一話
薄暗い地下室の中で、数人の男たちが桶の中に手を入れてジャブジャブと何かを洗っていた。
皆、僕の同業者――掃除人。そして、洗っているのは、モンスターの皮や骨や眼球――彼らが今日の探索で見つけてきたお宝だ。ダンジョンで集めた素材の数々は、地上に持ち帰った後、こうして汚れやモンスターの血を洗い落としてから商人へ出荷されていく。
一方で僕といえば、結局、ジャイアントバットに籠も何もかも破壊されたため今日の収穫はゼロ。
洗うものもないため、こうして部屋の隅の樽に座りながら暇をしていたのだった。
「はぁ……」
何度目だろう。また溜息を吐く。
そして、ボーっと破れた手袋を眺めた。
今日の仕事を大失敗したことも、ジャイアントバットに殺されかけたことも当然頭にある。だけど、
思い出すのは――やっぱり彼女のこと。
「おい、ジルド。そろそろ飯に行こうぜ」
声の方向を見上げると、この空間――いや、世間一般と照らし合わせて異質を放つ格好の青年がいた。
男だというのに肩にまで伸びる長髪は東の商人から買い付けたというアクセサリーで彩られ、線の細い身体にはこれまた複雑に改造された服を纏い、そして手にはレースの白い手袋をはめている。
彼はレオニダ。僕よりも二つ年が上で、幼い頃から一緒に育ってきた兄のような存在だ。
僕はレオニダを見て、すぐに視線を落とした。
「……今日はいいや」
「なんだよ、手袋が破れたなら俺のを貸してやるけど……って、そういうことじゃなさそうだな。なんだ、そんなにジャイアントバットが怖かったのか?」
「そうじゃないけど……」
「ふーん? じゃあ、他に何かあるのか?」
他に――。
ふと胸がドクンと動く。
確かに、胸には失望でも恐怖でもない他の何かずっと居座っていた。
それが何者なのかは分からない。柔らかいような、暖かいような、震えるような、毛玉のような気持。どうにも引っかかり、正体を知りたいけど、それは僕が知ってる言葉では説明できない――そんな全く初めて体験する感情。
そして、その何かを探ろうとすると、毎回脳裏には彼女の姿が浮かび、どうにもむず痒い気持ちが芽生えるのだった。
なんだろう? これは、なんなんだろう?
とはいえ、レオニダにこの感情を吐露することも出来ず、僕は口ごもる。
「……いや、その、別に」
しかし、レオニダはそこから奥を見透かしたようだった。
ピョンと隣の樽に座ると、ニヤニヤと楽し気な表情を頬杖で歪めた。
「誰を好きになった」
慌てた僕はつい咳き込んでしまう。
「ほら、観念して吐けよ。俺ならいいアドバイスしてやれるぜ」
「違う、違う、違う!好きとか、そういのじゃないよ。助けてくれた勇者様がカッコ良かったから、僕もあの人みたいになりたいなぁとか考えてただけ」
「なるほど、その勇者が恋の相手か」
「違うよ!」
「でも、その勇者っていうのは女なんだろ?」
「まぁ……そうだけど……」
「美人か?」
「……うん……キレイだった……」
「なら、それはもう恋だな」
「だから違うってば!」
言いながら、最後の彼女の顔――あの笑顔が思い浮かぶ。
でも、違う。これは恋とか愛とか、やましい気持ちじゃない、はず。きっと。
「素直になれよ。恋は恥ずかしいことじゃないんだぜ?」
「……それは知ってるけど……」
「分かった、言い方を変えよう。お前は助けてくれた女勇者様に憧れてるってわけだな」
レオニダは例の笑みを絶やさない。
その顔は癪に障るけど僕は諦めた。
「うん、まぁ、そんな感じ」
「なるほど、なるほど。それは難しい恋だな」
相変わらずの振る舞いに、もう苦笑いすら湧いてくる。
このレオニダという男は、とにかく昔から恋愛が好きな――恋に生きる性格だった。
掃除人という仕事をしているにも拘わらず、その女性関係は街でも有名なほど大派手。年上も年下も、街の美人にはほとんど手を付けていて、一歩街に出れば元彼女に出会うといっても過言ではないほど。しかも最近ではあらぬ人とまで交遊があるという噂まである。
言われてばかりでなく僕もちょっと仕返してやることにした。
「そっちだって貴族の子と付き合ってるんでしょ。もっと難問なんじゃないの」
「俺はちゃんと恋愛のルールが分かってるから良いんだよ」
「なにれそれ」
「遊びと本気を分けてるってことさ。少なくとも、女に惚れたからって本気で勇者になりたいなんて言わないからな」
僕はちぇっと舌を鳴らして、そっぽを向く。
次の瞬間、目の前が急に暗くなった。
見れば、褐色の肌の中年の男性が僕らの前に立ち、部屋にいる男たちの中でも一際恰幅の良いその身体で灯りを遮っていた。
「どうした二人とも」
男性が落ち着いた低い声で言う。
怒っているわけではないようだけど、肩幅が広く圧倒するようだった。短く刈り込んだ黒髪から船首のように突き出た額は勇ましく、いかつい顎は濃い髭が覆っている。いかにも働く男という感じの厳格さが見て取れた。
僕とレオニダは一瞬固まるものの、その人物の正体が分かって肩の力を抜く。
「なんでもありません、父上。ただレオニダと話してただけです」
「そうそう弟の恋愛相談に乗ってたんだけだぜ、親父」
「だから!」
「やめろよ、ジルド。落ち着けって」
父上は表情を変えず僕らを見下ろす。
「飯に行くなら、さっさとしろ」
「へいへい。ほら、ジルド、続きは外でやろうぜ」
レオニダはズボンのポケットから手袋を取って僕に投げ、歩き出す。
僕もその手袋で素肌を隠して立ち上がった。
と、僕は父上に腕を掴まれ引き留められる。
父上はすぐには言葉を発しないが、何か話したいことがあるらしかった。レオニダに先に行っておくよう合図をして、僕は言葉を待つ。
しばらくして、父上が重い口を開いた。
「……お前は勇者になりたいのか?」
「いえ……それは……その……そんなことは考えていません」
鋭い父上の視線に、僕はつい顔を逸らす。
「ならいい。お前たちは商人になるんだ。今日も先生にお願いしてある。飯を食ったら、ちゃんと勉強して来い」