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第16話 急襲

 夜が明けてから、ルチルとジェイクはグード隊に同伴して足場の悪い林道をしばらく進んだ後、レチオンとチサーラ丘陵にそれぞれ繋がる三叉路に差し掛かった。

「本当なら全員で護衛してやりたいところなんだがなぁ! 我々も拠点に急がんといかん、幸

 いレチオンはここから近い……のだろう? この辺の地域は詳しくないがなぁ」

「平気ですよ。馬の機嫌も良いので、日没までには街に十分街に着けると思います」

「はっはっは、頼もしいなぁ! ちゃんと妹を守ってやるんだぞ、好青年」

 一晩同じ宿で過ごしただけだが、グード隊の面々は気まずさという言葉を知らないまでに親しく接してきた。

 別れ際にも兵士達からやつぎはやに「元気にやれよ」「無事でな」といった励ましの声をかけられて、いちいち頭を下げるのにジェイクは忙しそうだ。

「ほんと悲しいッスけど、仕方ないッスね。また会えたら嬉しいッス」

「うん、私も。元気でね」

 そんな男達の輪から少し離れた位置で、ウイナとの別れを惜しむルチル。

 昨夜は殆どの時間を彼女との会話に費やした。ジェイクにはちゃんと睡眠を取れと言われたので、ウイナが見張り番についた時だけ仮眠を取ったものの、少しでも彼女と接したいという思いから深い眠りにつく事は出来なかった。

 それでも、一日の疲れを忘れてしまう位に、ウイナと話すのは楽しかった。

 心を許せる数少ない相手との気軽な雰囲気にもっと酔っていたかったが、そうはいかない。

(村の皆と会えれば、またこんな風に楽しく話せる。だったら、立ち止まっていられない!)

 今後自分がどこに行って何をするのか全然予想出来ず、ウイナと再会出来る可能性も皆無に違いない。

 それでも、自分だけが有金を使って農奴である事を隠して生き延びるよりも、村人を徴兵から解放したいという方を選択した。

 ウイナと接すば接するほど、村での思い出が色濃く思い返されてきたから。

「気を付けてね、戦闘に参加……するんでしょ?」

「多分ッスけどね。その地域の部隊が優先して前線に送られるのが普通ッスけど、今の帝国軍

 はゴタゴタみたいッスから、分からないッス」

「そっか……」

 この先戦地で命の危機に瀕するかもしれないというのに、ウイナの緩い笑顔に変化はない。

 それは彼女が兵士として覚悟出来ているからなのだろう、ここで下手に心配し過ぎて水を刺さないようにと、ルチルは必要以上にこの先のグード隊の行動について詮索しないようにした。

「もし運良くクホウスに戻って休暇貰えたら、レチオンに行ってみるッスよ。適当にうろうろ

 してたら、いつか会えると思うッスし」

「あはは……私も探してみるね」

 レチオンのどこに住んでるかと聞かれたが、親戚が今どの家に住んでるかは分からないと適当にはぐらかしておいた。今後レチオンに戻るかどうかも分からないため、詳しい事を教えても仕方ない、そもそもレチオン自体ルチルには馴染みのない街だからだ。

