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短編

ものひろいのきみ

作者: 黒檀




 私の一日の始まりは、そこそこに早い。朝刊配達人ほど早くはないけど、高校生の兄の起床よりは先。家中をかけ回ってあわただしく準備をして、ジャージで登校する。部活の朝練習が待っている。ランニングシューズをつっかけて、玄関のドアを開けた。

 我が家は、ファミリータイプのマンションの一部屋を借りている。二、三メートルほどのささやかなアプローチと柵で隔たった向こうに、共用通路がある。柵を支えにして、かかとを靴にしまいこんでいると、エレベーターホールのほうから元気な足音が聞こえてくる。あらわれたのは、おとなりさんの青年だった。

「おはよう、美津子ちゃん。いつもこんなに早いの」

 私は、会釈だけで挨拶に代えた。

 服はくたびれているし、始発が動き出したころだし、朝帰りとみた。昼夜逆転、まともな人間の出勤時間に帰宅だなんて、お気軽でケッコウなことだ。

 この隣人は、ファミリータイプの一部屋を借りて一人きりで住んでいる。おかしな話だ。彼は初めて会ったときから妙な人だったけど、その話はもう少し後に。

 部屋が多いことはゴージャスだけど、同居人のない彼の生活の質を上げてくれているかどうかはわからない。使える空間が広ければいいってものじゃないだろうし。余計なお世話だろうけど、このマンションは彼の暮らしにはふさわしくなさそう。

 彼はあっと短く声をあげた。ふりむくと、まだ門の前にいる彼と目が合った。

「ねえ、ヘアゴム要らない?」

 差し出されたシュシュは、とてつもなく趣味が悪いサイケデリック柄だ。私は反射的に自分の襟足に手をやる。ちくちくの短髪が指先にささる。

「要らない。見て分からない、結えるだけの毛なんかない。というか、それをヘア・ゴムって呼ぶのはナシでしょ」

 むっとしながらこたえてしまった。ぶすっとしている憎たらしい自分の顔が目に浮かぶ。自覚していても、ニッコリなんてできない。何も知らない彼に私の個人的な苛立ちをぶつけるのは、まったくの理不尽だけど、抑えられなかった。彼は大人特有のこどもを相手にするときの笑顔を浮かべたままで、私の厭味にも様子を変えない。

「落し物は交番に届けな、っていつも言ってるのに。私に押し付けないでよ。というか、勝手に私物にするのって犯罪だよ。ちゃんと警察に届けなきゃいけないんだから」

 呆れてため息がでる。彼が私に寄越そうとするものは、多くの場合、彼のものじゃない。彼自身が買ったり作ったりしたものでもない。(初対面のときを除けば。)つまり、ひろいものなのだ。

「落し物? 違うね。僕が拾うのは、いつだって捨てられたものだけだよ」

 手を差し出したまま、きょとんとした顔で言う。

 彼がひろうあれこれは、ハッキリ言って、不法投棄されたものに近いのかもしれない。そのくせ、今みたいに状態としては綺麗なもののときもある。捨てるには惜しいはずのもの。だからこそ、落とし物かそうでないかを判断するのはあなたじゃないでしょ、とつっこみたかった。けど、やめておいた。どうせ言っても分かってはくれないで、際限なくひろいものをしてくる。ものだけでなく、動物や酔いつぶれた人間なんかを拾ってくることもある。お人よしと世話焼きが過ぎて、破滅するタイプに違いない。私には理解できない。

「それに、拾うんじゃない。拾わされるんだよ」苦笑したあと、眠そうにあくびをする。「それを、渡るべき人に渡らせてるだけ。このゴムだって、今、ここで見つけたんだ」

 と、門の取っ手を指差す。彼の言い分に従えば、このダサいシュシュは私に渡るべきものなのだろうか。

 朝だけつけているデジタルの腕時計が、ピピ、と鳴った。「今すぐ出発しないと朝練に遅れる」という時間にセットしてあるサインだ。地区予選の近いこの時期、部内はピリピリしている。遅刻だなんて、とんでもない。断る時間ももったいなくて、彼の手からひったくるようにしてシュシュを頂いた。

