、前線送りのどれかだろうな」
帝国は規律に従わない者には厳しい。数千万を超える国民を統べ、億を超える他国民を支配する事で国が利益を得て発展してきたのは、内乱を起きる火種を潰し、他国から搾取する事で自国民の生活を潤し不満を解消させ、覇権主義を正当化してきたからである。
余所の国を攻める行為は自分達の生活の向上に繋がる、帝国民は皆そういう思考を抱いているのが当然であり、帝国に対して疑念を抱いた者は帝国の秩序を乱す者として排除される。農奴とは奴隷の一種であり、徴兵拒否は彼等を支配する立場の帝国への反逆を意味するのと同義だ。その場合どういった形で罰が与えられるのかは、考えなくても想像がつく。
その結末が村の人間に訪れる未来が頭に浮かんだルチルは首をブンブンと横に振ってから、再度『村の皆を助ける方法』を思案する。
(ええっと、兵士を倒さずに村の皆を救うには、どうなればいいの……?)
村の人間の徴兵を止めるためにこの少年に何をしてもらえばいいか、顎に手を当てて考え、絞り出した答えを口に出す。
「敵……敵がいなくなれば、戦わなくて良くなる……!」
「もう良い分かった」
それを聞くのを待たずに、少年の溜め息混じりの言葉が遮った。
「何が分かったってのよ」
「お前の知識が浅い事がだ」
「なっ……!」
明らかに馬鹿にされ、カッとなるルチルだが、少年は気にも留めず勝手に話を進める。
「まず、お前はなぜ村の人間が徴兵されたか、分かっているのか?」
「戦争するのを手伝わせるためでしょ? それくらい分かってるわよ」
「なら、なぜ手伝わせる必要がある?」
少年の言葉に首を傾げるルチル。
「この国で徴兵が行われる時、それは前線での兵士が極端に不足した時だ。だが大抵は侵略し
た国や民族の人間を武装させて戦いに向かわせる。長い歴史の中で帝国民が徴兵された例は
は、俺が知る限りでは殆ど無い」
「へぇ……」
「お前は農奴らしいが、農奴も一応は帝国民だ。農作物をするための存在である農奴をわざわ
ざ遠地の戦場まで連れてくるのはまず考えられない」
「……?」
「農奴ですら徴兵しなければならないまでに、今の帝国の戦線は劣勢だという事だ」
ルチルは一瞬呆け、自らの頭を整理する。
(劣勢って、負けてるって事? 皆は負けてる戦場に連れて行かされるって事……?)
嫌な未来が彼女の頭を過ぎり、冷たい悪寒が背筋を駆け抜ける。
「結論から言う、お前の望みを俺は叶えられない」
少女が抱いていた僅かな希望を狩り獲る、少年の言葉が部屋の中に重く響く。
「農奴達を徴兵した帝国軍に逆らう事も、敵を自らの手で無力化する事も、可能性は限りなく
低い。農奴のお前と盗賊の俺は帝国にお情けを貰えるような金もコネもない、情けを乞う機
会すら存在しない。力も金もない人間は目上の人間同士が行う争いに翻弄されるしかない」
「っ……でも……!」
「農奴と盗賊で出来るのは、せいぜい金品をそこらの家から奪うぐらいだろう。俺もその程度
の頼みを持ちかけられるのかと思っていたんだがな」
そう落胆すると、少年は机から腰を上げ、一階へ続く階段の方へと足を向ける。
「え、ちょっと、どこ行くのよ!」
「降りる。お前の望みには付き合えない。まともに取り合ってもらいたいのなら、暇を持て余
して狩猟ぐらいしか趣味のない貴族にでも直談判してみるんだな。領地を守る目的以外で自
分の配下の兵士を動かす馬鹿はいないと思うがな」
冗談ではなく、少年は本当にルチルの前から立ち去ろうとしている。
二人の間の協力を持ちかける側と持ちかけられる側の関係が呆気なく崩れ去ろうとしている。
「まっ、待って!」
滑るような速さで階段に足を進める男を、ルチルは慌てて呼び止める。
「あんたに頼るしかないの、協力してよ!」
「会ったばかりの奴に一緒に死んでくれと言われて受け入れる訳がないだろ」
「でもっ、でも……!」
なんとかして少年を引き留めようとするも、引き留めるための言葉が浮かんで来ない。