 二度と会えないだろうと覚悟しながら、ルチルも気丈な笑顔で彼女を送り出そうとする。

「おーいウイナァ! そろそろ行くぞぉ!」

「あーい分かったッス。折角のお別れの時間を邪魔しないで欲しいッスねぇ」

「はは、そうだね」

「んじゃね、またいつかッス~~」

 またすぐ明日会えるかのような気軽さで手を振って、足を弾ませながらウイナはにこやかにルチルから離れていく。

 ルチルも笑顔を返すものの、ウイナに比べるとぎこちなさが残る引き攣ったものであった。

「それでは達者でなぁ! お二人さん!」

 兵達何人もの重なり合った声を背に、グードの大気を震わすような別れの言葉が耳を刺す。

 ルチルと同じようにジェイクもまた『好青年』の皮を被った気持ちよさそうな笑顔と共に軽く頭を下げている。

 やがて深緑の山岳の合間へと続く道の向こうへと鎧の集団が消えていくのを、ルチルは寂しげな眼差しで眺めていたかったが、

「行くぞ」

 二人だけになった途端に本来の感情乏しい冷めた顔へと戻し、余韻に浸る事なく馬に乗る。

「早く乗れ」

「……分かってる」

 彼は孤独な道中で出会った親しげなグード隊の事を気にも留めていないのだろう、別に構わないのだが、自分が感傷的になっている分少しムカッとしてしまう。

 遠くに目を凝らせばもしかするとまだウイナ達が見えるのではと思って伸ばしていた背を元に戻し、ルチルは馬鞍に跨る。

 すぐに手綱を引いて馬を走らせるジェイク、夜の間ずっと性格を取り繕っていた反動なのか、昨日以上に近寄りがたさが強まっているように思える。

 だからといって、また無言でただ彼の背中に掴まっているような気持ちにもなれなかった。

「ウイナ達、安全に目的地まで辿り着けるのかな」

「知らん。最短距離を進んで、尚且つ敵に遭遇しない運があれば出来るだろう」

 その通りなのだが、根も葉もない返しに言葉を詰まらせるルチル。

「……そうなって欲しい、皆良い人達だったから」

「良い人?」

「うん。ウイナは同じ女子だけど強いし綺麗だし話しやすいし、他の兵士の人達も初対面の私

 に明るく接してくれた。村の外で、あんな暖かい気持ちになれるなんて思わなかったもの」

 別れた悲壮感よりも、ウイナ達に出会えた興奮の残り火がルチルの心中に充満していた。それに突き動かされるように、その興奮を表現したいがために口が動き、冷たくあしらわれると分かっていても言葉が続く。

「兵士って、怖い人ばっかだと思ってた。偉そうで、勝手で、他の人の事を見下してる奴等

 ばっかりかと思ってた。でもあの人達は、特にウイナは違ったの。私の村の皆を連れて行っ

 たあいつ等とは態度も性格も全部、違う生き物ってぐらいに。だから驚いて、嬉しかった」

「……それは、お前が農奴である事を隠していて、徴兵から逃げている事に気づいていないか

 らの対応だってのは分かってるか?」

 ウイナ達はルチルとジェイクを都市トーリアから避難してきた一般市民だと思って接してきた。帝国兵の義務は国と国民を守る事であり、グード隊はその方針に従うようにしてルチル達を気遣い、別れた後の道中を気にかけて水や食料、衣服等をわざわざ分け与えてくれた。

 もし、彼等と出会った時、何らかの形でルチルが徴兵に従わなかった農奴であり、ジェイクがレチオンから逃亡中の盗賊であると知っていたら。

「……分かってるわよ。分かりきってる」

 考えないようにしていた『もしも』が唐突に頭に浮かび、自然と表情と声が陰るルチル。

「遠路遥々ここまで来て、奴等の士気は下がっている様子はなかった。上からの命令に忠実で

 仕事に意欲的なんだろう、だとしたら俺とお前、国を乱す害悪と国の奴隷としての義務を放

 棄した問題児を見つければ、どう行動してくるかは想像がつく」

 どういう意図が込められているのか、ジェイクはルチルが思い浮かべたくないウイナ達の自分達に対する、可能性のあった『別の対応』を平坦な声音で口にする。

「お前の村の人間を連れていった兵士達も、あいつ等と何も変わりはないかもしれん。最初か

 ら農奴である事を知っているか知っていないか、それだけの差だろう」

「……」

「人を分けるのはそういう小さな違いだ。たまたま周りより賢くないから、たまたま周りと趣

 味が合わないから、たまたま見た目が良いから、大した事じゃなくてもそれをきっかけに人

 の人生は無限に変化していく。お前が持っているウイナとかいう女への印象は、『たまたま

 農奴として出会わなかった』から親しく接してきた面しか見ていないから生まれたものだ」

 ジェイクの言葉は間違っていないのだろう、ルチルは『避難する市民に優しいグード隊』とは行動を共にしたものの、『国を守るために徴兵に従わない農奴と遭遇した時のグード隊』がどんな行動や態度を取るのかは知らない。

 村を訪れた兵士達のように高圧的な態度を取るのだろうか、ウイナは自分を拒絶するだろうか、今は確かめようのないグード隊の見えない面を考える事がルチルはとにかく怖かった。

