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第1話 弱者の遭遇

 他国の土地や資源、人民に至るまで全てを奪い、それを自国の利益とする事で繁栄を続けてきたオスティム帝国。国境では常に徴兵された植民地の兵士達が侵略対象の国と戦争を繰り広げているが、戦地から遠く離れた帝国中央の地域は比較的治安が安定し、戦火とは無縁のために人々が集まり、それらを対象にした商業や交易によって栄えた都市が点在していた。

 ここレチオンは山岳地帯や森林の広がる緑豊かな地帯の中にポツンと立地する都市で、かつては帝国軍の行軍の際に砦として利用され、その後は周辺地域の平定のために帝都から多くの人間が移り住み、商業や観光業を中心に経済が発展した帝都南部有数の大都市となっている。

 入植時から殆ど変化のない石造りの街並みは絵画の題材として頻繁に使用される程美しいと称され、表通りに面する建物の大半は市民や来訪した旅人向けの商店で、朝でも夜でも関係なく活気に満ちている。

 日も落ちかけ空が橙色に染まりきった頃、どの酒場でも昼間の仕事を終えた客でごった返し、日頃溜め込んでいた愚痴や鬱憤を吐き出したり新聞で知った前線での戦いの情勢について語ったりと賑やかで騒がしい。大抵が常連のため客同士見知り合いも多く、大きな都市の中の限られた人間達で作られる独特な空間は一種の聖域のようなものに似ていて、口には出さないものの新入りの客はあまり受け入れない雰囲気すらあった。

「んっ……ぐ……くはぁああああ! うんまぁあああああああ!」

 そんな中で、一人の少女が店内を包む常連客の騒がしさをも貫くような高い声を発した。 

 他の客達の視線が一斉に彼女へと向けられ、同時に話の腰を折られた事への不満を静かにぶつけてくる。

「あー、ふぅ、腹が立つぐらい美味しいなぁ。くそ……」

 それを気にする事なく、大声の主であるカウンター席の隅っこに座っていた金髪の少女は葡萄ジュースの入ったジョッキを片手に前のめりに座ってくつろいでいる。

「かなりお疲れのようだね、お嬢さん」

 テーブルにもたれかかって行儀悪く座る少女に、他の客の注文した酒や小食を用意しながらそう声をかけてきた。

「ん、そう、疲れに疲れてるのよ」

「見ない顔だが、観光か出稼ぎでこの街に来たクチかい?」

「ん……なんでそう思うの?」

「喋り方だったり雰囲気だったり、毎日常連客ばかりを相手にしてると、たまに入ってくる新

 顔の客の違和感にはすぐ気づくものだ」

 ふーん、と適当な返事をする彼女は、確かに店主の言うとおりこの街の人間ではない。都市の外からやってきた、いわゆる異邦者という奴だ。名をルチル、若干十六歳の少女である。