「交番に届けておくから、宰一(さいいち)くんは、寝ぼけたこと言ってないで早く寝な」

 彼が背後でなにかを叫ぶのが聞こえたけど、もう相手にしてやるものか。エレベーターホールへと急いだ。



 おとなりの五十里(いかり)宰一(さいいち)くんは、今年の一月に越してきた。いたってふつう(そうな)青年で、笑顔がまぶしい。華もなく地味でもなく、無難な装いが彼のいつも。ごくたまに、ごつい四角フレームのメガネをしている。

 彼のくわしい経歴なんて知るよしもないけど、重要なのは、いい歳こいて職にも就いていないってことだ。最近の就職難を理解できないほどお気楽じゃないけど、「努力は裏切らない」をモットーにする私としては、どうも彼を尊敬できない。だって、頑張れば何でもできるはずなのに。

 その感想に対して父は、「努力が実を結ばないこともある」と彼の肩をもつようなことを言う。そのあとで、「お前たちだってどうなるかわからないんだからな」と脅しにかかった。宰一くんをだしにして、私やお兄ちゃんを焦らせたかっただけかもしれない。

 母は、「五十里さんって、官僚を目指してお勉強中なんですって。偉いわねエ」なんて報告してニマニマする。数日後には「そうじゃなくて、司法試験らしいわ。ご立派だわア」と訂正が入った。そのまた数日後には、「どうも海外の機関を目指しているらしいのヨ。情熱的ね」というホラ話に変わる。そんなの、井戸端会議で飛びだした根も葉もない噂に決まっている。

 兄だけが、まだ私に近い立場だった。「ああいうのをニートって言うんだろ」とゴミでも見るような目をして蔑んだ。兄は就職活動中の高校三年生だ。社会の手厳しさを、今まさに、イヤというほど味わっている。かつては楽だといわれた高卒就職も、今では難しくなっているらしい。

 そんな、我が家に話題をもたらした宰一くんの引越し挨拶はそこそこに奇妙だった。おかげで、私の彼に対する第一印象も、今の印象も「謎」のままで動かない。

 まず、この手のマンションに一人暮らしというのが引っかかった。そのうえ、三つの手みやげを抱えて挨拶しにきたことも。どうして三つ? と首をかしげたくなるけど、単純な話だ。彼は以下のように説明した。

「きまりはないそうですが、一般的には、お蕎麦やタオルだそうですね。山出しの田舎者でして、全く無知でした。お恥ずかしいことに」

 と、まずはタオルを私に、蕎麦を兄に渡した。玄関先のやりとりだし、薬売りが商売を始めたのかと思った。そんな手つきと口ぶりだった。紙風船を差し出されても驚かなかったろう。ただし、次に出てきたのはネギだった。

「私の郷里では、転居の際にはご近所にネギを贈るのが慣わしなのです。どうしてネギなのかは、つまらない民話を聞かせてしまうことになりますので、やめておきましょう。……せっかくなので、縁がよりよいものになりますよう、三つとも受け取っていただけませんか。ネギは、私の地元で採れたものなんですよ。一緒に召し上がっていただけたら幸いです」

 手みやげが三つあれば、三倍の良縁になるとでも? 算数じゃないんだから。

 母も母だ。「ありがとう」と「どうも」を十回は言い、あがってお茶をどうぞとしきりに誘っていた。ネギもタオルもソバも邪魔にはならないし、たしかにありがたいけど、それ以前に、母は若い男の子の来訪にご機嫌になっていたのだろう。まったく。

 宰一くんが、彼自身のもので私(たち)に贈り物をしたのは、それきりだ。それ以降は、ひろいものだった。

 自転車を運転しながら、手首に通したシュシュをちらと見た。これもある意味、宰一くんからの贈り物。やっぱりド派手で目が痛い。グニャグニャとした色の波にめまいを起こしそう。サイケデリック・カルチャーは六十年代から七十年代にかけて流行ったものだと、数学の先生が言っていた。幾何学文様の話のときだったか。ともかく、そのときのパターンが生地になって、乙女の小物に使われている。なんだか変な感じだ。

