クロノの一日(2)
久しぶりに専門書や論文の類を引っ張り出して、いろいろ調べながら今回のお話は書きました。概念に関する定義なんかは、私の個人的な見解も混じっていますので、その点はご注意ください。
昼食を食べ終えた後。自室へと戻り、ヴィルヘルムから提供してもらった書物を読み進める。
「今日は国際情勢についての勉強でしたね。もしも分からないことがあったら、すぐにでも聞いてください、
クロノ殿」
眼鏡をかけた、レオナと一緒に。誰かに知識を教わるという事は、誰かの先入観を教わることでもある。それ故に、今までは極力自力でこの世界の知識を得ようとしていたのだけど、先日、そうした考えを一転させる出来事が起こった。
これまで俺は、この世界の人々が『大破壊』という定められた破滅を知りながらも、栄光大陸では互いに覇権を争っている、というふうに認識していた。『そうであること』に、違和感を全く感じることが出来ずにいたのだ。そして俺は、心の中で知らないうちに、こうも思っていた。『異世界の人間だし、こんな状況でも争い合っていても別に不思議ではない』と。数々のファンタジー小説を読んでいた経験が、逆に眼を曇らせていたのだ。
この手の小説において異世界というものは、啓蒙すべき、現在よりも劣った世界として描かれることが多い。王やその臣下は主人公を、戦争や政争においてどのように利用してやろうか、と権謀術数を張り巡らせ、その臣民は3輪農法すら知らずに生活レベルは概して低い。いつのまにか、そんな色眼鏡でこの世界を見てしまっていた。
しかし実際には、この世界の人々は、無用の争いを避ける為に『遠見の水晶』の技術を流用した、遠隔地にいる人物と会話をすることができる魔道具『平和の鍵』…現実世界におけるホットラインのようなもの…を協力して作成し、偶発的な戦争を避ける努力をしていた。多くの血を流しながらも、少しずつ争いを減らす為の努力を重ねていたのだ。そして、その発明のお蔭で、陣営同士による大規模な戦争が勃発したのは、100年以上も前のことだった。
俺が参考にしていた書物は、相当古い代物だった訳だ。異世界の年号なんか知りようもない訳だけど、それでも、もう少し気を使って読んでいれば、不自然な点に気が付けたのではないだろうか、という悔恨の念が湧きあがってくる。あの砦の執務室に置かれていた本は、内容が古すぎて、現状にそぐわなくなったので、図書館から廃棄されたものだった、ということをレオナに教えてもらった時は、頭を抱えたくなったものだ。
技術レベルに関しても、ここ数日で多くの書物を読み進めていくうちに、大きな誤解をしていたことに気が付いた。今までは、報告書の類から読み取った開拓村の生活様式や、農業・医療といったものの技術から、文明レベルは中世からルネサンス程度、と推測していた訳だけど、分野によっては魔術の応用により、近代以上のレベルに達しているものが幾つも散見されたのだ。
判断の主な基準として用いた、農業・医療技術の類があまり進歩していなかったのは、魔術という強力な代替技術と、様々な異能を持つ亜人の存在が要因だったらしい。冷静に考えてみれば、魔術も魔物も存在しない俺がいた世界と、この世界を同じ歴史認識で測ることなど、出来るはずもなかった。
誰に頼ることなく、全ての知識を学び取り、無謬の天秤めいた判断を下せる人物。確かにそれは、素晴らしい人物だ。聖人と称しても良いだろう。
しかし、俺はそんな大層な人物には成りようがないという事を、遅まきながら、ようやく気が付いたのだ。どうも、知らないうちにチート能力による全能感に酔ってしまっていたらしい。俺みたいな普通の人間は、どんなに優れた能力を持ちえようと、当たり前に間違えて、当たり前に人に頼って、どうにか進んでいくしかないのだ。
「すみません、この前ヴィルヘルム殿から、人間同盟は争乱中である、という情報を聞いたのですが、詳細をお聞きしてもよろしいですか?」
「人間同盟の争乱…ですか。えぇ、分かりました。ただ、私も一応は亜人ですので、多少そういった主観が混じってしまいますが、よろしいですか?」
「はい、むしろそういった主観が混じった情報であるからこそ、多角的な角度から物事を見る良い機会になると思います」
なるほど、と頷いてから、レオナは人間同盟の争乱について語り出した。
「まず、人間同盟は元来、ヒューマン…ええと『特質』を持たない人類を指すのですが、そういった人種以外を栄光大陸から追い出してしまおう、という考えを持った国々の集合体でした」
