朝の目覚めとノアさん
前回のお話は調整にえらい時間がかかっているのですが、更新があれだけではちょっとな、と思いますので連続投稿です。
なんだかとても、儚い夢を見た気がする。眠りについてから、30分にも満たない間に見た、白い欠片。しかしその欠片は煙の様に、その輪郭を転変させ、消え去っていく。それを忘れてはいけないのに。それだけは理解できるのだけど、なにか特別な夢を見た、という情報しか、俺の頭にはもう残っていない。
ふと、頬を涙が伝っていることに気が付いた。穏やかな朝日とは裏腹に、胸の辺りに何か重たい物が滞留しているような気分。遠くで朽ちてしまった夢を想いながら、深く息を吐く。それと同時に、ノアが部屋に入ってきた。彼女は俺が既に起きていたことに少し驚いたようで、エプロンドレスが衣擦れする音と共に、こちらに近付いてくる。
「おはようございます、クロノ様。……何か、悪い夢でも見たのですか?顔色が優れないように見えますが」
よほどひどい顔をしていたらしい。ノアは眉根を下げて、とても心配そうにこちらをみつめていた。彼女がこれほど表情を変えて話しかけてきたことは初めてだったので、そのことに少し面食ってしまう。
「そうですね、妙な夢を見ていたような気がします。でも、大丈夫ですよ。体調は問題ありませんから」
それでもその問いに、急ごしらえではあるけれど、笑みを浮かべて答えた。なんというか、人に弱さを見せるのは苦手だ。誰かに自分の欠けた部分を見せることが出来る人は、そういう類の強い人なんだと思う。俺にはそうした強さはないので、微笑んだ後に大げさな仕草で、胸の辺りを握りこぶしで叩いた。胸の奥できしり、と寂しげな音が聞こえたような気がするけど、聞かなかったことにした。ちょっとした強がりにすら痛みが伴うなんて、我がことながら無様なもんだ、なんて思いが隙間風の様に心中を通り過ぎて行く。
ノアはその仕草を見ると、メガネをくい、と直してからこちらの瞳をじっとみつめてきた。…この世界に来てから知ったことなのだけど、女の人のこうした視線はこちらの虚飾や強がりを見破ってしまう魔力がある。怜悧な双眸からそれが放たれるのなら、なおさらだ。自分の笑みが随分と曖昧なものになってしまっていることを自覚しながら、ノアと少し距離をとろうとした。
しかし、その試みはノアの予想外の行動で封じられてしまう。失礼します、という言葉と同時に、頬の辺りを手の平で触れるようにして抑え込まれてしまったのだ。恥ずかしさと、寝汗をかなりかいていたことを思い出して、慌ててそれから逃れようとした。しかし、ノアがかなり前かがみの姿勢でいるので、このまま無理に引きはがそうとすると、ノアをベッドに引き込んでしまうような格好になることを思い出して、そのまま固まってしまう。
「クロノ様……どうか、ご無理をなさらないでください。殿方として、弱さを見せたくないという矜持はご立派なものです。しかし、失礼ながら貴方様はご自身の心が限界を迎えるまで、その矜持を貫いてしまわれる方の様に思えます。貴方様の侍従たる私の前では、遠慮などなさることはありません。安心して、貴方様をお見せください」
ノアはそのままおでこをコツン、と俺のおでこにくっつけると、目をつぶり、何かを呟き始めた。朝露を浴びたミントのような香りが鼻腔をくすぐり、胸の中に滞留していた重たい何かは徐々に消え去っていく。胸の重さが完全に消え去ると、ノアはゆったりとした動作で俺から離れた。……エルフは癒しの術に長けており、その範囲は心の領域にまで及ぶ、と書物で読んだ覚えがある。これも、その能力の発露なのだろうか。
「あの……えーと。ありがとうございます。そして……そうですね、そのように振る舞えるよう善処しま…じゃない、まぁ、やってみますよ」
「私の言葉をお聞き入れいただけたこと、望外の喜びです」
いつも通りの、冷厳な表情。しかし、その白磁の様な相貌が、ほのかな桜色に染まっているのを見て、急激に気恥ずかしさが込み上げてきた。色めく言葉を告げられた乙女の様に、思わず毛布を胸の辺りまで引き上げてしまう。ノアの方は堂々としたもので、朝の紅茶を淡々と、しかし優美な動作で用意している。くそぅ、なんだか立場というか、とるべき仕草がアベコベじゃないか。恥ずかしがっている自分の方が間違っているんじゃないかという気持ちになる。
