導入
「お兄ちゃん!お兄ちゃん!ねえ、起きてってば!お兄ちゃん!」
月曜、朝。四月も初めの頃。布団から出した顔を清廉な冷気に刺されながら、僕、真田倫典は可愛い妹の甘い声で寝覚めを迎えていた。
「ううん…、あと五分…」
「もう!お兄ちゃんたら、いつもあと五分あと五分って!起こすこっちの身にもなってよね!」
甘えて睡眠の延長を求める僕を、妹はぷりぷりと叱咤してくる。
「そんなこと言わずにさ…。眠いんだよ…」
そう言って主張を譲らないでいると、妹は急に鼻をふふんと鳴らして僕に言葉での攻撃を加えてくる。
「…どうせ、昨日もエッチなゲームとかエッチな動画とかエッチな漫画とか見て夜更かししてたんでしょう?これだからお兄ちゃんは…」
「ばッ、違えし!そのような性的遊戯、お兄ちゃんにはとんと心当たりが御座いませんが?!」
「嘘。だって聞こえてきたもん。エッチな女の人の声とか、お兄ちゃんの、その、喘いでる声とか…」
そんな…。全部聞こえていたなんて……。
「ねえ」
茫然とする僕に、妹は顔を赤らめながら問いかけてくる。
「もしかしたらさ、そんなエッチなお兄ちゃんと年頃の私が一緒の部屋に二人きりって、結構危ないんじゃないのかな…」
「そ、そんなわけないだろ!だって本当の兄妹なんだぞ!お前をそんな目で見るわけ…」
「でも!」
僕の弁明を遮って、妹はベールに包み隠しておくべき真実を俺に告げる。
「昨日のお兄ちゃん、息を荒くしながら私の名前呼んでたじゃない!「るるこォッ!るるこォォォォォッ!」って!」
そ、そうか…。昨日の喘ぎ声が筒抜けだったならば、僕の秘められた禁断の愛も妹に筒抜けに…。
「お兄ちゃんって、妹をそんな目で見ちゃうけだものさんだったんだね…。るるこ、正直ショックだったよ」
ああ…、るるこ違うんだよ。昨晩の狼藉は、そう、愛ゆえに、愛ゆえになんだ。どうして真実の想いはこんなに届きにくいのだろう。
「でもね…」
でもね?!
「そんなお兄ちゃんを、私は今朝も起こしにきてあげたよ…?これってどういうことか分かる?」
確変の兆しッ!
「そ、それってもしかして…」
「うん…」
妹は限界まで紅潮した顔を俯かせながら、告げる。
「私も、お兄ちゃんが大好き…」
「るるこ……」
二人の顔は徐々にその距離を狭め、ついに互いの触れ合うべき場所がドッキングを果たす。今ここに、兄妹同士が織りなす禁断の純愛マウストゥーマウスが顕現なされたのだ!
「「Chu♡」」
「ひゃっはああああああ!」
18禁雑誌「偕楽殿」付録である「るるこちゃんのあまあまカンバセーション目覚まし」との一通りのコミュニケーションを終え、今日という現代を生き抜く力を確かに受け取った僕は奇声を上げながらベットから跳ね飛び起きる。ああ、有り余る力を抑えきれない。
そう、今までの妹とのやり取りはすべてフェイク。まやかしである。僕にはるるこちゃんなどという兄貴べったりのデレデレ妹はいない。いや、妹はいるけれども、あんな風に僕を甘やかしてはくれないし、あんなセリフは吐いてくれないし、そもそもそんな対応は僕の方から願い下げなのである。
だが、この僕を見よ!この溢れんばかりの闘気を!貧弱な筋肉はそのキャパシティーを超えたエネルギーを受け止めきれず、既に軋みを上げ、頭脳は透頂香を直接塗りつけたかの如き回転を見せている!今ならタイムマシンでも作れてしまいそうだ!笑うな!
そう、るるこちゃんはね、こんな僕にここまでのエネルギーを与えてくれるのさ!もうね、現実の女とかるるこちゃんに比べたらクソだね。そしてそんな現実の女にゴマすって取り入ろうとするリア充男どもも同様にクソだよ。るるこちゃんさえ居ればいい。何故みんなそんな簡単なことに気が付かないんだ?そこに気づきさえすれば、お互い高価なプレゼントやデートの為に使うお金を節約できるし、そうすればオゾン層だってゆくゆくは元に戻るはずなんだ!そう、時代はTNP!僕はその先駆者になる!なってみせるッ!そして、現行のMOTTAINAIはその座を取って代わられるのだ!そう!この僕の提唱するRURUKO―CHANによってな!