「現実を見ろ、お前がこの都市にやってきたのは、母に逃がされたからだろ?」
「っ……!」
「お前はそれに従ってお前の村を離れた。それは少なくともお前に『村から逃げよう』とする
意思があったからだ。違うか?」
「それは……」
「協力者を得られないと分かっても、お前は村の人間を助けるために行動していたか?」
その質問に頷く自信はなかった。
目の前の盗賊であり罪人であり処刑人の彼に強力を持ちかけたのも、偶然彼と遭遇し、兵士をあっさりと組み伏せる彼の強さを見て思わず呼び止めてしまったからだ。
もし頼れそうな人間に出会っていなければ、自分は一人で父の残した金を使い、農奴という身分を隠して生きていこうとしただろう。
村の皆を助けたいという気持ちを切り捨てて。
「身の程を弁えた言動をとれ」
少年は淡々と、責めるというよりは諭すような冷めた声色で話す。
「世の中にはどうあがいても叶わない事はある。この国の人間は権力や資金力を持つ者は好き
勝手に生き、力の無い者は自分の生活を支えるためにしたくもない労働に従事している。力
の無い者が生き残るには諦めと妥協の繰り返しが必要だ」
「妥協……」
「そうだ。お前が村を救いたい気持ちを持つ事自体を俺は否定しない。だがそれを実現出来る
とは思えない、出来ると思うための材料が何一つ見当たらない。今後お前が帝国軍を凌ぐ力
を突然手に入れる可能性は絶対にゼロと言える証拠もないが、ゼロに近いとは言える」
農奴が作物を帝国に納めていたのは、農奴が帝国という組織の配下にある存在だからだ。下の者は上の者に従って生きなければならない、それは軍の士官の命令に雑兵が刃向ってはいけなかったり、労働者がどれだけ過酷でも雇用主の指示通りに働かなくてはいけなかったり、当たり前の主従関係と何ら変わりはない。
今回はたまたま、帝国のものであるルチルの村が、帝国のために戦う事を求められただけの話である。おそらくこの都市にいる市民にその話をしても、同情されるどころか奴隷なんだから当然だと馬鹿にされるだけだろう。
救いの手が差し伸べられる条件を、農奴であるルチルはそもそも持ち合わせていないのだ。
「母の意思に応えて生き延びるか、母の意思に背いて村を救うか。立派な選択肢だが、後者は
達成出来る可能性が皆無で、お前とお前の協力者が無駄に労力を費やし身を危険に晒す可能
性が高いという事を踏まえた上で考え直せ」
少年の言葉がルチルの心に重くのしかかる。
(村の皆を救いたい、でも村の皆は私に生き延びて欲しいから私を逃がした……)
九割、いやほぼ十割に近い確率で、村の皆が徴兵されるという未来は変わらない。変えるには帝国に逆らうか、帝国の敵を費やすかだが、どちらもルチル一人ではどうしようも出来ない条件である。それは少年にとっても無茶な内容であり、盗賊一人に協力してもらったところでどうとなるものでもない。
それでも村を救おうとする事は、むしろ村の皆の想いを無駄にする行為ではないのか。生き延びるための資金を費やして、叶いもしない希望に賭けて、母達は喜んでくれるのだろうか。
救おうとしたところで、母達が助かる可能性が髪の毛一本分程度しか変わらないというのに。
微かな希望と妥協という二つの選択に苛まれるルチルは俯き床を見つめながら、母と別れた時の情景を思い返す。
母はルチルを励まし、勇気づけ、笑顔で送り出してくれた。
それはあの時が最後の別れであり、これから村の皆と離れて生きていくルチルの不安を少しでも和らげようとしていたからだろう。
母と村の皆の想いのままに、農奴である事を隠して生きていくべきなのだろうか。広大な帝国で農奴一人くらいいなくなっても帝国に影響はない、下手を踏まない限りは安全な筈だ。
ルチルの心が揺れ動く。無茶な希望に進もうとする野心から、選んで当然な方を選ぼうとする妥協の気持ちに。
(やっぱり、無理なんてしない方が……でも、でも皆を見捨てるなんて……~~っ!)