 手入れされていないボサボサの短い金髪と道の脇に捨てられていたのを拾ったような薄汚れた服装をしているせいで店に入った瞬間から奇異な視線を他の客に向けられていた。

「あんたの言うとおり、私は余所者よ。私用でこの街に来ないといけなくなったの」

「ふむ、その口ぶりだとその用とやらにあまり気が進まないようだね」

 勘の良い店主の言葉に、ルチルは『そうよ』と迷わず答えて、

「別にこんな金持ちばっかいそうな街になんか来たくて来た訳じゃないんよ」

「はは、辛辣だな。見たところ一人のようだが、付き添い無しでここまで来たんだろう?」

「来たというか、とりあえず来たというか……」

 口ごもるルチルの表情には、苦虫を噛み潰したような複雑な色が浮かんでいる。

「特に目的もなく浮浪していたのかい?」

「そうでもないけど……ん~~! なんて言えばいいのか」

 へたりと頭をカウンター席の上につけ、周りの目を憚らずに項垂れるルチル。

「この街に来ないといけない理由はあるんだけど、あたしはそれを望んでないというか……」

「やるべき事があるならきちんとこなさなければな。人は皆、自分が望まない事もやらねばな

 らない時があるものだ」

 具体的な内容は口にしないルチルに、店主はカウンター内を整理しながら言葉を続ける。

「人生良い時もあれば悪い時もある。だが悪い事は無駄ではない」

「そうなの?」

「私は実家が代々続く鍛冶屋でね、長男という事もあって否応無しに後を継がされそうになっ

 たんだ。けどご覧のように私は武器や鎧より酒を人に作る方が似合っていてね。何度も親に

 反抗して、二十歳を過ぎた頃にようやく許可を貰ったんだ。その後は酒造りの修行や店を開

 く資金稼ぎに時間を費やして、あっという間に三十手前だ」「

 君は若いから酒を振る舞ってやる事は出来ないがね、と付け加えた店主の自分語りに、ルチルは興味なさげに耳を傾ける。

「繁盛はしていないが、それでも私はその生き方に満足をしているし、後悔はしていないよ」

 落ち着いた風格や喋りからは、彼の波乱万丈の人生が垣間見え、言葉に重みが感じられた。

 それでもルチルの中に渦巻く、彼女の抱いている重苦しい感情を晴らすには至らない。

「……苦労人なのね」

「後先考えず突っ走っていただけさ。若い君はこれからの人生多くの選択肢に直面するだろう、

 その時は好きな方を選ぶようにするといい。ただし悩んで悩んで悩み抜いた上に、な。一時

 の感情に流されてはならない。ちゃんと考えて生きていくべきだ」

 店主は酒を飲み終えた他の客から通貨を受け取り勘定しつつ、ルチルを遠まわしに励ますようにそう告げた。

「……っ」

 彼女はしばらく目を閉じて何かを考え込むようにした後、残っていたジュースを勢いよく一気に飲み干して、

「少しは勉強になった、かもね。ご馳走さま」

 静かに席を立ち、腰につけた袋から通貨のコインを数枚代金をカウンターの上に置く。

「気休め程度に思ってくれればいいさ」

 ルチルの方を見ずにそう呟いた店主に、彼女は小さく会釈しながら背を向けてカウンターを離れようとするが、

「……これは答えなくてもいいんだけど」

 顔半分だけを店主の方へと向け直して、とある一つの質問を投げかけた。

「どっちを選んでも誰かが死ぬと分かっていて、それでもどっちかを選べると思う?」

 その時の彼女の声は今までよりも僅かにはっきりとしていて、それでいて鋭い針のような冷たい色が混じっているようだった。

 ルチルの言葉とその奥にあるであろう彼女の暗い感情に店主は気づき、微かに眉を動かして、

「君、疎開民かい?」

 店主がそう尋ねた時、ルチルの口元がほんの一瞬強張り、歯を食いしばったように見えた。

 彼女は店主を一瞥しただけで答えはせず、談笑する客達の座るテーブルの横を抜けて足早に店を後にした。

「はぁ……結局何の解決にもならないって、分かってた筈なんだけどね」

 仕事帰りの市民や道に面する店の客引きでごった返す街の中央通りを一人とぼとぼと歩きながらルチルは呟く。

 貧相な服装のせいで通り過ぎる者がちらりと汚いものを見る目を向けてくるが、彼女は気にしない。そもそも気にするようなら酒場に気まぐれで入ったりはしないだろう。

 初めて訪れた都市を観光するでもなく、ぶらぶらと気の向くままに道を進んでいく。

 そうしているうちに辿り着いたのは、都市中央の広場だった。

 広場では何か見世物でもあるのか、大勢の市民が集まっているようだ。

「今日は広場で盗賊のガキの処刑があるらしいぞ」

 と、大勢の群集の中から聞こえてきたとある会話に、ルチルは耳を傾ける。

「別に珍しくもないだろ。罪人の死刑なんて」

「いや、今日の奴は結構前から軍の連中を煩わせてきた悪名高い盗賊の生き残りらしい」

「あ、それってこの前山狩りがあった時に軍が相当苦戦したって噂になってた奴か?」

「そうそれ! 軍の方にも結構死傷者が出たらしくて、その分今回の処刑は派手な見せしめが

 されるんじゃないかって言われてんだよ」

「あーなんか気になるな、最近公開処刑の呆気ない殺し方には飽きてきてたからよー、そうい

 う変わった感じのなら見てみてーわ」

 ルチルは思わず足を止め、小さく息を呑む。

 聞く限りでは、この街の広場でこれから罪人の処刑が行われるらしい。

 ただ、市民の雑談で物騒な話題が語られている事に驚き、唖然としてしまったのだ。

「こんなのが日常の一部になってるっていうの、都市の生活って」

 人が殺される事に抵抗を感じるどころか、むしろサーカスのような行事として市民は皆楽しみにしている、そんな様子にルチルは恐怖を感じると同時、これが自分がこれまで生きてきた環境との違いなのかとも思った。