 でも、乙女の小物と私とは縁遠い。すこしでも早く走るために、風の抵抗を減らすために髪は短く切り込んでいる。お洒落について考えないこともない。考えても、頭の中でもランニング中の私が「色づいちゃってさ、」と茶化す。(デザインの悪さはともかくとして)女の子の象徴とも思える髪飾りが自分の手首にあることが、どうしてもアホらしくなってしまった。ともかく、交番に届けるのは、帰りにしよう。



 朝練習の開始時刻には、ぎりぎりで間に合った。部長や一年生はすでに走りこんでいる。彼らよりもすこし遅れて到着した人たちは、まだ体操をしているところだ。開始時刻が決まってはいるけど、べつに揃って走るためじゃない。最低限の練習時間を確保するための目安だ。来た人から順に、決まった練習を始める。

 グラウンドには、陸上部だけじゃない。軍隊のように規律正しく走る野球部に、朝からボールと戯れる(と言うべきか否か)サッカー部。テニス部や水泳部、吹奏楽部の一部。どの部にとっても、春の終わりは大会が近い。なかなかの活況だ。

 軽く汗をかきかき走りながら、ある一点を眺めていた。ひときわ大きな声の、サッカー部のI先輩。私の片思いの人だった。

 ついでに、その人の彼女である女子マネージャーも見た。そう、I先輩には彼女がいた。彼と同じ三年生で、綺麗な人。黒くて長い髪はさらさらしていて、結ってもあとが残らないんだと思う。部活でないとき、彼は肩よりも低いところの彼女を見下ろして、微笑む。いつもならげらげらと陽気に笑う先輩が、“微かに”笑うのだ。もちろん、それをみることは苦行だし、面白いものじゃない。ここで強調したいのは一つだけだ。先輩は、髪が長くて女の子らしい人が好きなんだろうということ。

 そう考えて、また、私の頭の中の私が「ホラホラ、色気づいちゃってさ」と現実の私をからかった。それからは、目線をまっすぐ前に戻して走った。

 授業開始が近づいてくると、クールダウンを始める。よく語られるように、練習の成果を最大限に得るために大事なのは、事前と事後だ。これを欠かしては、トレーニングは完結しない。みんなよりも少し遅れて始めたので、終わりを少しだけ伸ばした。後始末を終えたら、水場へと向かう。

 顔を洗おうと袖をまくって、宰一くんにもらったシュシュを手首につけっぱなしだったことに気付いた。

 思い出して不愉快になる。見ればわかるじゃないか。私に髪飾りなんか必要ないことも、似合いもしないことも。似つかわしくない自分に苛立っていたはずなのに、いつの間にか、そういうことも察してくれない宰一くんに苛立ち始めていた。まるで私の好みを理解してくれない父親のようなニブさ。水道台のコンクリートの上に放って、まだ冷たい水を顔に打ちつける。

 ジャッジャとスパイクの音が耳に飛び込んできた。サッカー部員だろう。サッカー部がこちらの水場を使うなんて、珍しい。人の気配は私の隣の蛇口の前で止まった。

「お疲れ」

 I先輩の声だった。先輩は、そこに人がいれば、誰であっても平気で声をかける人だ。彼のそんなところが好きだった。

「お疲れさまです」

「向こうの水道、今混みまくっててさ。こっちまで来ちゃったよ」

 彼は独り言のように言うと、がぶがぶと水を飲み始める。すこしだけ横向きにした顔が、こちらを向いている。飲みながら、顔の脇の髪を耳にかけた。先輩は、普通のサッカー部員よりは長い髪だった。タイルではねる水滴が、彼のソックスにしみ込んでいく。

 先輩は不意に態勢を戻した。首にかかったタオルで口元を拭きながら、いいかげんな声で言った。

「これ、あんたの?」

 目線は、例のサイケデリック・シュシュに。うろたえていたわたしは、うっかり頷いてしまった。正しくは私のものではないんだけど。宰一くんが拾ったものだし。

「借りていい?」

 私はまごついた。

「いいんじゃないですか」

 先輩はそれで前髪を縛った。そのまま顔を洗う。洗い終わると外して、元の場所に戻した。

「ありがとう」

 コロコロと笑うI先輩。

 ありがとう、か。でも、私のじゃないんだけど。この下品なものを寄越した宰一くんは、知るはずもない。それが原因で、私が、片思いの相手と初めて話せたことなんて。





 帰宅時間はだいたい七時から八時になる。その時間だと、宰一くんが家にいることは少ないと聞く。母さん曰く「予備校に行っているのよ」。私の意見はそうじゃない。遊びに出ているか、アルバイトをしているかだ。

