プロローグ 一英雄の死に際
彼等は英雄であった。
彼等は皆、長らく他国を侵略し、蹂躙し、支配し、搾取し、戦火を拡大して他国の全てを奪い続け、領土や資源、人民を手に入れ国力増強に邁進していた帝国に対し、勇気と覚悟、そして常人には存在しない強力な力をその身に宿し、力無き者を淘汰し続ける帝国に立ち向かった。
数で勝る敵を生まれ持った奇跡の力で圧倒し、脅威に怯える者を救い、今まで恐れおののく事しか出来なかった者達の心に勇気の火を灯す。そして帝国に奪われていた領土を、町を、山や森を奪還していった。戦いが続く中で彼等の勇敢なる戦いぶりに感化され、自らも帝国との戦いに身を投じる者も少なからず現れてきた。
彼等と彼等に感化され戦士として脅威に立ち向かう者達が行う戦いは、いつしか領地を取り戻す聖戦と呼ばれるようになった。本来帝国が支配する地域は我々の土地であると、今こそ生まれ故郷を取り返す時であると、帝国との戦いに様々な大義名分がつけられていった。
悪を挫く力を自分達は手に入れたと、多くの民は歓喜し高揚した。英雄はそんな民達に扇動されるように次々と帝国との戦いに挑み、勝って国民から感謝され、賞賛され、また別の戦いへ向かう事を懇願され、それを余儀なくされた。帝国という悪と戦う事こそ、彼等英雄が英雄として存在価値なのだと、遠まわしに示されているかのように。
それでも彼等は戦い続けた。自分達は強い、常人にはない力を持っていて、それを民の平和を取り戻すために戦っている。戦って勝てば民が喜び、感謝する者がいて、共に戦いに参加したいという者がいて、褒美をくれる者がいて、誰も彼もが自分達に特別な待遇をしてくれる。
帝国を倒し国土を取り返す事で自分達には普通では手に入らないものが容易に与えられる。それを糧にして、彼等はまた戦いに身を投じていく日々を送っていた。
彼等にとって戦いは、命を懸けた人生の大一番、などという大層なものではない。なぜなら敵は槍と盾を持った凡人の集まりであり、大抵の場合彼等は自分の持つ力を使えば簡単に一掃する事が出来たからだ。敵がどんな死に方をしたのか、戦い慣れた者は殆ど覚えてもいなかった。敵がどう命を落とそうと敵が負けるという事実に変化はないからだ。
ある時、草木生い茂る山中を進む、『彼等』の内の一人である青年がいた。身の丈程ある大剣を右手で軽々と持ち、足場の悪い斜面をなんなく疾駆する彼もまた、日々帝国との戦いを続ける英雄だ。この日も帝国軍が駐留する領地を取り返すために敵を駆逐する任務に就いていた。
しかし、その時の彼は、英雄らしい勇敢な姿とはかけ離れた、取り乱して焦っている様子という言葉がお似合いの情けない表情を浮かべていた。普段なら落ち着いて飄々とした様子で、彼と同じく特別な力を持った仲間達と共に敵陣へと突っ込み、慄く兵士達を排除して勝利を民に報告する。何度も何度も繰り返してきた事を、今日もまた同じようにやるだけの筈だった。
「なんでだよ……くそ、なんでだよ!」
そんな言葉を何度も漏らしながら、青年は沈みかけた夕日の日差しが差し込む森の中を必死で駆け抜ける。彼の左腕からは鮮血が幾筋となって垂れ出し、体が揺れる度に地面に赤黒く丸い染みを残していく。
彼は負傷した左腕を庇いながら背後へ何度も視線をやる。それから安堵とも落胆とも取れない溜息を吐き出し、また前に向かって走っていくのを繰り返していく。
本来なら、彼の背後には仲間達がついて来ているのが普通であった。 何度も共に戦い、共に助け合い、共に生きてきた、文字通りの戦友が。
帝国の敵陣に向かう、盗賊らしき連中を視界の端に捉えたために討伐しようと、仲間達とはぐれて行動していた。盗賊もまた人々に危害を加える悪しき存在なら、英雄として当然倒すべきだ。寄り道をするような感覚で一つ余計に悪い人間達を倒すだけだと、彼は考えていた。
それがどうして、今の彼は馬鹿みたいに汗を掻いて息を切らして走っているのか、彼自身理解出来ていなかった。
ただ一つ分かるのは、彼は生まれて初めて敵に対して感じる事のなかった、ある一つのはっきりとした感情を抱いているという事だ。