「……でも、嘘じゃないでしょ? 私達が会った、優しいウイナ達は」

 それでも、ルチルはジェイクの言葉を受け入れつつも、彼に抗うように言葉を返す。

「たまたま農奴の私を知らなかったとしても、あの暖かく接してくれるウイナは偽物じゃない

 もの。村の外でもこんな高ぶる気持ちになれたのは、間違いなくウイナ達に会えたから。た

 またまだとしても、それが現実に起きたんだから、それでいいの」

「……っ」

「それに、兵士にも色んな人がいるって知れた。私はあんたの言うように知識がないから、そ

 れくらいの事も分からなかった。村の皆じゃなくても、仲良く出来る人はいるんだって」

 村の外で初めて抱いた明るい印象、ウイナのような人間がいるのならば、生まれ育った村にこだわらなくても、村の皆が無事ならば生きていける。まだ助けてすらいないものの、そんな新たな希望が彼女の中には生まれていた。

 もしウイナ達に出会わずにいたら、村の皆を助けたいと今ほど強くはなかったかもしれないくらいに強い想いを。

 声は控え目ながらも、肝のある程度据わったルチルの言葉を聞いて、背を向けたまま馬を操るジェイクは会話が終了したかと思わせるくらい長い間を置いてから、

「自分に都合の良い誇大解釈だな」

 バッサリと、一言で一蹴した。

「ははは……かもね」

 いつも通りのジェイクの返しに妙な安心さえ覚えて苦々しく笑うルチル。

「ただ、いちいち落ち込まれるよりは、そうやって自分で勝手に前向きな思考でいてくれる方

 がこっちとしては楽だ」

「え? あぁ、そう……なの?」

「見つかった時はしくじったと思ったが、お前が多少は成長しているだけでも俺は有益に捉え

 ている。協力者としてな」

 今のは果たして褒められたのだろうか。

 分からないが、ジェイクから命令とダメだし以外の言葉が自分に向けられたと思うと不思議な胸の高まりが起きているのをルチルは感じた。

「……出来てるのかは分からないけれど、もしそうだとしたら、あんたのお陰だと思う」

「なんでそう思う」

「あんたについてて貰わないと、私は村の外のものには今でも怯えていたと思うから。あんた

 のその素っ気なさに、少しは鍛えられたのかもしれないし」

 自分で言っていて、少し照れくさくなって口を尖らせるルチル。

「……そうか。良かったな」

 対してジェイクは、いつも通りの素っ気ない反応を見せるだけだった。

 ただルチルにはその反応で十分だった。

 今の彼女には自信がある。少なくとも、不安に押し潰されはしないぐらいの強い自信が。

 それを与えてくれたのはウイナ達であり、そのきっかけを与えてくれたのはジェイクだ。

 そしてそれは村の皆を助けようと行動してきた結果であり、一種の成果と呼んでもいいかもしれない。

「ジェイクは、やっぱり嫌だったの? ウイナ達と会って」

「……必要ない接触だったと思っている。俺にとっては正体に気づかれないよう常に気を張ら

 なければならなかったんだからな」

 正論であり、その原因を作ったのは言うまでもなくルチルであり、ぐうの音でも出ない。

「……いや、一つも益がなかったという訳でもなかったかもしれんがな」

 と、前言を修正するような事を口にした後、一つ間を置いてからこう続ける。

「……俺も一つ知った。奴等と出会ってな」

「え?」

「やっぱり俺は、相容れない。社会の仕組みの中で生きてきた連中とは」

 駆け抜け切っていく風の音に掻き消されそうになるような小さな声で呟かれた言葉が、土を踏みつける馬蹄の音の合間からルチルに耳に流れ込んできた。

「それって、どういう……?」 

「合わないって事だ。一晩中奴等と同じ屋根の下で過ごして、改めて分かった」

「なんでそんな風に、言うのよ」

「単純な話だ……気持ち悪かったんだ。あの連中と一緒にいたら」

 ルチルの言葉に被せるように、答えるというよりは突き放すような淡白さの一言だった。

「何か、嫌な事でも言われたとか?」

「そんなんじゃない。気を回して話題を振られたり、体を気遣って眠るための場所を広く取っ

 てもらったり、そういう意味ではむしろ厚い待遇をされたと思う」

 だったら、というルチルの疑問に先んじるように、ジェイクはもう一つ付け加える。

「俺にとっては気色悪かったんだよ。疎開民だからって親身に接してきた事も、少ない食料と

 水の補給をさせてくれた事も、寝ている間交代で見張りをしてもらった事も、笑って送り出