悩めば悩む程に、村への想いの強さを改めて実感させられてしまい、胸が苦しくなる。
諦めるべきだと少年は言うが、諦めたくはない。諦めれば自分だけは生きていけるだろうが、それは自分の望む生き方ではない。
ルチルにとっては、あの村での農奴として仲間と共に農作業しながら生活するのが、彼女本来の生き方なのだから。
どうするべきか、何度も何度も同じ質問を自らに投げかけ、次第に混乱状態に近づいていってしまう。
『これからは好きなように生きなさい。自由になるんだから』
その刹那、別れ際に聞いた母の一言が彼女の脳裏に浮かび上がる。
そしてそれに呼応するように、彼女が心の中でなんとか保っていたものが切れた。
この都市に逃げ込むまで必死に取り繕っていた、理性の糸が。
「……だ」
「何?」
「やっぱり諦めるなんて……嫌っ!」
直後、抑えきれなくなったルチルの感情が部屋の中に響き渡った。
「だから、農奴の徴兵を止めるのはお前と俺では不可能に近いと……」
「知らないよそんなの! いちいち難しい事ばっか言って、私農奴なんだからそんな細かい事
情分かんないから!」
両手で髪を掻き毟って、その場に膝をついて喚くルチルの声は甲高くやかましく、とても幼いものになっていた。
母に送り出され、初めて村を飛び出し一人で生きていかなければならないと思い、気丈に振る舞おうと強がっていたルチルだったが、少年に現実を真っ向から教えられ、遂に我慢の限界が来てしまったのだ。
彼女なりに頭を絞って考えてきた、
まさに幼子のように目頭の涙を浮かべて騒ぐルチルを、少年は目をやや大きくして驚き、その後呆れるように眉をひそめて、
「……子供に説教する気はない」
改めて、その場から立ち去ろうとする。
「待って待って待って待ってって、ばっ!」
ルチルは飛び掛かる形で少年を止めにはいるが、軽く足を上げて避けられ、顔から前のめりに床の上に倒れ込んでしまった。
「俺にこだわる必要はないだろ」
「探してる余裕なんてない! 頼りになる人間のアテもない、あんたに頼るしかないの!」
床に打ち付け痛む額を上げ、鬼気迫る表情で訴えかけるが、それでも少年の気が変わる様子は見られない。
「それだけの金で、達成出来る見込みのない仕事を命を張ってやらせる気か」
「払う、金でも何でも、一生懸けて払うから!」
泣き寝入りするしかないルチルは、みっともない姿なのを承知で這いつくばって懇願する。
すると少年は階段にかけていた足を止め、素早く体の向きを変えてルチルへ近づいてくる。
「なら聞くが」
そして両手両足を着いた状態のルチルの前で中腰になって、こう尋ねた。
「俺がお前の村の人間を救うために、どんな汚い手段を使っても、どれだけ非人道的で冷酷な
行為をしても、許して見逃すだけの覚悟があるか?」
「……っ」
その時の少年の顔に、ルチルは生まれて初めて明確な殺気というものをその身で感じ取ったのが分かった。
彼女は彼の過去を知らない、彼が盗賊であった事もさっき偶然知っただけで、兵士三人を組み伏せた程度にしか彼の戦う姿を見ていない。
それにも関わらず、彼から投げかけられた言葉には現実味があり、彼が目的のためには手段を選ばない人間である事が事実であると訴えかけてくるような迫力が感じられた。
村の大人達の喧騒とは比べ物にならず、たまに村にやってきては威圧的な態度で指図してくる兵士とはまるで質の違う、研ぎ澄まされた剣のように確固とした『風格』と呼べるものが、彼には備わっている。
「すぐには出来ない、などと言うつもりなら無理だ。覚悟ってのは準備してするものじゃない。
お前にとっては今がその時だ、俺という人間に協力を求める事で起こるであろう事象全てに
責任が持てて、その上で叶いもしない望みを求める覚悟を持てるかどうかのな」
これから自分がしようとしている事で、何が起きて誰が巻き込まれてしまうのかは分からない。それに対して自分がどんな感情を抱き、どのような影響を受けるか想像しようがない。
分からない事が起こってしまう、それによって自分の目的が達成されるとは限らない、それでもやるべきなのか。
盗賊であり罪人であり処刑人である、この得体の知れない少年に協力を求めて良いのか。
「……くぅ!」
目を閉じ、そんな疑問を何度も何度も頭で反芻させるルチル。やる方が良い、やめた方が良い、自分の意思も一つにはまとまっておらず、どちらかに天秤が傾くきっかけになる決定的な何かを彼女の心は必死で求めていた。
(……はぁ)
まだ若い少女の頭を精一杯振り絞って考え抜いた末、ルチルは結論を出す。
「出来る」
「なぜそう言える」
「……だって、これだけ考えても、結局母さん達に会いたい気持ちが消えないんだもん。あん
たを諦めても、多分まだ私は悪あがきすると思う」
涙の痕を指で拭い、ルチルは冷たく鋭い少年の眼を見据えて、包み隠さず本音を吐露する。
「……、子供らしい無責任な考えだな」
「かもね。でもあんたが危ない人間だって事はなんとなく分かったつもり。後、こうやってわ
ざわざ私に忠告してくるあたり、適当な人間でないってこともね」