『特質』とは分かりやすく言えば、魔術を除いた、現実世界の人間にはない異能や身体的な特徴のことだ。鉄を捻じ曲げる腕力であるとか、角や尻尾とかそんな感じ。この世界にはファンタジーらしい亜人…顔が獅子で体は人間、であるとか下半身が蛇、などの人類は存在しない。
つまり『特質』を持つ人類をまとめて亜人、その上で獣のような身体的な特徴…獣耳や尻尾…を持った亜人を獣人系の亜人、なんて呼び方をするらしい。単に獣人、と呼ぶことは差別的な表現とされており、マナー違反といった認識をされているそうな。
ちなみにレオナは、見た目は褐色の肌をした金髪の女性にしか見えないが、ナイトルーダーと呼ばれる亜人と、レオディアスと呼ばれる獣人系の亜人の間に生まれた子供なのだそうだ。異なる種族同士で子供を作る場合、ハーフという存在にはならず、必ずどちらかの種族として生まれてくる。レオナは前者の種族であり、マナ変換力に優れ、また夜にはあらゆる能力がブーストされるのだとか。
「しかし、近年になって亜人と共生していくべきだ、と考える国家が増加し、人間同盟は往時に比べて、その加盟国を急激に減らしていきました。同盟の盟主である、ルビー流麗王国の王…流麗王が、亜人を領内から完全に締め出してしまったことが、その流れを加速させたと言われています。いささか自業自得な感がありますが、この加盟国の激減という事態に危機感を覚えたのが、同じく流麗王でした」
なるほど、亜人を差別的に扱うよりも、協力できるところは協力したほうが良い、という国が増えたということなのだろう。そして、同盟の盟主であった流麗王は、自身が抱えている同盟の弱体化に危機感を募らせた、と。うーん、レオナの言うとおり、自業自得な感じがするな。
「そうした危機感は、最悪の形で暴発する事となりました。…加盟国が、これ以上同盟から離脱することを防ぐために、流麗王は亜人排斥の急先鋒である国家をまとめ上げ、離脱しようとした国に大規模な軍事介入を行うようになったのです。そして、その軍事介入に対抗する形で、人間同盟に見切りをつけた各国もまた、挙兵しました」
分かりやすい悪役、という感想が湧いてくる。もちろん、流麗王にもそれなりの理由があるんだろうけど、少なくとも俺の倫理観には合わない。せっかく平和な領域が増えているのに、それに水を差している、という印象をどうしても持ってしまう。
「そうでしたか…すると人間同盟内では、同盟側と共生派が争っている、という認識でよろしいですか?」
「はい、その認識で間違いありません。この争乱に対して、他の陣営は表向き、静観を決め込んでいますが、実際には共生派に資金や武具を提供しているようです。ただ、ルビー流麗王国は3000年の歴史を持つ世界最古の王国ですからね。様々な魔道具や禁術といったものを用いて、焦土作戦めいた戦闘を繰り返しているようです」
なので戦況はトントン、といったところですね。レオナはそう言いながら、お茶を飲んだ。それは、さすがに不自然じゃないか。自身が盟主を務める同盟の領内で、焦土作戦なんて…正気の沙汰ではない。更に、目前には『大破壊』なんてものが迫っているのだ。先程から失策に見えることばかりをしているが、流麗王はそんなにも、暗愚な王なのだろうか。
「焦土作戦まで展開するなんて、流麗王はその…暗君なのですか?」
「それが…流麗王ジーグムント・アヌビシア・ルビーは、破綻間際であった人間同盟の経済状況を見事に立て直した、博覧強記の賢王であると聞いています。どれほど奇抜に思える政策であっても、後から振り返れば、素晴らしい施策だった、と評価されることが多いようですね。そして、数多くの新たな魔術概念を構築した、世界一の魔術師でもあります。癪ではあるのですが、名君といって差し支えない人物です」
世界一の魔術師とはまた、ロマン溢れる称号だな。この世界の魔術は、極端な事を言えば『炎を我が手に』なんて簡単な詠唱で使用できてしまう。空気中に存在するマナを魔力に変換するには、最低でも5年程度の修行が必要なのだそうだけど、それさえ乗り切れば、基本的には誰でも使用できるのだ。
しかし、そんな単純なものであるが故に、効果を倍加させる言葉の組み合わせや抑揚、効率的な魔力の込め方といったものを体得するのは困難であり、一角の人物になることもまた、難しい。
更にこの世界には、魔道具という日常から戦場まで、幅広い分野を横断する技術も存在するわけで、自然、魔術の重要性は非常に高いものになる。その為、新たな魔術概念が発見されると、各国は国家予算の数パーセントを計上してでも手に入れようとするらしい。
思考を切り替え、流麗王について思いを馳せる。そうした情報が事実なら、随分と妙な話だ。流麗王には、亜人に対して、何か重篤なトラウマがあるのだろうか。それとも、他に思惑がある、とか?