 された事も、お前の言う『暖かさ』ってものがむず痒くて、心も体も拒絶してたんだ」

 極めて落ち着いた、しかし一言一言に重みのある言葉で彼は告白した。

「俺は所詮盗賊だ、お前等にとっては当たり前の、他人のための行為は俺達にとっては不必要

 なものだ。盗賊は自分のために動いて奪って食べて殺す、そんな汚れきった世界で生きて心

 身腐った人間は、お前やあいつ等のような人間とは対極に位置いる生き物なんだよ。好き嫌

 いの問題じゃなく、合わないだけだって事だ」

 それを聞いたルチルは、どう答えていいのか分からなかった。

 彼はグード隊から受けた厚意を厚意として理解していた、その上でその行為に嫌悪を抱いていたというのだ。

 暴言をかけられたり暴力を受けたから誰かを嫌うというのは人間なら当たり前の感情の持ち方だ。だが優しく親しくされた事で相手に負の感情を抱くものなのだろうか、と思ったからだ。

 そして同時に、ルチルが抱いたウイナ達への好意的な感情を真っ向から否定された気がして、自分と彼との間に見えない壁のようなものを肌に感じもしたのだ。

「……分かりやすく言ってよ」

「言ってるだろ、社会から逸脱した俺と、社会の作った地位の中で生きてきた人間とじゃ、何

 もかもが合わないって意味だ」

「……それなら」

 そこで一度言葉を止めて、こちらを向いていない彼の頭を見据えながら、質問を投げかける。

「私と一緒にいるのも、気分が悪いの……?」

 その時だけ、体を撫でる向かい風や地面を鳴らす馬の走行音で常に騒々しかった二人の周囲が、水を打ったように音が消え去ったような錯覚が起きたような気がした。

「……」

 反応を伺うような慎重さで彼女の口から漏れた声が果たして耳に届いたのか否か、ジェイクは何か返答をするでもなく、手綱を操る事に集中している。

(その無言は、どういう意味なの?)

 ルチルは農奴である。帝国が作り出した、帝国内の社会の中で生きる人間の、階級の底辺に位置する奴隷の一種である。

 彼女はずっと農奴として生きてきた、農奴でありたいと思っていた訳ではないが、結果的に農奴としての義務を今までこなして生きてきた。その時点で彼女はれっきとした、社会の一部の人間であった。

 だとすれば、ジェイクの口にした、彼が相容れないとした『社会の仕組みの中で生きてきた連中』に当てはまるのではないか。

 だから、気になったのだ。自分はジェイクに嫌われているのではないかと思った瞬間、無性に彼の本心が知りたくなったのだ。

 返事をしない事すら、何らかの意味が含まれているのではないかと考えを巡らせるも、答えは出てこない。

 しかしもう一度今の質問を彼に投げかける勇気はなかった。

 もしそれで彼がそうだと答えてしまえば、彼に対する信頼が揺らいでしまう気がしたから。

 別に尋ねる必要はなかった、行動を共にする事で彼がどんな感情を抱こうとも、ルチルの目的のために協力してくれるのならばそれで良かった。

 分かってはいたのに、ルチルは聞いてしまっていた。自分と違い過ぎる不可解な彼の考え方、それによって彼が自分をどう思っているのかを知りたかった。

 好奇心というよりは、恐怖心に近いものに駆られて。

「……戻るぞ」

「え? なんでよ」

「『標的』を見つけないといけないだろうが、目的を忘れるな」

 そこで会話は強制的に途切れた。

 ジェイクはどんな思いでルチルに協力しているのか、気にはなるがその事ばかり考えている場合ではない。

 この地域に侵攻する王国軍、その戦力の中核である『標的』を倒し、村の皆が戦場で戦わなくても良い状況を作る、それがジェイクに協力してもらっている、ルチルの目的であった。

 初心を忘れては意味がない、ルチルはもやもやと釈然としない気持ちを抱えながらも、「うん」と一言呟いて彼に元来た道を引き返ってもらう。

「でも、大丈夫なの? 朝になってから結構時間が経つけど……」 

「農奴を連れてるならちゃんとした道を選んで通っている筈だ、少なくとも尾行していた時は

 そうだった」

 見つけたところですぐに接触する訳ではない、隙を見て『標的』を倒す機会が来るまでまた尾行を繰り返す事になるだろう。

 また昨日のような、ひたすら木々の流れていく景色を横目に馬に揺られる一日が始まるのかと若干陰鬱な気分に見舞われながら、馬が転回したのを機に振り落とされないようにジェイクの体を抱きしめ直す。