 どれだけ金持ちの連中が楽しもうと田舎者の自分には理解出来ない、逃げるように広場を離れたルチルは、表通りからやや離れた位置の人目の少ない路地裏へと立ち入る。

 初めて訪れた都市だが、入口の関所で宿の位置はちゃんと確認している。まずはそこに行って、それからの事はその時考えようと、ルチルは行動指針を決める。

 ルチルは気を取り直すように一度自らの頬を手で叩くと、夕日も落ちかけ暗みを増してきた路地裏から抜けるため足を進める。都市とはいえ夜でも外を出歩いて安全という訳ではない、強盗ぐらいならどこにでも存在するというのは余所者のルチルも知っているし、夜出歩くのは命を捨てる危険な行為だというのは治安がある程度安定した今でも未だに常識だからだ。

 幾つかの路を経由して多くの人の波を避けながら、宿屋のある街の北西方向へと向かう。中心部こそ活気に満ち溢れているが、そこに人が集中している分街の端に近づくほど人の姿は少なくなり、徐々に静けさの方が目立つようになっていた。

 そうしてしばらく歩いて質素な宿場に到着し、二階の隅の個室に入る。小さく厚さの薄いベッド一つしかないが、同じ部屋に複数人並んで寝る共同部屋で知らない人間と相部屋にならないだけルチルにとってはありがたかった。

「はぁ~、疲れた……」

 ベッドの上に寝転がり、ふぅと息を吐いて天井を見上げる彼女の顔には、疲労の色がはっきりと現れていた。

 それは彼女が住んでいた所からこの街まで移動してきた体力的なものと、彼女が抱えているとある事情による精神的なものから来るものだ。

 彼女の目的地は別にある、しかしそこに向かう気力は皆無と言って良かった。

 彼女がこの街に来たのには理由がある。それは彼女が望んだ事ではなく、絶対にそれをしなければならない訳でもない。

 どちらを選択しても、彼女にとって望ましくない結果が待っているのを彼女は知っている。

 たまたま入った酒場の店主に悩んでいる事を打ち明ければ少しは気が晴れるかと少しだけ期待した彼女であったが、彼女の抱えている『理由』が理由だけに解決のきっかけにすら成り得なかった。

「もう……こんなところで、何をすればいいのよ」

 暗い声を漏らし、深いため息をつくルチル。

「うん?」

 と、部屋に一つしかない小窓越しに、人の怒鳴り声のようなものが耳に飛び込んできた。

 隅に張られた蜘蛛の巣を手で払って窓を覗き込むと、宿の前に広がる住宅街へと続く一本道の向こう側で、十人程度の男達が切羽詰まった表情で何かを言い合っている。

 よく見れば全員、都市の入り口で見た見張りの兵士と同じ鎧と剣を装備している。彼等の近くには扉の破壊された馬車があり、馬の乗り手は興奮気味の馬を鎮めるのに躍起になっている。