「難民達は隣接したグリーングラス都市国家連合とヘラクレア帝国に流入していますが、少なくとも表面上は快く受け入れられているようです。また、ヘラクレアが龍騎兵隊を国境に派遣し、盗賊の類を討伐しているので、治安面の混乱も最小限に抑えられていますね」
おお、やるじゃないかヘラクレア。俺が最初にお手本にした書物ではボロクソに書かれていたけど、実は意外と良いところがあるのだろうか。ヘラクレアの政治体制を仔細に記した書物は存在しないらしく、帝王を頂点とした厳格な官僚政治が敷かれている、という点以外は現状、分からない。ここはちょっと突っ込んで聞いてみるか。
「ヘラクレア帝国が、ですか。そうした警備活動で得る利益は少ないと思うのですが、なにか思惑があってのことなのでしょうか?」
「いえ、ヘラクレアは武断の国ではありますが、前回の大破壊以降、かなり穏健な政策を行うようになっています。300年前のヘラクレアなら、この争乱に乗じて、人間同盟を侵略するぐらいの事はしそうなものですが、そうした動きは今のところは見せていません。本当に、警備活動と難民保護のみを目的に活動しているようです」
レオナが、腕を組みながらヘラクレアについて語ってくれる。なんだか、少し不機嫌そうな印象を受けた。個人的にヘラクレアに思うところがあるのだろうか。
「穏健な政策というと、どのようなものなのでしょうか?」
「えーと…そうですね。具体的には、各植民国に大幅な自治権を譲渡しています。また、代官の腐敗というものにも非常に気を使っている節がありますね。そのせいか、独立を志向している植民国は今のところないようです。確かに幾つかの面でヘラクレアに従属することにはなりますが、そのかわり、強大なヘラクレアの軍勢に守護してもらえますからね。両者にとって、現状の維持が最善なのかも知れません」
アメリカと日本みたいなものだろうか。アメポチと揶揄されることもあったけど、比較的ではあっても、好ましいものだからこそ、50年以上も続いたのだろうし。特にこの世界では周期的に『大破壊』なんて迷惑な物が発生するのだから、武力の傘の庇護下にいられる、というのは俺が思う以上に魅力的な条件なのかもしれない。
しかし…うーん、なんか俺が想像していた国家像と違うな。クリスのあの提案を鑑みれば、相当な独裁国家だと思っていたのだが。やっぱり紙媒体だけに頼ると、こうした生きた情報が手に入らないんだな…反省しなくては。
「なるほど。だとすると、帝国内では人権や法規の類も同様に擁護されているのですか?」
「そ、そうですね。殺人や婦女暴行の類は極刑ですし、帝臣達の風紀も、健全に保たれているようです。また、女性の権利問題というものにも精力的に取り組んでいるようでして、優秀な女性はガルフレイクかヘラクレアに骨を埋める、という言葉があります」
この世界は人権思想というものが、かなり進んでいるようで『フランス人権宣言』によく似た『栄光宣言』という文言が政治における基本骨子として根付いている。借金返済を主目的とした奴隷が存在するものの、その身分は行政により管理されており、一部の人権…職業選択の自由など…を凍結されるだけで、生存権といったものはちゃんと保障されるらしい。