 少年の背中は厚く暖かく頼りになる筈なのに、言葉で現しがたい違和感を感じながら。


 太陽が昇りきった頃には、ジェイクの駆る馬はグード隊と別れた三叉路を過ぎ、宿屋付近にまで戻ってきていた。

 当然の事ながら既に彼等の姿はなく、風に揺れる草木のざわめきだけがその場に残っていて寂しげな風景が広がっている。

「で、ここからどっちに行くの?」

 宿屋に隠したままだった剣を回収してジェイクが戻ってきてから、ルチルが問う。

「さらに戻る。俺達が最後に『標的』を見た、あの宿の近くまではとりあえずな」

 特に休みもせず、再び馬の脚を進めようとしたが、ジェイクが手綱を引っ張る力が強かったのか、馬が驚いたように苦しそうな鳴き声と共に少し体を暴れさせた。

「ちょっ、うわっ!?」

 その拍子に、油断していたルチルは体勢を崩して馬の背から振り落とされてしまった。

「痛っ! ったったった……」

 背中からもろに地面に叩きつけられ、顔をしかめて尻餅をついてしまう。

「怪我ないか?」

「急に走らせないでよ……!」

「止まったら掴まってなくても良いなんて言ってないぞ……ん」

 言葉の後半を渋らせて、ジェイクは四方に忙しく険しい視線を向ける。

「どうしたの?」

「いや、何かうるさかった気がしてな」

 不穏な彼の言葉に顔を曇らせるルチル、その周囲で草むらが擦れるような音が微かにした。

「何の音……?」

 そちらをルチルが見ると、いつの間にか宿屋の陰から立派な角を生やした一頭の鹿が姿を現している事に気づく。

「変だな、馬が騒いでいるのが聞こえてたなら、野生の動物が近づいてくるとは思えないが」

 目を細めてそう呟きながら、ジェイクは早く馬に乗るように促してくる。

 その間、鹿は微動だにせずルチル達の方を見据えており、警戒しているというよりは体全体が固まってしまったかのようで、どこか気味が悪い。

「行くぞ」

 違和感はジェイクも抱いていたようで、ルチルが乗ったのを確認するとすぐさま馬を走らせようとするが、

『金髪、薄汚い、女』

 どこからでもなく、辺り全体に均一に響き渡るような、小さいながらもはっきりとした少女の声が二人の鼓膜を震わせた。

 驚いてルチルが目を丸くした直後、置物のように不動だった鹿の姿が一瞬にして全く別のものへと変化した。

「大きい、猫!?」

「馬鹿、ライオンだ!」

 様子を伺う、などという行為をする暇も必要もなかった。

 つい寸前まで鹿であった筈の場所にはライオンの姿があり、それも一般に知られているような容姿と比べると牙や爪が異様に長かったり鬣の色が黒々しく輝いていたりと、おぞましく妖しい迫力を放っている。

 ちなみにオスティム帝国内ではライオンは西部の乾燥地帯の支配地域でのみ生息しており、大抵の帝国民は新聞や書籍等に絵で描かれたものでしかその姿を知らない。

 突如『出現』したライオンは猛然とした速度で二人の乗る馬に向かって接近してきた。

 ジェイクはすぐに手綱を振るって馬を走らせるが、動き出しの時間差はあまりに大きく、次の瞬間あっという間に距離を詰めてきたライオンが禍々しい牙を剥き出しにして飛び掛かってきていた。

 馬をどれだけ上手く操っても回避は不可能なのが一目瞭然なほどに。

「ひっ!?」

「チッ……!」

 ルチルが体が竦んで短い悲鳴を漏らしているうちにジェイクは回収したばかりの剣を鞘から引き抜き、迫ってくるライオンの顔面にその切っ先を突き出す。

「うわっ!?」

 その直前、ジェイクは剣を持っていない方の腕の肘をルチルめがけて突き出してきて、無防備になっていた彼女は軽々と馬上から弾き落とされる。

「いったた……っ、あっ!」

 二度目の落馬にまたも激痛が体を巡って顔が歪むルチルだったが、ふと視線を上げた時、自分がつい寸前まで乗っていた馬の姿がすっかり変わり果てている事に遅れて気づく。

 鞍の部分が容赦なく切り裂かれており、背中の部分が一文字に鮮血で染まっていたのだ。

 少し離れた位置では、馬を裂いた右前脚の爪を赤く染め、ジェイクの反撃で額に傷を作ったライオンが、グルルと唸りを上げて敵意を向けてきている。

 馬は致命傷こそ負っていないようであったが、体を切られて大人しくしていられる程落ち着きがある訳でもなかったようで、バタバタと乱れた足並みでその場から走り去っていった。

