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「生まれ得なかった息子に会う話」

作者: 静水宏之


僕には離れて暮らす娘が二人あるが、その娘の生まれる前にも子が一人あった。



名を奎吾という。



はじめ「悟りを啓く」にあやかって「啓悟」にと思ったが、堅いので「奎吾」と名付けた。

男名ではあるが、実は本当の性別は分からない。


そう彼はこの世に生まれることなく命を落とした、いわゆる水子だ。たしか僕が17才、母親が15才のときの子供である。



生まれることのなかった水子とはいえ、実は僕は二度程その姿を見たことがある。


一度目は僕らがその命を奪ってしまった、つまり堕胎したとき、

そして二度目はその姿こそ見えなかったが、はっきりとその存在を目の当たりにすることができた。



今からお話するのは、そのときの僕の実際の体験談である。




妊娠が分かり、彼女の母親の猛反対もあって、堕ろすことになった。


そのとき僕が最も心配したことは、彼女の体のことでも、子供の命のことでもなかった。


「お金どうしよう!?」だった。




堕胎するために訪れたのは千歳烏山駅にある小さな病院だった。


女医が一人でやっている、採尿の紙コップを使い回すようなひどい病院だった。


だが未成年で、十分なお金もなかった僕らには、その病院しか受け入れてくれるところがなかった。



女医が言う。


「人手が足りないの、麻酔の効いた彼女の移動を手伝って欲しいんだけど」



正直僕は病院に付き添うのさえ面倒だった。受験勉強の真最中だった。そんな時間があれば勉強をしたかった。さっさと終わらせて忘れたかった。



僕が返答に躊躇していると


「子の供養のためよ、そのくらいしなさいよ」



女医のその言葉にようやく僕は、

その手術に立ち会うことを約束した。




だが、当日になり、ようやく僕は

―自分がどのくらいのことをしたのか、その「意味」と「重さ」を思い知ろうとしていた。



その日は休診日だった。


薄暗い待合室から女医に呼ばれて診察室に入ると、診察台の上には、涎を垂らし、白眼を剥いた、変わり果てた彼女の姿があった。両手はだらりと垂れ下がり、まるで死体のようだった。