現実世界において、奴隷解放と人権宣言に類似した事象は紀元前539年頃に、ペルシアのキュロス大王によって行われているのだが、それが普遍性を持つことはなかった。しかし、この世界では『大破壊』によって、国力が弱ったタイミングで自由を求める民衆蜂起が多発した、という歴史的な経緯と、各国の王が顔を突き合わせる機会が多かった、という要因から、人権思想というものが急激に発展し、また共有もされたようなのだ。
奴隷の処遇も、かなり穏健に行われている。確かに、職業選択の自由等が凍結されてはいるものの、単純労働ではなく、性的労働に従事させる場合は、何重もの意思確認と書類審査が義務付けられている。これも『大破壊』がその大きな要因らしい。酷使され、愛する妻や娘を女衒に奪い取られた奴隷が『大破壊』が発生したタイミングで雇用者を惨殺し、奴隷王朝を立ち上げるという事態が続発したのだそうだ。
ふと、机に乗せられた書物に目を遣る。そこには、夫と娘たちを奴隷にとられた上に縊り殺され、自身もその身を汚し尽された、ある女性奴隷の物語が書かれていた。史上最大規模の奴隷王朝を築いた彼女は、その狂おしいまでに燃え上がった復讐心を、人類全てへと向けた。…彼女にとっては既に、仇もそれ以外も、同じ人型をしたナニカでしかなかったのだ。
最終的に彼女は、大英雄ガルフレアに討たれることになる。その胸を鉄槌の王に貫かれた彼女は、もう失われてしまった『暖かい家庭』を幻視しながら果てた。あらゆる女性を助け尽し、ついには国父にまでなったガルフレアが、唯一救えなかった女性。
その後ガルフレアは『未来の彼女を救って見せる』という言葉を残し、奴隷の地位向上に努めたとされている。そうした努力もあって、この世界の奴隷はかなり…というか、現実世界のいわゆるブラック会社に比べれば、相当マシな待遇を享受できているようだ。衣食住は保障される上に、様々な職能を身に付けさせてもらえ、望めば、様々な専門教育も並行して受けられる。
また、国力の急激な回復…この場合では人口…という目的を達成する為に、女性に対する権利保障というものも積極的に行われている節があり、現実世界では『人は生まれながらにして自由かつ平等な権利を持つ』という文言が女性へ適応されたのは1946年のことだが、この世界では既に多くの国で行われ始めている。一夫多妻という制度が常態化しているために、男余りが各国で発生しており、未婚の女性に国民になってもらうために、各国が競い合うような形で、優遇制度を設けているらしい。
てっきり、ヘラクレアはそうした流れとは無縁の存在なのかと思っていたけど…レオナの言葉を信じるのなら『国内の女性を好きにしても良い』なんてご免状を、帝国は発行するだろうか。それに植民国に対して、大幅な自治権を譲渡済みなのであれば、俺に与える、なんて事は事実上不可能だと思う。何事にも例外というのはありえるものだけど、これは……。
しかし、そうすると分からなくなってくるのはクリスという存在だ。もしもあの夜までに、俺がヘラクレアの実情を知っていて、実現性の低い提案をしているということに気が付いてしまったら。勘気を起こした俺が無礼打ちのような事をするかもしれない、とは考えなかったのだろうか。もしかすると、クリスはヘラクレアからの密使ではない?いや、そんなすぐにバレる嘘をつく必要性があるのか?
