1章 9
豪華絢爛な地下室が、地味な屋敷の下に存在する。これほどシュールな建造物はない。サトルは心底そう思った。
「ここは・・・・・・」
「うちの事務所」
八月一日がぼそりと答えた。自分の賃貸マンションの部屋が七畳半であるから、その四倍はありそうだ。陰気な彼に似合わず、ベージュやアイボリーを基調にした柔らかな部屋だった。おそらく皮で拵えられたブラウンのソファは、大人が並んで三人は腰掛けられそうだ。これが、木製のこれまた美しい装飾が施されたテーブルを挟んで二つ。その奥にはダイニングルームのようなカウンターとテーブル、椅子が用意され、フルーツの盛られた皿とコーヒー豆の入ったビンがカウンターを飾っていた。本棚には雑誌や書籍が充実しており、おそらく人数分であろう数のデスクと電子機器が揃えられていた。更にその奥にも扉があったが、サトルは何か聞かなかった。むしろ聞くべきはこれである。
「ここで、僕は、いったい何をされるん、ですか」
少し目を見開いた八月一日の顔は、驚きを表しているようだった。自分より少し背の高い彼の顔を、このときサトルは初めてまじまじと見た。波打つ栗色の髪は豊かで、しかし少し伸びすぎて視界を遮りかねない長さだ。その奥には宝石のような青い瞳が、意外とはっきりとした丸い目の中に鎮座していた。肌の色は病的ともいえるほど白く、その肌が薄桃色の唇を美しく目立たせていた。前髪と、陰気で冷淡な雰囲気からなかなかうかがい知ることができなかったが、意外と彼は、驚くほどの美少年だった。日本人離れしている。育ての親二人がアジア系の顔立ちをしており、それに比べるといささか欧米の血が入っていると見える自分と比べても、それを上回っていた。その高い鼻の両側から真っ青な視線を向けたまま、八月一日は言った。
「仕事だけど」
サトルは沈黙した。
「・・・・・・え?」
意味がわからなかった。取締係の内情を知られたから、こいつの仕事を手伝えということだろうか?いや、しかしここまでつれてきたのはこの青年本人である。彼の言葉足らずはわざとなのかと疑いたくなった。そして呆れた。
その間に、彼は先ほどサトルが一瞥した奥の扉に向かい、あけていた。「兄さん」と誰かを呼び寄せていた。
「急用か?」
「ぜんぜん」
「何だよ。今日は寝ていようと思ったのに」
「人手。作ったからつれてきた」
「は?」
聞こえてくる会話を聞き流しながら、サトルはソファ、キッチン、デスクを通り抜け、八月一日の後ろまで歩いた。そして大男と鉢合わせした。
「うわ」
お互いに驚きあい、そして見詰め合った。彼もまた端正な顔立ちをした男だった。明るい茶髪、緑の瞳、そして石膏の彫刻のように肌理の細かい肌。身長は見上げるほどあった。百七十センチ後半のサトルから比べて、十センチほど背が高いだろう。しかし体系は痩せ型で、顔立ちや雰囲気も落ち着いた優男だった。今は驚いた顔をしているが。
「ど、どうも」
「君が取締係になりたい子?」
「え?」
「え?」
話がわからない。とぼけたままたたずんでいると、何かひらめいたような顔をして、男は八月一日をにらんだ。
「さてはお前、また何も話さずつれてきたな」
「仕事の話はしたよ」
口答えする八月一日を置いてけぼりに、男はこちらに向き直った。
「弟が無理やり連れてきてすまない。弟・・・・・・こいつは君をスカウトしたつもりだったらしい」
弟、といいながら男は八月一日の肩に手を置いた。男は八月一日の兄だったのだとサトルは先ほどの「兄さん」の意味を悟った。さとるだけに。そして筆者は冷ややかな態度をとられるべきだと自分で思うのだった。
「俺は八月一日 奏。一応ここのリーダーなんだ。表向き・・・・・・というか、本業はこの学園の院生なんだけど。来年から教師になるけれど、とにかくよろしく」
そういって手を差し出す彼は柔和な微笑みをたたえていた。雰囲気どおり落ち着いた性格のようで、更に話も通じそうで、サトルは安心して手を握った。
「フジオカ・サトルです。今はフリーターです。ずっと、英語の講師を塾で」
「ここの学生や職員じゃなかったのか」
奏は驚いた表情をした。
「ここの職員の多くは学園の関係者で構成されてるんだ。もし、君が聖のスカウトに応じてくれるなら、ここに籍を作る方がいいと思うけれど・・・・・・君はどうだろう?」
奏が少し困ったように問い掛けてきた。全く嫌味のない対応だが、サトルは悩んだ。答えあぐねているサトルを、奏はにこやかにソファへ誘導した。
「時間はあるかな?せっかくだから、どうぞかけて」
「あ、どうも」
「外は寒かったろう。コーヒーでいいかな?聖、用意して」
「すみません。お構いなく」
部屋中にコーヒー豆の香りが漂った。抽出中、奏は聖に茶請けを用意するよう言いつけ、サトルの話に耳を傾けた。
「いや、こちらが無理を言ってつれてきたんだ。差し支えなければ、ゆっくりしていって。・・・・・・聖、お茶菓子も。・・・・・・それで、先ほどの話だけれど」
「僕・・・・・・実を言うと記憶喪失で。二重国籍なんですけど、本当のルーツを知りたくて、アメリカから来たんです。まだお金を貯めてるところだから、学園に籍をおくだなんて、考えもしてなかったです」
「ルーツを知るために・・・・・・。一人で、大変な思いをしてきたことだろう」
「いえ、今はちゃんと両親もいますから」
「今は?」
「僕、実の両親を亡くしてて。今の両親が引き取ってくれたんです」
サトルは微笑んだ。つらい思いをすることが少なかったのは、少なくとも両親の支えがあったからだと、本心を述べた。奏はコーヒーカップと茶請けを盆の上に用意する手を止めて、微笑んだ。
「それはよかった。しかし、ご両親も心配だろう。一人息子を海外で、フリーターとは」
「そうかもしれません。でも、背中を押してくれたから、その分僕は全力で目標に立ち向かいます」
「強いな。ところで、君はいくつ?」
「二十一です」
すると、奏は使命感に満ちた表情を見せた。
「それなら、僕らから一つの可能性を提示しよう」
聖がコーヒーとパウンドケーキを出すと、奏は改まってこう提案した。
「ここの大学に入らないか?」