「……」
少年は若干の沈黙の後、バッと右腕を動かしルチルの胸倉を掴み上げてきた。
「三つ、約束しろ」
無理矢理半身を起こされ驚くルチルと顔を見合わせるようにして、彼はそう言葉を放つ。
「一つ、ここにある金の半分は前もって貰う。俺とお前のどちらかに全てを預ければ持ち逃げ
しかねんからな」
「持ち逃げって……まぁ協力してもらえるならあんたの金だけど」
「二つ、俺はお前の村の人間を知らない。徴兵対象の農奴村はお前の村だけとは限らない。情
報源として俺と行動を共にしろ」
「え、えぇ……」
「それと三つ目……証明しろ」
最後だけ一度間を置いてから、少年はそう言い放つ。
「証明?」
そうだ、と短く答えて少年は窓辺へ移動し、その向こうに広がる夕暮れの朱色の光に照らされる石造りの街並みを一瞥して、
「今晩中にこの街を抜け出す。兵士の目が届きにくい内に脱出しなければ、日が昇った頃には
完全に封鎖が完了しているだろうからな。奴等も処刑人を取り逃がした失態を市民に晒され
たくはないだろう、逃げる隙があるのは今だけだ」
「そう……なんだ」
「お前の頼みを受け入れるかどうかは関係なく、今の俺はこの街から逃げ出さなければ生き残
れない。俺に協力してもらいたいなら、まず俺に協力しろ。その結果お前も兵士を敵に回す
事になるとしてもだ」
命令か脅迫か、はたまた引き返すなら今だと警告しているような強い口調の言葉に、ルチルはグッと口元を噛みしめて、
「……もったいぶらずに、何をやればいいか言いなさいよ」
少年に対抗するようにルチルも強気で言葉を返す。
「脱出に必要な物を集めろ。食い物、水、服、火、外の世界で必要な物は全てだ」
「集めろって、どうやって……」
「どうやってもだ。どうせこの街に居座るつもりはない、何をやっても構わないだろう。一応
言っておくがこの金は使うなよ? 俺が逃亡するための資金だとお前が言ったんだからな」
漠然とした表現のせいで、ルチルには彼が何を言いたいのかいまいち理解出来なかった。
(お金を使う以外でなんでもって……なんでも? 何をしても良いって事? 何をって……)
一人で少し考えて、それからふと一つの予想が頭に浮かぶも、それが途端に寒気が彼女の体を駆け抜け肌を粟立たせた。
「ドロボーしてでも集めろっての!?」
「そうだ。幸い都市というのは金持ちの住む場所らしい。適当な建物に入れば食料や道具ぐら
い集まるだろう」
「中に人がいたらどうするのよ!」
「……言っただろ、何をしても必要な物は集めろ」
間を置いて強調された彼の言葉の意味を、今度はルチルはすぐに気づいた。
「本気で、言ってんのよね」
「どう捉えるかはお前の勝手だ。俺はお前の覚悟を証明してくれればそれで良い」
覚悟、それは盗賊であり罪人であり処刑人である彼に協力する事で発生する事案を受け入れる覚悟という意味なのだろう。
彼がどれだけ非道な行為に走っても、ルチルの目的を叶えるためならば見逃せるだけの、覚悟が。
「日没までに終わらせろ、夜になれば人が戻って忍び込める建物がなくなるだろうからな」
少年の無機質で波のない声色、それは彼の言葉が冗談でも嘘でもない事を現していた。
(……もう)
やるしかない、ルチルは覚悟を決めた。
まずは目の前にいる少年と共にこの都市から脱出する、それが彼に唯一の協力者となってもらうための最低条件。
そのためには、手を尽くす。例えそれが社会的に『罪』とされる行為だとしても。
ルチルが協力を求めているのは、盗賊であり罪人であり処刑人の少年なのだから。
「ルチル」
彼女は深呼吸して息を整えると、両足で強く立って少年と向かい合い、自らの名を呟いた。
「なんだ?」
「私の名前。協力してもらうんだから、それくらい教えないとね。今の私にとって、あんただ
けが頼りなんだから」
「……」
「あんたの名前は、教えてくれないの?」
「……必要か?」
少年はルチルから目を逸らしながらそう答えた。
「あんたを呼ぶ時、知らなかったら面倒でしょ?」
「……ジェイクだ」
村の外の人間の名前は当然の事ながら初耳で、それ故に新鮮に感じ、村の外の人間と関われたという事実にルチルは少し嬉しく思えた。
「ジェイクね、よろしく」
やるべき事、それを与えられただけでも今の彼女には十分だった。
母の言うとおりにこの都市にやってきたものの、自由に生きるという言葉の意味が具体的に頭に浮かばなかった。村の皆を助けたいとは思ったが、自分一人ではそれを実現出来るとは到底思えなかった。
目の前にいる盗賊の少年に協力してもらった事で、村の皆を徴兵から解放出来るのは不可能に近いのは変わらない。
それでも、『村の皆を救うために、自分より国内の情勢を知っているであろう人物に協力してもらえる』という事実が、ルチルの心持を高めていたのだ。
窓の外に広がる街並みに目をやり、息を整えるルチル。
その視界には、自分がこれから必要なものを収集するために、少年に協力してもらうために『すべき事』をするであろう対象の、市民達が生活を営む世界が映っていた。