…また逢いましょう、というあの言葉を信じるのなら。クリスと邂逅する機会はこれからもあるだろう。そのタイミングで、もう少し深く話してみる必要があるかもしれない。ガルフレイクの人々を裏切っているようで、心に苦いものが混じるが、こうした疑念は一つ一つ解決していかないと、袋小路に迷い込む破目になりそうだ。
熟考していたせいか、随分と長い時間、黙り込んでしまった。レオナがいるのに、無視するような形になってしまったかもしれない。ここは謝罪しておこう。そう思い、レオナを見遣る。
「あの、レオナさん……もしかして、ヘラクレアが嫌いなんですか?瞳が潤んでいますが、何か嫌な思い出でもあるのでしょうか?」
そこには伏し目がちに、不安を押し殺すような表情をしたレオナがいた。謝罪の言葉を飲み込んで、気遣うような言葉を優先させる。
「いえ、そんなことはないのですが…その…クロノ殿はヘラクレアに特別な感情を抱いているのですか?」
「いえ、今のところ、特別な感情は抱いていませんよ。どちらかと言えば、ガルフレイクに対して、非常に大きな好感と恩義を感じています。よほどのことがなければ、この国にいつまでもお世話になりたいな、と考えるくらいに」
それが現状での本音だった。これから先も、この人達と一緒に歩んでいきたいな、と今のところは思っている。疑問点を解消していく為に、幾つか危ない橋を渡る必要はあるけれど、最終的にはここに戻ってきたい。
ヘラクレアに関しては、他の国に比べれば多少は思うところはある、といった程度だ。特別な感情、なんて言うほどのものは今のところ持ち合わせていない。ヘラクレアが云々と言うよりも、クリスという個人が不明過ぎて気にかかる、というのが実情には一番近いと思う。
「…そうでしたか!!その言葉、とても嬉しく思います!!」
先程までの暗雲を具現化したような表情が嘘のように、煌めく太陽の様な笑みを浮かべるレオナ。むぅ、相変わらずレオナの笑顔は破壊力抜群だ。バンカーミサイル、という単語が心の中に浮かぶ。
気恥ずかしくなって、つい視線を書物に落としてしまった。書物を真剣に読んでいるフリをして、熱を持った頬とか、色々なものを誤魔化そうとしたのだが。レオナはそんな俺に、そっと肩を寄せてきた。
女性特有の柔らかさが、肩から二の腕にかけてを優しく包み込む。香草の香りと、石鹸の良い香りが鼻腔をくすぐってきた。そして穏やかだが、しかし確かなレオナの息吹が聞こえてくる。
脳みそが茹だっているような感覚と、心臓が勢い良く跳ね回るような感覚。昔の偉い人は、普通ではない状態を全て苦痛と定義したそうだけど。この『普通ではない状態』は苦痛ではなかった。むしろ、この時がもっと長く…それこそずっと続いてくれれば良いのに、なんてらしくない事を考えてしまう。
拒絶されてしまったらどうしようか、とハラハラしながら、レオナの肩に頭を乗せてみる。レオナの手が一瞬だけ、びくり、と跳ねたが、それ以降その手は、俺の膝のあたりに落ち着いた。なんだか、最初からこうあったかのように、自然な安らぎを感じる。もう少し踏み込んで、手を握ってみたりとか…。
「失礼します、クロノ様。ティータイムのお時間になりましたので、お菓子とお茶をご用意いたし…」
ディアナがワゴンに乗せられたお茶とお菓子を持ってきた。どちらともなく、赤熱した鉄板にでも触れたかのように、飛び離れる。ぐわー、顔が熱い!!氷をくれ、氷を!!
「あらあらまぁまぁ、うふふふふふ……」
いつものたおやかな笑顔を更に深めながら、ディアナは俺とレオナを交互にみつめる。見るな、お願いだから、見ないでくれ…!!
