夕立は異界への門
梅雨も終わりかけの晴れの日。
サラリーマンの町田卓郎は、昼食を取るために会社の外に出ていた。
今日の昼食は社員食堂ではなく、
やや遠くのお気に入りの洋食屋に行くためだった。
空腹を満たした卓郎が、洋食屋の扉の鈴を鳴らして出てきた。
「うむ、やっぱりこの店のオムライスは最高だな。
欠点は、会社からちょっと遠いところくらいか。」
温かくなった腹をさすりつつ、卓郎は会社へ戻るために歩き始めた。
すると、さっきまで晴天だった空は、いつの間にか薄暗くなっていた。
見上げると、黒い雨雲がすぐそこまで迫っていた。
「雨が降りそうだな。その前に会社に戻れればいいんだけど。」
と、卓郎が言うのと同時に、ポタポタと小さな雨粒が落ちてきた。
小さな雨粒は量が増えていき、あっという間に大粒の雨に変わった。
ザーっと急な大雨が降り始めた。夕立である。
「うひゃー!こりゃたまらん!」
傘を持っていない卓郎は、手で頭を抱えながら、
適当な屋根のある場所に飛び込んだ。
卓郎が雨宿りのために飛び込んだのは、
古いアパートか何かの一角だった。
トタン屋根がいくらか飛び出していて、辛うじて雨宿りすることができた。
他に見える範囲に雨宿りできるような場所は無かった。
「ふぅ。こんな場所でも雨宿りできれば御の字だ。」
トタン屋根の外は、滝のような雨が降り続いている。
空はますます暗くなっていって、すぐには雨は止みそうもない。
卓郎は考えた。このままここで雨宿りすべきかどうか。
昼食を食べるために遠出をしてきたので、
昼休みの終わりの時間が迫りつつある。
「まずいな。このまま雨が止まなかったら、昼休みが終わっちまう。」
とはいえ、滝雨でずぶ濡れにもなりたくない。まだ仕事は残っているのだから。
「しかたがない。多少濡れるのは我慢するか。」
卓郎が滝雨を前に、心を奮い立たせようとした時、
すぐ横から声が聞こえた。若い女の声だった。
「・・・止めたほうがいいですよ。」
卓郎はこの場所に自分以外の人がいるとは思わなかったので、
驚きで飛び上がりそうになった。
「えっ!?あっ、失礼。人がいるとは気が付かなくて。」
真っ黒な長い髪の若い女だった。服装は髪とは正反対の真っ白なワンピース。
卓郎よりは頭一つ分、背丈が低い。
そんな若い女が、滝雨を見つめながら口を開いた。
「夕立の中を出歩かないほうがいいですよ。」
「それはまたどうして?」
卓郎は理由を聞かずにはいられない。
すると若い女は、こんなことを言い始めた。
「夕立は、この世とあの世が繋がる門が開いている合図なんです。」
「はぁ?あの世?」
「そうです。夕立の時には、この世とあの世が繋がる門が現れる。
そこをこの世ならざるものが出入りしているんです。
夕立の中で、傘も持たずに前が見えない状態で外に出たら、
悪くすれば、不意に門やこの世ならざるものに近付いてしまうかもしれない。
この世ならざるものの中には、人間に危害を加えるものもいます。
だから、夕立が降っている時に外に出ないほうがいいんです。」
何を言っているのかと、卓郎は喉まで言葉が出かかった。
この世とあの世を繋ぐ門?怪談じゃあるまいし。
この女は冗談を言っているのだろうかと思った。
しかし長い髪の間から見える白い顔は至って真剣であって、
冗談を言っているようには見えない。
腕時計を見ると、昼休みの終わりがもうそこまで迫ってる。
夕立はまだ続いているが、卓郎は迷っている場合ではなかった。
「ご忠告、ありがとうございます。
でも、昼休みがもうすぐ終わりそうなので、
私はもう行きます。では。」
卓郎は夕立の滝雨の中、意を決して駆け出した。
髪の長い若い女は、トタン屋根の下に残ったままだった。
夕立の雨粒は大きく、服はあっという間にずぶ濡れになった。