「ノアさん、せっかくですから一緒に紅茶を飲みませんか?思えば、ノアさんと事務的なお話以外をしたことがありませんでしたし……」
ちょっと悔しい感じではあるけれど、それでも俺の心に思いを致してくれたことはありがたいことだし、彼女にはこれからもお世話になることが多そうだ。だから、ノアのことをもっと知っておきたくなって、気が付けばそんな言葉を発していた。ベッドから起き上がり、窓際に置かれたテーブルにアップルパイとお皿を作成してから、椅子を引いて彼女を待ちわびる。
するとノアは大きな物音を聞いたリスのように、きょとんとした表情を浮かべた後にかしこまりました、とだけ答えた。紅茶のかぐわしい香りを嗅ぎながら、ノアに着席を促す。おっかなびっくり、というかなんというか。そんな様子で着席するノアがおかしくて、先程とは違い、自然に笑みが浮かんでくる。
ノアが煎れてくれた紅茶をカップにそそぎ、彼女の前に置く。慌てた様子でその作業を代わろうとするノアを手で制してから、次にアップルパイを切り分けて、カップの横に置かれた皿に盛りつけた。仕えている相手に何かをしてもらう、という状況に慣れていないのだろうか。指先をもじもじさせながら、ノアは落ち着かない様子だった。お礼を言う言葉もどこかタドタドしくて、微笑ましい。自分の分も用意しようとすると、今度は逆にノアに手で制された。
「クロノ様へのご奉仕は、私の職責にございます。どうか、私にご用意させていただけませんでしょうか」
ちょっとした二度手間にはなるけれど、職責とまで言われてしまっては譲らざるを得ない。俺が着席すると、それと入れ替わるようにノアは立ち上がり、紅茶とパイを用意してくれる。ありがとうございます、とお礼を言うと、いいえ、と控えめな声音で返してきた。
お互いに席に着き、紅茶を飲む。元の世界では茶葉の良し悪しなんて意識したことはなかったのだけど、色々と飲み比べてみると結構味や香りが違うもので、特に今日の紅茶は美味しく感じられた。一人だけではなく、誰かと一緒に飲むという状況も大いに関係しているのかもな、と思いながらアップルパイにフォークを差し込んで、頬張る。
サクサクした生地と、しっとりとしたリンゴの果肉。そして表面に塗られたカラメルの甘さが違和感なく調和している。このパイが食べたいがために、電車を乗り継いで隣町まで行ったりしたっけな、などと思い出しながらノアを見遣る。紅茶を飲み、パイを小さく切り分けて、口に運ぶ。たったそれだけの仕草なのに、白鳥が飛び立つような優雅さが香る。この人ってメイドさんだよな?
「ノアさんってどういった経緯でメイドをするようになったんですか?メイドというお仕事に、とても誇りを持っているように思えるのですけど」
努めて砕けた感じの口調で、聞いてみた。ノアは静かにカップをソーサーに置くと、湖面のような瞳でこちらを見つめ返してきた。何故だかこの視線をそらしてはいけない気がして、数秒の間、見つめ合う形になる。先に目を逸らしたのはノアの方で、一度だけ目を閉じてから、訥々と語り始めた。
「ご存知かもしれませんが、私はエルフという種族です。エルフたちは基本的に他の種族と接触を持たずに、集落のようなものを構成して暮らしています。エルフは長命な種族ですので、迂闊に他人種と交わると厄介なことに巻き込まれる、と考える者が多いのでしょうね。あらゆる裁定が…結婚といった事象までもが王の定めるままに運営される、閉じた箱庭。私はどうしてもそれを『善いもの』とは思えなかったのです。喜びがあって、悲しみがある。見知らぬ天地や出来事に心を動かすことこそ、人生なのではないか。子供の頃から、そう思い続けていました」
気持ちを切り替えるように、紅茶を口にしてからノアは言葉を続けた。
「あれは18になった頃だったでしょうか。唐突に私の結婚が決まりました。お相手は、一度も会ったことがない、別の集落の男性だったと思います。あの時の心を口で説明するのは難しいのですが……そうですね、単純に嫌だったのです。人生の重大事にすら自分の意思が介在しないことが」
だから逃げ出した、と何でもない事の様に語るノア。そこに至るまでの、様々な想いを静かな面持ちの中に隠して。…人権意識が強いといっても、やはり地域差があるという話なのだろう。元の世界においても、全ての国で人権と言われるものが遵守されていたとは言えなかった訳だし。村社会において、一定の秩序を守る為にそうしたものが軽視されるのを、一概に非難するべきではないだろうけど。それでも、目の前にいる女性にそういう重荷を背負わせた者達に、憤りを感じた。