今まで全速力で走り続けていた彼は、前方に突如現れた複数の人影を視界に捉え、交互に踏み出していた足を強引に制止させる。
茂みに潜んでいたであろうその者達は、手にした弓で躊躇なく矢らしきものを撃ち放つ。
「くそっ!」
彼はあえて避けはせず、彼が英雄として帝国と戦ってきた象徴である、常人には持っていない特殊な力で迎撃する。
左手を掲げると同時、掌の正面に前触れもなく紅蓮の炎の塊が生み出され、それが意思を持ったように飛んでくる複数の矢へ向けて飛んでいく。炎の蛇と化したそれは周囲の大気を一瞬で熱しながら唸りをあげて矢を飲み込み、猛烈な火力で焼き尽くして黒々とした炭へ変化させてしまった。
人の手では到底発生させる事の出来ない、異常なまでの強い炎の発生及び操作、それが彼の持つ、英雄の象徴たる力の正体だ。これまで数百以上の敵兵を焼き払い、敵陣を消し炭にして、戦場を業火によって制圧してきた。この力を使えるだけで、彼は幾つもの功績と名声を得てきた。この炎を操る力だけは何者にも真似出来ない誇るべき事なのだと自信を持っていた。
自分の力に対して絶対の信頼があるからこそ、敵の急な攻撃に怯む事なく対処が出来た。慌てて回避するのではなく、炎で当然のように受け止めるという選択肢を選ぶ事が出来たのだ。
続けて迫りくる第二射もまた焼き払ってしまおうと炎を噴射する彼は、少し遅れてそれに包まれた矢に何か小さな袋らしきものが糸で括りつけられている事に気づく。
熱で糸が切れ消し炭となった矢から袋が離れ、中から液体らしきものが飛び出す。
迎撃した矢の半分は袋ごと消滅したが、炎を掻い潜った幾つかの袋から出てきた液体はそのまま彼の顔や体に渋きとなって降りかかった。濡れた手を振るった時に飛び散る程度の量しか浴びなかったため、最初は彼もあまり気に留めなかったが、
「っ……う、ぐあああっ!?」
その直後、瞳に突き刺すような激痛が走り、思わず悲痛の声を漏らして悶絶してしまった。液体の正体は分からないが、おそらく香辛料のようなものが含まれていたのだろう。あの矢には仮に落とされてもその液体で相手を怯ませようという二段の攻撃の構えが備えられていたらしい。
だが敵が近くにいる状況で意識を別の事に逸らすのは自殺行為だ、彼がすぐに袖口で目や顔についた液体を拭いながら警戒していると、新たな気配を背後に感じた。
それが攻撃だと直感した彼は、咄嗟に炎をそちらへ噴射して体の前に壁を作るが、攻撃は彼の体ではなく足元に向けて放たれていた。攻撃の正体は小さい鉛らしきもので、地面の上に散らばったかと思うと、炸裂音と同時に連鎖するように橙の火花が点滅するように飛び散った。
決して爆弾のように威力を持ったものではなかったが、精神的に不安定な状態に陥っていた彼の動揺を強めるには十分だった。彼は避けようとして思わず飛び退き山道から外れてしまい、足を取られて体勢を崩しそのまま落ち葉に埋め尽くされた急斜面を転げ落ちていく。
ろくにまともな受け身も取れないまま、時に体を木々にぶつけながらも滑落を止めるために手を伸ばして何かを掴もうとするが、それさえ許さないとばかりに次なる危害が彼に訪れた。
「ガァ!?」
転がっている最中、背中や腕の数か所で痛みが唐突に生まれた。文字通り刺すような痛みに顔を歪めた彼は、斜面から平坦な地点まで落ち切ったところで少しの間微動だにせず悶絶してから、痛みの正体を視認する。
撒き菱。鋭利な刺で出来たそれは、敵が通る場所に予め撒いておき、踏みつけた敵の足などに傷をつけさせる罠の一種だ。敗走する兵士が少しでも敵の追撃を遅らせるために使ったりするのだが、彼がたまたま足を踏み外した斜面に運悪くそれが仕掛けられていたというのは少し考えにくい。使うなら人が通る確率の高い山道の方が仕掛けるのに適正な場所だからだ。
「くっ……!」
歯を食いしばって痛みに耐えながら、刺さった撒き菱を無理矢理引き抜いていく。なにもかも上手くいかない現状への鬱憤をぶつけるようにして血に塗れたそれを地面へ叩きつけようとする彼だったが、そこを狙ったように彼の周囲に数人の男達が近くの木の陰から姿を現し、皆無言で武器を振りかざして接近してくるのが見えた。
(……全部読まれてるのか?)
