1章 1
「でさ、その子のカレ、ヤリ目だったっぽくてさぁ〜、マジ最悪じゃない?男の人でこんなこと言えるの、サトちゃんだけなんだから。有り得なくない?」
あぁ・・・・・。と、サトルはため息をつきかけ、やめた。なぜならプライベートな時間ではないからだ。しかも、人と会話している。相手は受験を控えた生徒であるから、元気のよい姿でいなくては、と思い直したのだ。
そこでふと、おや、と思った。当然のことだが、会話中に思案に暮れているのはおかしいではないか、という事にようやく気付いたのである。はっと視線を戻すと、案の定少女がむすっとした表情で見下ろしていた。
「サトちゃん、聞いてないでしょ」
藤岡 卓。これがサトルのフルネームである。自身で調べてみたところ、「卓」という名前に「サトル」という読みは本来無いようだ。どういう経緯でこのような当て字的な名付けになったのか、今となっては知るよしもない。なぜなら実の両親は恐らく既に他界しているからだ。サトルは慌てて首を左右に細かく振った。
「いやいや、そんなことないよ」
「うっそぉ、視線めっちゃ外れてたんですけど」
対面する女子高生は機嫌を損ねたようだった。生徒がこのように、まるで友人のように親しんでくれるのは年が近いからなのか、それともただ単に馬鹿にされているからなのか、サトル本人も未だ判断しかねるところであった。前者であって欲しいのは勿論のことなのだが、明らかにする手段はこの英語塾に勤めてかれこれ一年半、見つからないのであった。
このやりとりを背後で見ていたであろう生徒が口を出した。
「あ、トモがおこだぁ。サトちゃん何したの〜」
トモと呼ばれた対面する女子高生と、その背後に立つトモの同級生に、今のサトルができる発言は一つだった。
「え?お、おこ・・・・・?って、なに」
「え?サトちゃん、『おこ』の意味も知んないの〜?マジ有り得ないんだけど」
トモと友人は踵を返し、連れ立ってサトルのもとから去っていく。休み時間前に教えた単元の中で、質問に答えるはずだったのだが、話が脱線したまま会話は打ち切られてしまった。サトルは困惑した。
「え?ちょ、どこ行くの!さっきの質問のは!?」
「コンビニ!あとで聞くから!」
サトルは立ち上がって引き留めようとするが、彼の願望とは裏腹に少女二人は自動ドアの向こうへと消えていく。
「五分前には戻ってくること!ちょっと、聞いてんの?もう・・・・・」
手持ち無沙汰となったサトルは、仕方なく再び講師席に腰を下ろした。そして先ほどつきそこなったため息を深々とついた。
先ほど会話が破綻したそもそもの原因は、自分が途中から上の空になったことである。――いや、そうではない。
トモのオーラが、赤黒い色をしているからだ。
オーラ。それは人間が醸し出す雰囲気やその人の本質を可視化したものを指す用語である。普通、人には見えるはずのないそれが、サトルには見えてしまうのだ。お陰で視界はいつでもどこでも、色とりどりだ。行き交う人々のそれが常に視界にあることは、慣れっこではあるが、こうして時折人間関係を上手くいかなくさせてしまう。誰にも言えない、密かで大きな悩みだ。
赤いオーラは、その人にエネルギーが満ちている証拠である。しかしそこに黒が混じっている。悪意や暗い要素が同時に心に存在している状態の人間に、多く黒ずんだオーラを見てきた。だから、トモの明るい振る舞いと、読み取ってしまった本心とのギャップに困惑し、同時に心配でもあったのだ。あくまでも自分は「塾の講師」でしかなく、学校内の問題に首を突っ込んではいけない。サトルは煩わしいこの能力と、無力な身の上を嘆くのに、もう一度ため息をついた。
「あぁ・・・・・ほんと、嫌になっちゃうよ」