「幸いにして、私は無事に追手から逃げ切ることが出来ました。一文無しで、外の世界の常識すら知らない私はその日に食べるパンにすら難儀する有り様でしたが、毎日が楽しかったですね。良い人もいましたし、嫌な人もいました。しかし、季節が巡るように、沢山の出来事に出会うこともできました」
そんな日々が愛おしかった、とうっすらとした笑みを浮かべるノア。停滞を嫌い、未知の道程を歩むことを決めた少女。そんな、気高さのようなものが、その笑みからは読み取れて。純粋に、尊敬の念が胸に込み上げてきた。
「それからしばらくの間、冒険者として放浪を続けていたのですが、ワークスブルグを訪れた際に、とあるクエストにおきまして、リリィ陛下の母君と知りあう機会を得ました。そして、あのお方の御側に仕えたい一心で、ワークスブルグのメイド養成学校へと入学し、主席で卒業いたしました」
リリィのお母さんと言えば『家』に所属する女性なのだろう。俺がこうして迎賓館に招かれていることからしてもそうだけど、ガルフレイクは普通の人と、いわゆる上流階級にある人物との垣根が低いのだろうか。しかし、仮にそうした垣根が低いにしても、皇位に就く人物を輩出する『家』に所属する人物と面識を持てるなんて、ノアさんったら相当に有能な冒険者だったのでは。人に歴史あり、と言うけれど意外過ぎる来歴のような気がする。
「そうでしたか。話しにくいことを教えてくれて、ありがとうございます。それにしても……リリィ陛下の母君に仕えたくて、メイドになったのですよね?そうであれば、現状は不本意なのでは?」
仮にそうだとするなら、少し……というかかなり名残惜しいのだけど、そうした配属になるようにリリィかヴィルヘルムに進言してみようか。
「いいえ、それには及びません。確かにあのお方に仕えたいという目標は今でも変わりませんが、今は貴方様にお仕えすることにも、同じくらいの喜びを感じておりますので……」
俺が何を考えているかを察したのだろう。言葉の後半部分に熱を帯びさせながら語るノアの表情は、今まで見たことがないくらいの、優しげな微笑みで。俺はそっか、とだけ返して、それ以上の言葉を飲み込んだ。
「メイドというお仕事は、私にとって様々な人と出会い、また人生に触れることができる最高のお仕事です。こうして、クロノ様のように普通ならお目通りすら叶わない方と、人生を重ねることが出来るのですから」
私は幸福です、と結んでからノアは椅子から立ち上がり、今日の予定を確認し始めた。謎の多いノアだけど、その本質は素敵な人なんだな。俺も同じように椅子から立ち上がって、ぐーっと背伸び。手洗い場で顔を洗ってから、今日の予定について考える。
「本日の予定はガルフレイク陸軍省への訪問です。今までとは違い、多くの人の目がある場所でございますので、礼服をご用意いたしました」
いつのまにか背後に立っていたノアは、木製の箱をこちらに手渡してくれた。桐を思わせる様な手触りの箱を開けると、そこには黒のスーツが収められている。世界が違ってもやはり礼服はスーツなんだな、と思いながらスーツを手に取ってみた。特殊な生地で作られているのか、香を焚いたような爽やかな香りが立ち昇っており、手触りも絹のようになめらかだった。
「礼服の着付けは少々特殊なので、私が行います。どうか、楽にしてください」
えっ。いや、見たところ、特殊な着付けが必要そうには見えないんですけど…。ネクタイのようなものもないようだし…。そうした疑念を視線で送ってみたのだけど、ノアはいいえ特殊なんです、と呟きながら、少しずつ距離を詰めてくる。あの、なんで手をワキワキさせているんです!?
というわけで、ノアさん回でした。彼女に関連するエピソードは多分書かないといったな。あれは嘘だ(笑)
だいぶ先の話ではありますが、ノアさんのお話のフラグは回収しようかな、と考えています。
【ペンダント】
寝起きなので、外していたという設定。クロノが日々を健全に過ごせているのはこのペンダントのお蔭である面が強かったりしますので、これを渡してくれたクリスに対して、クロノは密かに好感情を抱いております。もちろん、好感度の順位はディノとレオナが今のところぶっちぎっていますが。