迎撃した矢についていた液体で目に攻撃を受け、怯んだところへ足元を掬う爆薬での牽制を食らい、それに引っかかって斜面を転がり落ちて、待っていたかのように仕掛けられていた撒き菱で怪我を負う。そこへまた現れた敵、彼は自分が明らかに敵の術中に陥っているのだと、焦りと痛みで混乱しそうになる頭脳でなんとか理解した。
「ふざけ……るなぁ!」
そう思った瞬間、戦わなければ自分は助からないと悟った彼の意思に反応するように、彼の発火の力がさらに威力を増して発現する。手にした剣は烈火に包まれ、刃が瞬く間に赤く染まり、彼はそれを迫りくる敵めがけて迷わず振るった。殺意以外何の感情も垣間見えなかった敵に僅かな動揺が見えたのも束の間、次の瞬間には武器ごと首が炎剣で焼き切られ、肉の焦げる嫌な音と匂いと共に無惨な死体と化して地面へ崩れ落ちていく。
今まで無表情で襲いかかってきた男達も、剣が前触れなく炎を帯びた現象とその威力に面食らってしまったようで、一瞬連中の動きが鈍る。彼は流れるような動きで炎剣を切り返すと、戸惑う敵の男達に必殺の斬撃を繰り出し、強引に急所を切り裂いて鮮血を噴き出させる。
四人仕留めたところで、残った敵も彼の強力な力に真っ向から対抗するのは危険だと悟ったようで、素早く後退して距離をとった。
「そのまま逃げては、くれないよな……」
防戦一方だった状況が変わった、敵は自分の攻撃を目の前にして動揺しているに違いない、彼は今が敵から逃れる好機と判断する。
斜面の上にいた敵がこちらへ弓を構える複数の敵へ爆炎を勢いよく撃ち放ち牽制しつつ、連中から逃げるべく再び木々の合間を縫って走り出す。
(ハッ、いくら罠を用意されても奴等は所詮盗賊、民を救済する力を授かった俺があんな小悪
党に負ける訳がない!)
今まで何度戦場を経験した、今まで何人の敵を殺してきた、今までいくつもの人々を帝国の魔の手から救い出してきた。自分は英雄と呼ばれる者の一人だ、英雄は帝国という悪を滅ぼす戦士、戦うべき相手は長年周辺に住む者達を苦しめてきた強大な力を持つ帝国であり、盗賊など地を這う蟻のように、少し足を動かしただけであしらえてる小物でしかない。数多の民の希望の象徴である英雄が、盗賊程度に遅れを取って良い筈がない。
このまま走り続けて、森の抜けた先にある丘陵に建つ帝国の拠点まで行けば、頼もしい仲間がいる。帝国軍を蹴散らし、奪われた土地を取り返して既に戦い終えた、同じ英雄の仲間達が。
盗賊ごときに怪我を負ったのは情けないが、それでも自分は負けない。負ける訳がない。
生き残れる希望が見えて、今まで彼を支配していた恐怖が若干解れていく。敵を能力で殺して気づいた自分の持つ力の大きさが、精神的に追い詰められていた彼の心を支えていた。
疲労も怪我の痛みも忘れて、ただ前だけを見つめて足を動かし続ける。背後から飛んでくる矢も運良く外れ、追手自体の姿も既に遠くまで離れていた。足止めのために噴射した火が木に燃え移って煌々と輝く光景やそこから発せられる熱気も、幾つもの樹木を避けて走っていくうちに殆ど感じられなくなっていた。
逃げ切れる、そんな確信めいた感情が湧き、強張っていた彼の表情から緊張の糸が緩んだ。
「うっ!?」
その時、全身に雷が駆け抜けたかのような衝撃が走り、彼は反射的に足を止めてしまい、その場に蹲った。
体の異変に呼応するように怪我もまた疼きだし、額から嫌な汗が大量に流れ落ちていく。強い吐き気が急激に食道からせり上がり、視界は何重にも同じ景色が被って乱れ、体を巡る血が沸騰したように熱く感じられた。
(……何が……っ!?)
動かそうにも体がすごく重い、見えない岩石でも背負っているかのようで、脳は立ち上がれという指令を出しているのに、体はそれに拒絶を示している。
怪我の痛みや疲労に肉体が耐えられなくなった、などという類ではない。明らかに何か別の要因が、彼の体を確実に蝕んでいる。
せっかく引き離した盗賊達も、彼が動けなくなったためあっさりと追いついてきてしまう。
敵は弱った彼を嘲笑う事もせず、無駄のない動きで弓を構えてきた。
「……何をした」
絶望に駆られながら、青年が盗賊の男達に尋ねると、そのうちの一人が無愛想に答える。
「ギンチョウの実だ。体内に入ると一定時間痛覚を刺激する毒を持った実だ、さっき矢を受け
た時にでもその汁を受けたんだろう?」
聞いた事のない木の実の名前、そんなもので自分は殺されるのか?
勿体ぶりもしない彼等に殺される寸前まで、青年は信じられなかった。
こんな、戦争でも何でもない事で、英雄である自分が死んでしまう事が。