2章 3
八月一日家の屋敷は、厳密には「隣の敷地にある」と表現した方が正しい。聖と早苗は、園芸部を出ると正門のある方向に背を向けて歩いた。大学の校舎を左右対称に分ける並木道を通り、左側に大学院、右側に保育施設を見ながら並木道の終わりまで歩いた。正面に見えている職員用の駐車場の脇を歩き、駐車場と奥の敷地を仕切っている木立を通り抜けた。ここまで二人は一言も口を利かなかった。ようやく、早苗が口を開いた。
「兄さん」
「分かってる」
聖の声は静かだったが、家族である早苗が聞けば、いまだに彼が苛立っていることはその語調からよく分かるようだ。早苗は先ほどの口論について、サトルに悪気はなかったのだと言おうとしたようだが、早苗の言わんとしたことは既に聖にも伝わっていたようだった。木立とその先にある垣根の間にある小道を歩きながら、二人は八月一日家の裏口につながる門を目指していた。早苗は苛立ちの奥に隠れた本心を見抜いていた。その上で、彼女は静かに言葉を紡ぎ、聖の二の腕にそっと触れた。
「大丈夫よ。私達はいつも兄さんを守ってるんだもの。あなたの考えてることなんて、絶対に起こりっこないわ。だからそんなに苛々しないで」
今まで前を向いていた聖が早苗を見下ろした。そのとき、早苗は少しだけ困ったように微笑んでいた。
「早苗」
聖の言葉を聞いた早苗は、とげとげしい語調ではなくなっていることに気がついたようだった。彼に促され、開けられた門を通り抜けた早苗は、八月一日家の裏庭に入った。彼女が振り返ると、ちょうど聖が門を閉めるところだった。同時に聖は言った。
「僕がそんなに臆病に見える?」
門から顔を上げた聖と、振り返ったままの早苗は向かい合って佇んだ。早苗は微笑み、頷いた。
「ええ、見えるわ」
「そんなんじゃ兄失格じゃないか」
聖はため息をつき、早苗を追い越して屋敷の裏口から帰宅した。そこはガラス張り温室だった。裏口である温室のドアから最も遠い場所に、屋敷の中へ続くドアがある。聖はすでにそこを目指していた。早苗は兄の背中を見上げたが、彼は気がついていないようだ。
「そんなこともないわよ」
早苗は兄の背中めがけて走り出した。そして、彼が反応して振り向くのと同時に、抱きついた。早苗が見上げている聖の顔は少しだけ驚いていた。家族の早苗には、聖は感情の起伏をほとんど外面に出さないことも、しかし家族の中でも特に自分が彼の隠れた気持ちを読み取ることができることも、よく分かっていた。「少しだけ」しか変わらない表情でも、早苗の目から見ると大きな違いだった。そして、自分がどれだけ彼のことを愛しているかを彼が本当には分かっていないことも、よく分かっていた。早苗は兄を抱きしめた。
「迎えに来てくれてありがとう、聖兄さん」
かすかに聞こえたため息も、本当は心の中では少し微笑んでいる証拠なのだ。早苗には確信があった。
「そんなの。家族だろ・・・・・・」
しかし、実は聖が同時に少し虚しさも感じていたことまでは、流石の早苗も気づいてはいなかった。