「友美!」


僕は思わず叫んだ。



「全身麻酔で眠ってるのよ、静かにして頂戴。あなたはそこにいて。絶対に見ては駄目よ!」


女医に促され、薄いカーテン越しの丸い椅子に僕は座らされた。


僕は居ても立ってもいられなくなり、その薄いカーテンの隙間から、その様子を始終伺っていた。


―今でも鮮明に覚えている。



診察台の脇には、鋭く光る金属製の大きな熊手のようなものがあった。


女医は乱暴にその金属製の熊手を膣内に押し入れると、二度三度とそれをかきまぜた。



わずか1、2分の出来事だった。


ドロッとした肉塊のようなものが、

診察台の下に敷いてある新聞紙の上に、大量の血液と共に落ちていった。



僕は息を呑み、

そして錯乱し、

診察台の脇に駆け寄った。



「まだ来ないで!」



僕はますます錯乱し、

そしておそらく感傷的になったのだろう、


「せめてよく見ておきたいんです!お願いです!もう一度よく見せて下さい」と頼んだ。



すると女医はこう言った。


「こんなの汚物と一緒だから」



慣れた手つきで新聞紙を丸めると、壁面にあるダストシェルターにゴミのように投げ捨てられた。


手を合わせる間もなかった。



これが僕の初めての子供を見た最初だった。一瞬の出来事だった。そして最初で最後の対面だった。



―そう、少なくとも現世の姿では。



一方、麻酔の切れた途端、彼女は大声で泣き出した。

痛みからだけではなかったろう。


―結局、子供の供養にもならず、何ともやりきれない気持ちだった。



僕は激しく後悔した。


そして二度と彼女にはこんな思いはさせまい、そう固く胸に誓った。



水子奎吾の供養には毎年欠かさず行った。


彼女(母親)の近くが良いだろうと、深大寺の水子地蔵尊で供養をしてもらった。



2人でよくおもちゃを買って持って行った。



そして、あの忌まわしい出来事から数年後、彼女はまた子供を身ごもった。


3450gの丈夫な赤ん坊だった。女の子だった。


僕は17才のあのときの誓いを無事に果たせた。



彼女は、カノジョから妻に、そして母親になった。



供養には2人から、毎年3人で行くことになった。



さらに数年後には、子が一人増え、供養には毎年4人で行った。



―何はともあれ、僕らは平和に、そして幸せに暮らしていたのだ。



しかしその眠れるような幸せな日々に、僕らは大切な何かを忘れかけていたのかも知れない。





―そんな年月の、ある日のこと。



その日は激しい雨が降っていた。


僕らは連休の旅行先から車で帰宅途中だった。


帰路、長女が、


「まだ帰りたくない、ディズニーランドに行きたい」


と騒ぎ出した。



この雨だし、とっくに閉門している。


そして何より、明日は長男奎吾の命日だった。


当時僕は夜の仕事をしていた。昼は眠る時間だった。


その時間を削って供養に行く予定だったのだ。



ちょうどディズニーシーができたばかりで、


「外から見るだけでも見てみたい!」


妻までもがそう言い出した。



今から行けば帰宅は昼を過ぎる。

明日の命日には行けなくなる、そう告げると、


「じゃあ1日だけずらして明後日行けばいいんじゃないの?」


妻のその一言に、僕らは急遽、ディズニーランドへ向かうことになった。



もちろん閉門していた。


外周を車でぐるりと回ると、大きな船が見えた。


娘ははしゃいでいた。


「あの大きな船乗ろうね!また4人で来ようね!」



そう約束して、僕らは帰宅し始めた。


時間は

もうとっくに深夜を回っており、明け方に近かった。



―長男奎吾の命日だった。



だが、途中何故か通り慣れている筈の道を間違えてしまい、


毎年お参りに来ているお寺の前を通り過ぎた。



「…本当ならこのまま車を駐車場に入れてるはずだ」


命日をずらしてお参りをしたことは一度もなかった。


遠ざかってゆくバックミラーの景色に、僕の胸はやがて罪悪感で一杯になった。




―自宅に着いたのは昼をとうに回っていた。


雨は未だ激しく降っていた。



駐車場から荷物を運び入れ、部屋に戻ると、妻も娘も寝入っていた。

僕も眠る時間だった。



だが、眠ろうとすると、何かがどこかで鳴っている。


耳を澄ませど、激しい雨の音で聞き取れない。



僕は何故か訳の分からない胸騒ぎを覚え、妻を起こして聞いてみた。



「ああ、あれね、着いたときからずっと鳴ってるよ…」



…僕一人の聞き間違いではなかった。


聞けば日中よくあることでもなく、今日初めてのことだと言う。思い当たることもないと言う。


「そんなのどうでもいいじゃん。つまんないこと気にしないでもう寝なよ」



妻にそう促され、寝ようとしたが、やはり何かがどこかで鳴っている。



耳を澄ますと、何か音楽のように思われた。


雨が何かを叩く音ではなかった。

ヘッドフォンから漏れる音かと思い探したが、そうでもなかった。


明らかに外から聞こえてくる音だった。



しかも、不可解なのは誰もその音を止めようとしないことだった。


ならば目覚ましの音ではないだろう。

テレビやラジオの音声でもなさそうだった。



とにかくこの雨の中、ずっと音楽が鳴り止まないというのは、

何か尋常でないことのように思われた。



―このままでは寝ようにも寝られない。


僕は布団を払いのけ、音の正体を突き止めるべく、

一人雨の中を飛び出して行った。



だが、アパートの周りをぐるりと探してみたが何もない。


それどころか、どこから聞こえてくるのかすら分からない。



―やはり気のせいだったのか。


そう思って、アパートの裏手にある階段を下り、


狭い私道に降り立ったその瞬間、


―僕はそのすべてを了解した。


鳴っていたのは、どこかに置き忘れ、行方が分からなくなっていた、上の娘の三輪車だった。

その三輪車が何故か

ぽつんと狭い私道に置かれていた。



そのキャラクターものの三輪車には仕掛けがあって、


ボタンを押すごとに5種類のメロディーが鳴った。


だが、そのボタンは最初から壊れており、5番目のメロディーだけがどうしても聞けなかった。

その三輪車から聞こえたことがなかったメロディーだったとはいえ、誰もが良く知るメロディーだった。




―東京ディズニーランド・

エレクトリカルパレード―。




三輪車は、僕の目の前で、二三度と前後に揺れ動いてみせた。



風はなかった。



傾斜もなかった。



ただ雨が降っていた。



怖くはなかった。



僕には全部分かっていた。




僕は申し訳ない気持ちでいっぱいになり、涙をこぼした。




そして激しく降る雨の中、

傘を置き、未だメロディーの鳴り止まないその三輪車をゆっくりと押して歩いた。



「ごめんね。今日会いたかったね。―本当は一緒に行きたかったんだよね」



全く驚かなかったといえば嘘になる。


正直三輪車が動いた時は、心臓が止まりそうになった。


だが、肉親の故だろうか、姿かたちは見えなくても、はっきりとその存在を感じることができた。


うまく言葉にはできないが、不思議なもので、あ、ここにいるな、とはっきり分かるものだった。




産まれてきたかったろう。


こうして甘えたかったろう。


そして、さぞ痛かったことだろう。


ごめんな。

本当に、本当に、すまない―




だが、去年と今年は色々とごたごたしていてお参りにも行きそびれてしまった。



来年からは僕一人でいくことになるだろう。




そしたら蓮の花の綺麗な境内で、

今度はゆっくり話をしようよ

奎吾。




これが僕の生まれ得なかった息子に会った話の全てだ。



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― 新着の感想 ―
[良い点] ・テンポ○ ・雰囲気○ ・文体の統一感○ 書きたいことを丁寧に意識していることが伝わりました。 [気になる点] 奎吾とか読めませんでしたw ・作品の雰囲気にもよりますが、こういった難しい漢…
2012/03/12 19:12 退会済み
管理
[一言]  貴方が良いお父さんになっている事を奎吾君も喜んでいるけれど、生の大切さを奎吾くんが訴えている様に感じました。奎吾君の為にも良いお父さんで居てあげて下さい。  
2012/03/07 09:17 退会済み
管理
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