「着替え、用意してあったかなぁ。」
そんなことを考えながら、卓郎は夕立の中を走り続けた。
雨で煙る街は姿が曖昧で、他に人の気配も感じられない。
きっとみんな建物の中に引っ込んでいるのだろう。
こんな日に昼食のために遠出をするような間抜けは自分くらいか。
卓郎は濡れ鼠の自分の姿を自嘲した。
ズチャッ。ズル・・・。
雨溜の中を、何かを引きずるような音がした。
何だろう。雨煙でよく見えないが、すぐ近くに何かがいる気配がある。
気配はあるが、激しい雨のせいで姿はよく見えない。
ここはオフィス街だ。普段の昼休みには外は人で賑わう。
きっと他にも夕立の中を移動している人がいるのだろう。
卓郎はその程度にしか考えていなかった。
会社まではまだもう少し距離がある。
卓郎はずぶ濡れの身体を少しでも乾かそうと、
もう一度雨宿りをすることにした。
今度もやはり古いアパートのような建物から飛び出たトタン屋根の下だった。
卓郎は全身を見た。濡れていない場所が無いほどにずぶ濡れだ。
ずぶ濡れになった服を絞りながら、卓郎は一息ついた。
空を見上げると、黒い雨雲はまだ居座り続けている。
滝のような雨はまだ激しく降り続いている。
時間的にも、やはり夕立が止むのを待つ間は無さそうだ。
雨の中に飛び出そうとすると、今度は袖を引くものがあった。
見ると、若い女が卓郎のシャツの袖を引いていた。
「・・・夕立の中、外に出てはいけません。
外にはこの世ならざるものが闊歩しているかもしれないのだから。」
その若い女は、姿形が先程一緒に雨宿りした若い女と瓜二つだった。
いや、同一人物だ。話の様子から間違いない。
卓郎は夕立の中を走ってずぶ濡れになってここまで来たのに、
この女は長い髪の毛の先すら濡れていない。
どうやってここまで来たのだろう?屋根のある道があったのだろうか。
「あなたは、一体どうやって濡れずにここまで?」
しかしその若い女は、そんなことには興味を示さなかった。
心底、卓郎を心配している様子で、卓郎の袖を引いている。
「どうか、どうか、夕立の中に出ないでください。
あなたがこの世ならざるものの餌食にされるのを見たくはありません。」
その若い女の顔は真剣で、やはり冗談を言っているようには感じなかった。
それに、さっき感じた妙な気配も気になる。
できれば、卓郎だって、ずぶ濡れにはなりたくない。
しかし悲しいかな、サラリーマンは時間に縛られた存在なのだ。
昼休みの終わりには、職場に戻っていなければならない。
そのための猶予は、もうそんなに残ってはいない。
卓郎は若い女の手をやさしく払った。冷たい手だった。
「すみませんが、会社の昼休みがもう終わってしまうので。
私は行かねばなりません。」
「会社・・・。それは命より大事なものなのですか?」
若い女の言葉に卓郎は迷った。そしてありのままに答えた。
「会社で仕事ができなければ、首になってしまいます。
首になれば給料も貰えず、食べ物を買う金もありません。
だから会社は、命と同じか、それよりも大事なのです。」
すると若い女は寂しそうに言った。もう袖を引くことはなく。
「・・・そうですか。ではお気をつけて。」
「ありがとうございます。では。」
卓郎は今度こそ会社へ戻るべく、夕立の中、走り始めた。」
夕立の雨はちっとも弱まってはいなくて、
雨宿りした意味はほとんど無かった。
雨煙に視界を奪われて、会社の方角と思われる方へ雨の中を卓郎は走る。
目の前のオフィスビルが羨ましい。あの中に入れば濡れずに済むのに。
会社までは後何軒、隣だったか。
すると、オフィスビルが卓郎の前に立ちはだかった。
そんなことはありえない。
もうここから卓郎の会社があるビルまで、歩道だけのはずだから。