「ふッ…、自分の低燃費っぷりが恐ろしい…。これは世界を変革する力やでぇ…」
「それはあんたが童貞だからでしょ」
「うおおうああっ!」
いつの間にか僕の部屋に侵入していた現実の妹、操が僕の覇道をあっさりと否定する。今しがたまで台所で作業をしていたのか、中学指定制服の上にエプロンを着込み、長い黒髪をポニーに纏めていた。
しかし、貴様、我が覇の道を蔑ろにするとは正気か?この野望が実現した暁にはお前は世界の王の妹となるのだぞ?!しっかりしろ!
「何ぶつぶつ呟いてるのよ、気持ち悪い…。ほら、朝ごはんとっくに出来てるんだから、早く食べてよね」
「う、うん…」
余談だが、毎度の朝食は家族四人分全て操が作ってくれている。
「全く、洗い物片づけないと学校行けないんだから。待たされるこっちの身にもなってよね」
そう言いながら操は踵を返し、一階の食卓へと階段を下りていく。そんな姿に対して僕は「いえっさー」と恭順の意思を示す他ないのである。るるこちゃんと似たようなセリフでも、そこには一片のデレすらない。
「あ、それと…」
と、操は階段の中ほどで止まり、最敬礼の状態で階段入口にて見送る僕にいらん一言を告げる
「あの気色の悪い目覚まし、いい加減やめてよね。お兄ちゃんとのやり取りが一階まで響いてくるんですけど」
「……!!」
そんなに響き渡っていたのか…。ああ、僕とるるこちゃんの秘め隠しておくべき蜜月が白日の下に…。って、こんなシチュエーションもさっきあったよね。やっぱり意味が真反対だけれども。しかし、それよりも問題とすべきことがある。今こいつは、今、こいつは……。
聞き捨てならないことを言いやがった……!
「き、気色悪いやとぉぉぉお…」
あの目覚ましに内蔵されている甘い言葉たち。それは人気のエロゲ声優さんが丹精こめて吹き込んでくれた、一つ一つに愛情のこもったセリフたちなのだ。そしてそれらは世のお兄ちゃんたちに「セリフさえ暗記すれば理想の妹とのいちゃいちゃライフを送れる」というパライソを見せるべく全12パターンの応答を形成している。しかし、目覚まし時計、そして雑誌付録であるというハード的、商業的な制約故に普遍的で甘い会話をできるだけ少ないワード数で表現せざるを得ず、完成に至るまでの制作班の苦心はある雑誌の一万字コラムでまるまる取り上げられるほどだったのだ。
そんな数多の業界人たちの血と汗と涙と諸々の体液の結晶である「るるこちゃんのあまあまカンバセーション目覚まし」を、こともあろうに汚らわしいリアル妹が、気色悪いなどと言い放ったのだ。これには日ごろ温厚な青年として近所でも評判の僕ですら、自分の奥底に潜む憤怒の鬼を呼び出す他ない。
「お前にッ!お前にるるこちゃんと俺の関係をどうこう言う資格はないッ!」
「あのね、実の兄と二次元キャラの会話が流れてくる朝の食卓って想像したことある?その時のお父さんとお母さんの表情、お兄ちゃんに見せてあげよっか」
「ごめんなさい」
温厚な青年は素直に謝るのである。
「それじゃ、本当に急いでよね。早くしないと洗い物、お兄ちゃんにやってもらうから」
そう言って操は今度こそ階段を下りていくのだった。僕の心にぽっかりと穴を空けて、あまつさえそこにたらふくの絶望を詰め込んでから。
…とかく人の世は生き辛い…。しかし…。
「とりあえず、学校行くか…」
生きねば。
学校に着き、教室に入って自分の席に着く。すると早速後ろの席の宇津々満に声を掛けられた。
「おはよう、倫典。今朝も遅刻ギリギリだな」
宇津々は自称僕の友人である。容姿端麗、品行方正、学業優秀、女子持持な絵にかいたリア充男子だ。要するにオゾン層の破壊に貢献するクズの一人である。互いに憎しみ合わなければならない宿命を持つ僕たちであるが、何故か宇津々は僕に好意的に話しかけてくるのであった。
「遅刻が僕の活動時間に対してギリギリなんだよ。…なあ、もう僕に話しかけるの、やめてくれないかな」
「どうして?俺、倫典と話してると楽しいし」
「僕の方が惨めになるんだよ。宇津々みたいなキラキラと一緒にいると、僕自身の行き詰まりをいつもより強く感じるっていうかさ…。あと、馴れ馴れしくファーストネームを呼び捨てにした呼称を使用するのは最低限やめてくれ」
「了解、倫典きゅん」
「……」
宇津々との会話は万事こんな調子である。こいつは頭の回転が速く知識も幅広いので、誰とでも会話ができる。つまりリア充の必須技能は完全に習得しているのだ。それなのに、よりにもよって教室で一番絡む相手はこの僕である。このクラスにはお前の彼女だっているんだぞ。こんな僕に話しかけて時間を無駄にして彼女を蔑ろにしてやるなよ。愛を取り戻せ!