「何かあったの?」

 穏やかではない状況にルチルが不安を覚えていると、ガタンと大きな物音が後方から聞こえてきた。

 肩をビクリとさせて振り返る、彼女の無意識の行動よりも早く、物音の正体が彼女の眼前に現れる。

「だっ……!」

 誰、と喋る事も許さず、音の正体……謎の人物はルチルの背後に回り込み、片手で口を塞いでもう一方の手で腕を取りベッドの上に組み伏せてきた。

 何者かに襲われたとやっと思考が追いついたルチルは慌ててもがこうとするが、

「静かにしろ。抵抗するなら危害を加える」

 耳元で聞こえた若い少年らしき人間の低く重々しい声に、ルチルの体が委縮してしまう。

「助け……っ!」

 叫ぼうとするルチルの顔を、少年は容赦なくベッドに押し付け無理矢理黙らせる。それでも殺すつもりはないようで、鼻で呼吸は出来るように器用に彼女の頭を引っ張り上げる。

「一時的に人質になってもらう、万が一の時俺の身を守るためのな」

 彼の声には感情がなく機械的で、それだけに彼の脅迫の言葉が嘘でない事を際立たせる。

「んん~~!」

 しばらく口を押さえつけられたまま声を漏らしていたルチルだが、このままではどうにもならないと感じ一度大人しくしようと、がむしゃらに動かしていた体をピタリと止める。

「肯定なら頷け、否定なら頭を横に振れ。お前はこの街の人間か?」

「……?」

 なぜそんな質問をと思いながら、ルチルは手で掴まれたままの頭を小さく横に振る。

「この街には慣れているか?」「滞在期間は長いか?」「資金は多いか?」

 絶え間なく出てくる質問に、ルチルの首はいずれも横に動いた。

「……お前はどこの人間だ。この都市の周辺か?」

 少し思案するような間の後から出た質問もまた、ルチルの素性についてのものであった。

(何こいつ、強盗とか変質者とかだったら、いちいちこんな事聞く必要ない筈……)

 この少年は何が目的で自分を人質に取ったのか。彼の口から出る質問の意図、いまいちそれが見えてこない。

「どのような理由でこの都市へ来た。観光、出稼ぎ、旅、巡礼、勉学、乞食、どれ

 あてはまる単語のところで首を縦に振れ、と付け加えられたが、ルチルの首が反応する事はなかった。

「チッ、どれにも当てはまらないのか? 役に立たん……」

 落胆したように息を漏らす少年に、ムッとしながらもルチルの頭には彼に対するある一つの考えが頭に浮かんでいた。

(こいつ……)

 そして少年が問いの連続を止め、一人で黙って考え込んでいるのを見計らって、彼女は小さな反抗に出る。

「あ、んっ……!?」

 思い切って声を出そうとしたルチルだが、助けを呼ばれると思ったのか少年はすぐさま彼女の頭を押さえつける力を強める。

 だがこのまま中途半端な抗いで終わっては駄目だ、とルチルは危険を冒して無理矢理に口をこじ開け、苦しげに声を絞り出す。

「っ……あんた、もしかして迷子?」

 その直後、今まで感情の有無すら分からない程に単調な喋り方をしていた男が、小さく息を呑んだのがルチルには分かった気がした。

「もしかして、図星?」

「黙れ」

 ルチルが目を細めて煽るように尋ねると、少年は僅かに苛立ちの混じった声で返す。

 その時、バンッ! と大きな音と共に部屋の扉が蹴破られ、三人の男が押し掛けるように立ち入ってきた。全員鎧と剣を装備した、街の治安を守る兵士の風貌をしている。 

「動くな!」

 躊躇いなく剣を鞘から抜き、ルチルを押さえつける少年に対して怒鳴る兵士達。どうやら少年は彼等から何らかの理由で追われているようだ。

(兵士から逃げる……こいつ、罪人?)

 部屋の緊張感が高まる中、そんな考えがルチルの頭を過ぎった時、彼女は少し前に街中で聞いた市民同士の会話を思い出す。

『今日は広場で盗賊のガキの処刑があるらしいぞ』

(まさか……ね)

 とルチルが考えていたその僅かな間に、彼女の身動きを封じていた少年はベッドの上から飛び降り、兵士達に向かって突進していた。

 武器もなく剣を防ぐ鎧も着ていない状態にも関わらず少年の動きには剣を持つ兵士に対する恐れは感じられない。一番近い兵士が咄嗟に剣を振るうよりも早く彼は相手の懐に飛び込み胸元に肘打ちをかます。

 苦痛の表情を浮かべるその兵士を左腕で抱えると、他の兵士二人による攻撃から身を守るための盾代わりにするようにし、仲間を斬りかけて怯んだ兵士の片方へその『盾』を投げ飛ばし地面の上に二人共押し倒した。