 しかし、今日に限っては、帰宅する彼とエントランスではちあわせた。ここで出会ってしまったら、お互いの家の玄関まで一緒だ。おまけに、運の悪いことに、いちばん近いエレベーターは最上階あたりに止まっていた。

 宰一くんは、携帯電話に指を滑らせながらエレベーターがおりてくるのを待ってる。私もそうすればいいんだろうけど、部活で疲れきっているので小さな画面に見入る気力もなく、壁に背中をあずけて荷物を一つ床におろした。すこし湿っぽい音がした。汗まみれのジャージが入っているからか。

 彼は振り向いた。しまった、と思う。

「大荷物だね。手伝おうか」

 驚いてみせるけど、彼にはすでに荷物が両腕にある。片方はエコバックで、もう片方はふつうのスーパーのレジ袋だ。ネギの頭がはみ出している。自炊はちゃんとしているのか。

「いいよ」

 断っているのに、無視して拾い上げようとする。臭いものが入っているんだ、やめてほしい。慌てて彼の手から逃げるように荷物を拾い上げた。せっかくおろしたのに、再び抱える羽目になった。ほっといてよ、と叫びたいのを我慢する。

「ほんと、宰一くんっておせっかいやき」

 ことさらそれを強調したい気分だった。ちらと睨みながら見上げると、彼はニコニコ笑っている。しばらくそんな感じで私を見下ろしていたのだけど、急に口を開いた。

「ほんとうに、おせっかいだった?」

 なぜか、今朝の“素敵な出来事”が頭をかすめて、即答しあぐねた。それを見透かしたように、彼は聞く。

「ところで、あのヘアゴムは警察に届けちゃったの」

 シュシュだ、と指摘するのはやめた。

「まだだよ。もう夜も遅いし、また今度にする」

 ほんとは、警察に届けたくなんかなかった。I先輩が使ったものは、持っていたかった。自分でも気持ち悪いけど、「好き」ってそういうことだ。

「もらっちゃいなよ」

「宰一くんのものでもないのに」

「そうだね、僕のものじゃない。だからいつも言ってるじゃないか。主人を失ったものはひろわれて、渡るべき人に渡るんだよ」

「またわけわからないことを言う。そういう変なことを話すときは、相手を選びなよ? ウチのお兄ちゃんとかには絶対言わないほうがいいよ」

「わかってるよ」

 宰一くんは苦笑して頷いた。

 エレベーターの到着だ。彼が先に入って、「開」のボタンを押してくれている。他には誰も入ってこない。だからこそ、私は遠慮がなくなった。

「宰一くんはおせっかいだよ。ほんとうにおせっかい。ぜんぶ分かってるんでしょう」

 エレベーターはゆっくり動き出した。

「まさか。何も分からないよ」

 あくまではぐらかすつもりなんだろうか。

「また、宰一くんの拾い物に助けられたよ」

 へえ、それは、どんな? と彼はきらきらと目を輝かせた。

 宰一くんは、私のもう一人の兄のようだった。だから、おせっかいをやかれると鬱陶しいし、放っておいてほしいと思う。そのくせ、ときどき構ってほしいとも思う。兄のように近いけど、正体がつかめない幻のよう。その謎のベールが飛んでいったら、いつの日にかドロンと消えてしまいそうだ。

「今朝は、すこしいいことがあったんだ」

 ほんとうの兄には恋の話なんてできないけど、宰一くんになら、聞いてほしいと思った。どんなこと? と宰一くんは微笑んだ。エレベーターはまもなく、私たちの住まう階に着くだろう。

 


 宰一くんがファミリータイプのマンションに住む理由について、こんなことを想像している。たくさんのモノたちが、その空間を占めているんじゃないかと。それは彼に拾われたものに違いない。ふさわしい誰かの手に渡るまで、彼がそっと眠らせてあげているんじゃないだろうか。

 お隣さんの物音が静かな夜は、そんなことを考えながら瞼を閉じる。


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