「とにかく、もうお前との会話は金輪際なしだからな!オゾン層の為にも!」
「…何言ってんの、倫典?」
「あ、あ!またもとに戻ってる!呼び捨ては止め給えよ!」
「了解、倫典たん」
…勝てない。これがリア充の会話力。人生に対する圧倒的な余裕が生み出す柔軟なコミュニケーションということか。
「なあに?あんたらまた喧嘩してるの?」
突然、そんな言葉とともに僕らのやり取りに参戦してきたのは、件の宇津々の彼女、軽井沢春香さんである。所属している陸上部の部活が終わったあとだからか、Yシャツの端をスカートから出してラフに着込み、首からタオルを掛けている。やや茶味がかったショートヘアはシャワーの後でうっすらと水気を含んでいた。
宇津々がそんな彼女に対応する。
「喧嘩じゃないぞ、倫典ちんとの友情を朝も早よから再確認していたのだ」
「妙に暑苦しいわね…。っていうか、何その真田君の呼び方」
嫌な所に触れられたなあ…。
「これは倫典たま直々の指定なんだ」
「へえ、そうなの」
そんなわけない。
「前から思ってたんだけど、真田君って面白いね」
「……!」
満面の笑みを向けてくる軽井沢さんに上手く言葉を返すことができない。こういう時、女の子にどんな言葉を向ければ、自分みたいな人間が無難に局面を切り抜けられるのだろうか。
「…?ねえ、真田君、顔赤いけど大丈夫?」
動揺が顔面にまで出ていたのか!それ以前に相手は他人の彼女だぞ!どうした、世紀末の世に愛を取り戻すのが僕の使命じゃなかったのか!
「だ、だいじょうぶ…」
俯き、どもりながらもなんとか言葉を返す。ちなみに本当は全然大丈夫じゃないよ。しこーかいろはショート完了です。
「そう。ならいいんだけど」
そう彼女が言葉を区切ったとき、タイミングよくHRの準備を促す予冷が校内に鳴り響いた。やった、助かったぞ。何から助かったのかはよくわからないけれど。
「あ、そろそろ先生きちゃうね。じゃあ、満、真田君、また休み時間にね」
解放の福音であるチャイムもまだ鳴りやまぬなか、軽井沢さんは自分の席へと戻っていった。安堵の溜息とともに俯かせていた顔を元に戻すと、妙なニヤニヤ笑いをした宇津々と目があった。
「なんだよ」
「倫典ってさ、本当に」
本当に…。なんだよ。
「清々しいまでの童貞だよな」
「ど、どどどどど童貞ちゃうわ!」
実際、その通りなのである。
校内に響くチャイムの音に包まれながら、その女生徒は倫典の所属する2年1組のドアの外に佇んでいた。始業の準備のために慌ただしく自身の教室へと向かう生徒たちの群れの中にあって、一人静止している彼女は些かの違和感を孕んでいなくはなかったが、それもこの騒々しさのなかでは紛れてしまう。
「ふむ…」
三年生のリボンをつけた彼女は自分の教室に向かうでもなく、何かを自分一人で合点したようだった。彼女は先ほどの倫典と宇津々のやり取りをドアの端からこっそりと覗き見ていたのである。教室を出入りする生徒には不審者を見る目そのものでじろじろと見つめられたが、至上目的のためにあってはその程度、痛くも痒くもない。
「なるほど、真田倫典。噂通りだ。…彼をおいて我が部活の構成員となるべき人物は、この市立澄清高校には存在しないだろう」
彼女は震えていた。自身にこの出会いを恵んでくれた存在に感謝すらしていた。いや、違う、この出会いをつかみ取った所以は、ひとえに彼女自身の奮闘だ。だから、彼女は自分でも気が付かぬうちに、自身を大いに褒めそやしていた。そして自身でそれに気が付いたあとも、恥じることなくそれを受け入れた。それほどまでに、彼女は真田倫典の発見に歓喜していた。
「全く…、真田倫典…。君は…、君は…」
なんて素晴らしい童貞なんだとは、流石に口にはしなかった。