1章 3
さて。サトルが眠り込んだところで、本人に代わって私がこの物語の一人称であるサトルについて紹介しておこう。無論、現時点で、の話だが。
藤岡 卓は現在二十一歳。いや、サトル・フジオカとするのが妥当かも知れない。これは彼が二重国籍である事に起因する。日系アメリカ人と日本人の夫婦に養われているからである。ここで詳しく説明するが、前述の通り、サトルの実の両親は火災により死亡している「らしい」。このように表現する理由は、本人の記憶がないからである。4歳から先の記憶はあるが、当時起きたその事件については欠片も思い出すことが出来ないのである。記憶があるのは、病院で目を覚ましてから今に至るまで、だ。孤児院に送られた後、里親制度で不妊により子供に恵まれなかったフジオカ夫妻に引き取られたのである。ファーストネームが日本人らしいものであったから、親しみを覚えてくれたのだろう。こうして、サトル・マーティンはサトル・フジオカへと名前を変え、育てられた。本当に丁寧に育てられた、と彼は感謝の気持ちを忘れない。日本語教師の父と日本人の母に迎えられ、どちらの言葉も流暢に話せるように、家庭内での教育に気を使ってくれたからだ。また、学歴重視のアメリカにおいて、「日本に行きたい」というサトルの意思を受け入れ、短大卒業後の来日も後押ししてくれたことも大きい。
もちろん日本の大学に編入することも可能ではあったが、引き取りここまで育ててくれた両親の負担を減らしたかった。学費を自分で賄うため、塾でバイト中という訳だ。サービス業は時給があまり高くない上に、接客や言い回しなど感覚的なギャップが大き過ぎると聞き、それは困ると思った。次いで思い付いたのが、自分のバイリンガルを活かすということだった。「これなら出来そうだ」。その短絡的発想から英語科を担当、掛け持ち先のバイトも英会話スクールを選んだ。しかし日本の「受験英語」とやらに酷く苦戦することになった。日本語の理詰めによる構文の解説は、サトルにとって一種のカルチャーショックのようなものを感じさせた。一年たった今、講師の先輩との人間関係も確立し、アドバイスを受けつつようやく要領を掴んだ自覚が出てきたようだ。
しかし、構文以上にサトルを悩ませるもの。それこそ彼のシックスセンス――前述のそれである。
「万人のオーラが見える」。両親を含め次第に、年を重ねるごとに、この話題を人前で口にすることはなくなった。実の両親の公的な情報は役所やそういう機関である程度調べたが、やはりこの能力に関するものを見つけたことはまだ1度たりともない。何がどのような経緯でこのような能力を持つに至ったのか、知る術もない。記憶が全て蘇ればまた話は別であろうが。
少し話題がそれるが、実は作者である私がメタ発言を始めて――いや、サトル本人がスマートフォンを片手に眠りについてから、時は大分経過しているのだ。日付が変わるどころか、既に朝を迎えていた。流石の私も起こす程のことはしない。もう少し彼の話をしよう。
オーラが見える「ようになった」時期を彼は覚えていない。気付けば見えていたのだ。勿論、想像と現実を幼児が混ぜこぜにしたのだろう、と周囲は認識した。どこへ行っても否定されるし、夢や幻覚ではなく常に見えているのだと強く言えば言うほど、友人の反応は意地が悪くなった。両親こそ何となくかまってくれてはいたが、わざと見えないものを見ているという設定を自分に付けた「かまってちゃん」だと思われるようになっていたようだった。これを覚えてから、サトルはこの奇妙な視覚情報について言及するのを辞めた。両親にもだ。勿論、友人や大人の反応がそのようなものであったから、自分自身を特別視することもなかった。寧ろ隠すべき体質だ、と覚えた。
勿論、そう覚えたからといって、そうやすやすとオーラが見えなくなる事もなかった。対峙する人や往来する人々を、いつも何かしらの色が包んでいた。会話の最中に、まるでサーモグラフィーのように色味が変わる事もあった。感情の波がそれを表しているのだろう。
その人の性質や潜在的な感情を感じ取ってしまうものだから、「心が読めるの?」「心理学かなにかやってる?」等と困る質問を浴びたこともあった。どこまでこの原因不明で奇妙不可思議な視覚情報を自分の言動に取り入れて良いのか、彼もかなり悩んだようである。最近は割り切ったようで、自分の思考内のみに影響される情報と設定したようである。
ところで時計が11時を回ったので、そろそろ彼に物語の進行を任せよう。聞き逃したアラームを飛び越え、3度目に設定したアラームが11時だからである。それでは、私はこれで失礼するとしよう。