 圧倒される同僚に呆気にとられる残り一人の兵士の鳩尾に一発拳をぶちこみ気絶させた少年は、痛みに耐えながら起き上がろうとする他の二人を近くにあった椅子で殴って容赦なく意識を奪ってしまった。

「ひっ……!」

 目の前で発生した一方的な暴力に、ベッドから降りたルチルは恐怖を覚えて壁際まで後ずさりする。

 少年は外に気づかれないよう扉を閉めてからルチルの方へ視線を向け直す。その時の彼の眼には、殺気以外に似合う言葉が見つからない程明確で鋭く危険な光が灯っていた。

 間違いない、この少年は広場で処刑される予定とされていた、盗賊の人間だ。

「あんた……殺されて見世物にされるのが怖くて、逃げたいんでしょ」

 自分も危害を加えられる事を恐れながらも、ルチルは壁を背にして少年にそう言い放つ。

 少年は答えなかったが、彼の冷たい目がさらに冷徹に冷酷な色へと変わっていく。

「っ! ……わ、私に色々質問したのって、どうやったら兵士に気づかれずに逃げれるか情報

 を手に入れようとしたんでしょ?」

「黙れ」

 声色自体は変えず、放つ殺気を数倍増して、少年はルチルへと足を進めて近づいてくる。

 殺される、彼に敵意を持たれると生きていられない、ルチルの直感がそう告げるも、彼女は言葉を止めない。

「処刑されるのに怯えて逃げたけど、その先を考えてなかったとか? そりゃ盗賊なんて暴力だけで生きてきたような輩だもんね、そこまで頭は働か……っ!?」

 言い終わる前に、ルチルは男の手によって口を塞がれ、そのままベッドの上に軽々と引き倒されてしまっていた。

 何かされる、そう思っていたにも関わらず、全く反応出来なかった。ぐるぐると激しく揺れて回った後、彼女の視界には黒ずんだ木の天井を背に見下ろしてくる少年の顔が見える。

 針のように乱雑に切られた汚い黒髪、顔や腕のあちこちに見える小さな傷の痕、何より見た者を射殺す獣のような目が、この都市でへらへら笑いながら闊歩する市民達とは住む世界の違う人間である事を現している。

(……やっぱり、違う)

 苦も無く兵士三人を無力化する力、突然の襲撃にも感情的にならず冷静に対応する判断力、やはりこの少年は只者ではない。根拠がなくても確信出来る、そんな説得力のある存在だ。

 下手を打てば殺される、そんな恐怖に支配されて体が硬直しそうになる。

(……こいつ)

 しかし、ルチルの頭にあった彼に対する印象は、彼女の体の反応とは矛盾するものであった。

「言うとおりにする気がないならお前に用はない。偶然入った部屋にお前がいた、だからお前

 から情報を得ようとした、それだけだ」

 少年はルチルの口を押える力を強め、今度こそ黙らせようと右拳に力を入れ、彼女の懐に狙いを定める。

(まずっ、まずい! なんとかしないと!)

 ただ挑発してもこの男は止められない、彼は自分が兵士から逃げる事だけを考えている、この街の人間でなく、尚且つ自分の正体に気づきルチルは逃走の役に立たないと判断しているであろう彼を止めるには、彼の逃走に関わるような『何か』を示さなければならない。