「立て、馬鹿!」

 いつの間にか馬から降り、駆け寄ってきたジェイクに手を取られ、ルチルもまた宿屋へ逃げ込もうとするが、

「うおわっ……!」

 逃げようとする意思はあるものの、背後から迫りくる獅子の鬼気迫る姿に恐怖で足が竦んで上手く走れない。

 平坦な道のりにも関わらずフラフラと体勢が安定しないルチルは、足場が道の脇の草むらに変わったところで前のめりに倒れ込んでしまう。

 そこへ容赦なく繰り出されるライオンの凶刃と化した前足の爪は、ジェイクに強引に腕を引っ張られた事で僅かにルチルの体を掠め、空を切る。

 ただそれだけで彼女の右腕の皮膚が浅めに切り裂かれ、派手に数滴の血が地面に散る。

「いっ……あ……待っ……!」

 勢い余って道を挟んだ向こう側の草むらまで駆け抜けていったライオンは、足を止めた後すぐに次の攻撃に映ろうとこちらを睨みつけているが、その後ジェイクの攻撃によって切れた額から流れた血が目に入って悶え出した。

「な、なんで、何がどうなって……!?」

「知らん、いいから宿まで走れ!」

 耳元で聞こえたジェイクの叫びは、怒気と焦燥に満ちていた。 

 今まで聞いた事のなかった、ジェイクの慌てた声。落ち着き払った彼が動揺している事から、今がどれだけ窮地なのかというのを思い知らされる。

 それでも猛獣とルチル達の距離よりも、ルチル達から宿までの距離の方が若干短い。それにライオンは今動きを止めている、今のうちに宿まで駆け込めばこの一方的に攻められる状況はひとまず脱する事が出来る筈だ。

 歯を食いしばって立ち上がり、ジェイクの手を握り返して精一杯の力で走り出すルチル。

 が、宿まで後十数歩という位置まで近づいたところで、彼女の視界の端に常軌を逸した光景を確認した。

 確かに背後にいた筈の獅子の猛り狂ったその姿が、次の瞬間にはルチルの目の前に、宿屋の入り口の正面にあったのだ。

「なっ……んだと!?」

 さすがのジェイクも驚嘆の声を漏らす、それでも剣で応戦しようとするが、

「えっ……?」

 それから数瞬遅れて、ルチルは意味も分からず自分の全身の肌が粟立っている事に気づく。

 続いて感じたのは、首元に吹きかけられた荒々しい野獣の吐息と、衣服をとてつもなく強い力で引っ張られ、体が締め付けられている事に。

 それがライオンの口の端で襟を噛みつかれているからと気づいた頃には、ルチルの足はズルズルと地面の上を土煙を上げて引きずられ、瞬く間にジェイクから距離が離されていた。

「は、離し……助けて!」

 叫んでいるつもりなのに、肉食獣の殺気を目の当たりにして喉からまともに声が出ない。代わりに両目から涙が滲み出るも、ルチルを咥えて離さないライオンの速度が速過ぎてそれすらも風の中へ消えていく。

 引っ張られながらぐわんぐわんと体を揺さぶられ、視界が上下左右にブレまくって自分が今どの方向を向いているのか分からなくなる。

 ジェイクが近くにいる筈なのに、目に映らない。

 それだけで掻き立てられる不安にさらに精神が追いつめられ、意識が泥沼に浸かっていくように重く朦朧としていくのが分かった。

「ルチル!」

 その中に突き刺さるように聞こえたのは、ジェイクの切羽詰まった力強い声であった。

 ジェイクが呼んだ理由、それを考えたところでルチルはようやくこのライオンは自分をどこかへ連れて行こうとしていると理解した。

 それから彼女の意識が糸が切れたようにプツリと途切れるのに長い時間はかからなかった。


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