誤解です、なんて阿呆なセリフはさすがに言えなくて、無言で俯くことしかできなかった。レオナも同様なようで、手を合わせながら、俯いている。頬は髪で隠れてしまっているが、首筋からでも赤くなっているのが伺えてしまう。
「お邪魔してしまって、ごめんなさいね。お菓子とお茶はここに置いていきますので、どうぞごゆっくり」
なんか恋人の家に行ったら、お母さんに乱入されたみたいになってる。ディアナが部屋から出て行った後も、たっぷり10分くらい、お互いに俯いて過ごした。
「えーと。せっかくだし、お菓子とお茶をいただきましょうか」
「は、はい!!そうですね、いただきましょう!!」
こういう時は男が頑張るべきだと思う。沈黙を打破する為に、そう声をかけて、台車に乗せられたお菓子とお茶をテーブルへと運ぶ。すると、弾かれたようにレオナも立ち上がり、運ぶのを手伝ってくれた。
スポンジケーキに胡桃のようなものが振りかけられたお菓子を食べながら、お茶を飲む。この世界では紅茶が主流の様で、今まで緑茶を見たことがないな、などと思いながらレオナをみつめた。まるで小鳥のように、少しずつお菓子とお茶を食べていた。…やばい、口から砂糖を吐き出してしまいそうだ。
「えっとですね、ヘラクレアのことを連続して聞いたのは『武断の国』とか『力狂い』というふうに揶揄されているらしいヘラクレアが、そうした行動に出るのが意外だったからなんですよ」
一応、そんなふうに釈明しておく。すると、レオナは目に見えてほっとしたような表情を浮かべた。
「そうでしたか…。少なくとも、現在のヘラクレアは国家間の戦争を躊躇なく行う、ということはないようですね。過去の侵略国家としての在り方や、領内の賊討伐において、拠点としている山岳部一帯を火の海にしてしまうような行動から、現在もそのように揶揄されてしまっている、というのが現状に一番近いかもしれません」
日本から見た、ロシアみたいなものか。近所のおじいさんが、ロシアはヤクザだから絶対に信用しちゃいかん、みたいなことをしきりに話していた気がする。戦後生まれの俺からすると、そう言われてもピンとこなかったのだけど、過去の行いが拭い去られるのには相当な時間がかかるということなのだろう。
「それに利益がない、というわけでもないのです。大規模な戦争がないということは、実戦を経験している兵員がそれだけ減少する、ということですから。こうした賊の討伐は丁度良い実戦訓練になりますし、諸国に強大な軍事力を誇示することにもつながります。武力をその求心力の核としているヘラクレアにとって、これに勝る利益はないでしょう」
なるほど、軍事演習と実戦訓練を併せた効果がある、ということか。つい一月ほど前まで、単なる小市民でしかなかった俺には難しい事だけど、一つの出来事を多方面から見ていく、ということを習慣付けていかないと。
「あの…クロノ殿。これを食べ終わったら、少し庭園をお散歩しませんか?少し、リラックスしてから勉強を続けたほうが、色々と捗ると思うのですが…」
いかがでしょうか、とティーカップで顔の半分を隠しながら提案してくるレオナ。うん、今の精神状態では、ちょっと勉強に集中できそうにないし、願ってもない提案だ。
「そうですね、集中力を保ったまま勉強するには、休憩することも大事でしょうし…そうしましょうか」
お茶とお菓子を食べ終えた後。俺は椅子から立ち上がり、レオナに手を差し出した。レディファーストのなんたるかなんて分からないけれど、間違いではない…と思う。
差し出された手に、レオナは少しキョトンとしていたが、すぐにキラキラとした微笑みを浮かべて、俺の手をとってくれた。思わず、顔がにやけてしまいそうになるのを、頬の内側を噛みしめて我慢する。手を引かれて立ち上がったレオナと、木漏れ日と鳥のさえずりに彩られた、迎賓館の廊下を歩く。少しぎくしゃくとしたエスコートではあったけど。とても満ち足りた気分を感じられる時間だった。先導しているので、レオナの表情を伺うことは出来ないけれど、願わくば、レオナも同じように想ってくれていたら嬉しいな。
人権や文化レベルの定義、というのは調べれば調べるほど、様々なものがあったりして、読者様にてっとり早くイメージを想起していただける反面、扱いが難しい概念なんだな、とこのエピソードを書いてて思いました。
【古すぎる書物】
現在であれば、様々な人々の批評に耐えた書物がちゃんと出版されていますが、そうした状態…本に書いてある事が最新の出来事で、且つ事実である…という前提がある程度成り立つようになったのは、かなり最近の話の様で、日本においても江戸時代に土佐藩に封じられた人物が土佐日記を読んで、地域風俗の予習をしていたという話があるそうです。現代人が、東海道中膝栗毛をガイドブック代わりに使うような物ですね。
【キュロス大王】
古代オリエント諸国を統一した、アケメネス朝ペルシアの王。不死隊という屈強な戦士団を率いて戦った勇猛な王であり、その上世界最古の人権宣言と奴隷解放を行った偉大なる王として『メシア』との呼び声もある、原哲夫世界の住人みたいな人。何故、こうした偉業があまり知られていないかというと『人権及び自由の発祥はヨーロッパからであり、アジアは長く専制君主の支配下にあった後進的な地域なのだ』という観念が根強いから…みたいな話があるらしいです。