 手足をバタバタ動かし、胴を捻って強引に逃れようとするも、当然のように男は足に圧し掛かって動きを封じる。

「んんっ、んんん!」

 力じゃ敵わない、そんな事は分かりきっている。ルチルが暴れたのは隙を作るための悪あがきだ。

 彼が逃げるためにルチルが必要だと思わせるための一言を、彼の耳に届けるための。

「はす……げようは」

「っ」

 ルチルの抵抗を抑えるために動いたせいで、少しだけ少年の手が塞いでいたルチルの口からズレていた。

 それによって声が聞き取れたのだろう、少年の表情に小さな変化が見られた。

「何を言った」

「助けてあげようかって、言ったのよ」

 それはこの状況を自分にとって有利なものへと持っていくための、必死の抵抗から生まれた言葉だった。

 幸運にも少年は改めて聞くために手をルチルの口から離した。

 それだけで彼が彼女に対して『役に立たない情報源』以外の価値があると判断しているようなものである。

「……冗談を言える気楽者には見えないが」

「あんたみたいな、危ない奴相手に、冗談を言う余裕なんてないわよ」

 苦笑いとも嘲笑ともとれる笑みを口元に浮かべ、ルチルは初めて少年と対等な会話を成り立たせる。

 しばらく静止した後、少年の右手は彼女の口から首元へと緩やかに移動し、白く細いその喉を軽く掴んだ。

「なら早く言え。聞くだけ損の無益な事を話す馬鹿なら、お前に用はない」

 ギリギリと力を入れられ、ルチルの首に微弱な圧迫感と気管が脅かされるおぞましさが走る。

 それでもルチルは頬を引き攣らせたまま笑顔を崩さず、こう続けた。

「私は……こう見えてお金を持ってる。私が稼いだお金じゃないけど、使い方次第じゃこれから先二回冬を越しても余る程の、ね」

「……証拠は」

「ここにはないけど、隠してる場所はこの街にある。案内しても良い、本当よ」

「……」

 少年は何も言わず、ルチルの全身を舐めるように見回す。びた一文にもならないみすぼらしい服装をしたこんな子供の女が、そんな大金持っている訳ないだろうと考えているのが見えてくるようだ。

「それが事実だと仮定して、俺を助けると言った意味を具体的に言ってみろ」

「っ、それは、ほら……社会で生きていくには、何事もお金がいるでしょ? 人様の物を奪っ

 て生きる盗賊に言っても仕方ないかもしれないけど、あんたは大人しく処刑されるつもりは

 ない、だから逃げてる。違う?」

「……そうだ」

「だったら、逃げる必要があるでしょ? 顔が割れて市民に名前を知られて、しかもお仲間は

 みんな死んじゃったみたいじゃない」

 挑発的な言葉を放ち、まずかったかと後で思ったルチルだったが、少年の様子に揺るぎはない。その程度の言葉では動揺しない、という事だろうか。

「いくらあんたが強くても、丸腰じゃ限界がある筈。本業らしく強盗してお金や食べ物を集め 

 れば良いのかもしれないけど、一人でやって上手くいくとは限らないだろうし、安全な方法

 を選んだ方が自分の身に危険が及ぶ可能性は低くなる。強いからって、戦いたいって訳じゃ

 ないでしょ」

「……」

「お金を使えばそれが出来る。食料や武器を買えるし、何でも出来る。違う?」

 額から冷や汗を垂らしながら、ルチルは強気な発言を続けた。少年の興味を引くため、少年が自分を『逃走』に使える人間だと判断してもらうために。

 彼は相変わらずルチルの体に自由を与えぬまま、石造のように微動だにせず、眉間にしわを寄せて熟考するような態度を見せた後、

「……一理ある、だろうな」

 抑揚のない声で、そう言った。

 それはルチルの言葉をまともに聞き入れ、尚且つ否定しないないようの言葉であった。

「だったら、私の話、聞いた方が良いんじゃない?」

 ルチルが得体の知れない危険な少年相手にここまで食い下がるのは、単なる意地によるものではない。

 彼が彼女を『逃走』のために利用しようとしているように、彼女もまた彼をとある目的のために利用しようという考えを抱いているからだ。

「ならば質問だ、俺の逃走を助ける事で、お前に益があるのか?」

「エキ? あぁ、利益って事? どうかしらね、そもそも私があんたにタダで協力してあげるなんて一言も言ってないわよ」

「……何が望みだ」

 少年は訝しげに眉をひそめ、不機嫌そうにしながらも、協力の代わりに何かを求められる事は受け入れるつもりのようだ。

(使える……!)

 心中でほくそ笑んだルチルは、一度目を閉じてから、脳裏にある光景を思い浮かべる。

 彼女がこの都市に来る前、彼女の身に起きた出来事と、彼女がこの都市に来なければならなかった原因である出来事を。

「……あんたの力を見込んで言うわ」

 ボソリと呟き、そしてキッと目を見開いて、覚悟を決めたように凛とした眼光を少年に向けながら、ルチルはこう答えた。 

「私の村を、助けて」

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