よく見ると、歩道に何かがいる。
オフィスビルだと思ったのは、ビルではなかった。
夕立を弾くその姿は、近付いてみて初めてわかった。
大男だった。上半身は裸で、頭に角が生えている。
鬼。そう称するのが相応しい。そんな存在が目の前にいた。
夕立の地面にあぐらをかいて、ボリボリと何かを食べている。
ポイッ。鬼は食べ終わったものを後ろに投げた。
それは卓郎の目の前にベチャッと落ちた。
肉を食いちぎられた、人間の手だった。
肉はほとんどなく骨しかないが、指が残っているから間違いない。
「う、うわああああ!」
卓郎は驚きのあまり、腰を抜かしてしまった。
その声に気が付いて、鬼がこちらを向いた。
大きな体に大きな一つ目。伝承でよく見る鬼の姿だった。
鬼は雨を震わすような声を出した。
「なんだぁ?こっちにも獲物がいたのか。
こりゃあ、今日の昼食はごちそうだ。」
鬼が卓郎に手を伸ばそうとしている。
捕まれば何をされるのかはわかっている。わかりきっている。
しかし卓郎の腰は恐怖で抜けてしまって、動くことができない。
鬼の大きな手が、卓郎のすぐそこまで迫った時。
「およしなさい!」
凛とした声がそれを遮った。
夕立はまだ続いている。
周辺に人の気配はない。人の気配、は。
代わりに卓郎の前には今、大きな鬼の手が迫っていた。
この世ならざるものは確かにいた。
やはり夕立の時に外に出てはならなかったのだ。
あの若い女の忠告を破ったことを、今更ながらに卓郎は後悔していた。
そこに、凛とした声が割り込んだ。
「およしなさい!その人間を食べてはいけません!」
声の主を見ると、それは、あの若い女だった。
夕立の時に外に出てはならない。
夕立の時には、この世とあの世を繋ぐ門が開き、
この世ならざるものが現れるのだから。
そう卓郎に忠告してくれた若い女が、今目の前に立っていた。
全身を夕立に打たれながら、鬼に毅然として言い放った。
「その人間はお前の食べ物ではありません。」
鬼はその大きな目で若い女としばらく睨み合った。
しかし先に視線を逸らしたのは鬼のほうだった。
「・・・しゃあない。こいつは諦めて、別の獲物を探すか。」
鬼は夕立で煙るオフィスビルの中を、ドスンドスンと歩いていった。
後には、あの若い女と卓郎だけが残された。
卓郎はまだ腰を抜かしていた。
しかし若い女の前で男が腰を抜かしているのを見られたくない。
卓郎は必死で何事もなかったふりをして立ち上がった。
「あ、ありがとうございます。おかげで助かりました。」
すると若い女は上品に口に手を添えて微笑んだ。
「いいえ、わたしは当然のことをしたまでですよ。」
「じゃあ、私は会社に戻りますので・・・」
まだ会社に戻ろうとする卓郎に、若い女は言った。
「言ったでしょう?夕立の中を出歩いてはいけないって。
この世ならざるものがいるからって。
それは何も、わかりやすい鬼だけとは限らないんですよ。」
メキメキバキバキと、若い女の身体が関節をありえない方向に曲げていく。
手足の数が増え、体毛が濃くなっていく。
蜘蛛だ。それも異常に大きい。
若い女は、顔だけを人間の形に留めて、全身を蜘蛛の身体に変形させた。
いや、こっちが本当の姿なのだろう。
そして、心底楽しそうに、言葉を述べる。
「わたしがあなたを助けたのは当然のこと。
なぜなら、あなたはあんな鬼の餌ではない。
わたしが大事に取っておいた食料なのですから。」
若い女は口から何かを吐き出した。糸だ。
ただでさえ足元のおぼつかない卓郎は、
あっという間に蜘蛛の糸に絡め取られてしまった。
若い女、蜘蛛女の顔が迫る。
その口は、大きな毛だらけの蜘蛛の口に変わっていた。
糸に巻かれて卓郎は悲鳴も上げられない。
バリッ、ボキッ、ベキベキ。
卓郎はこの日、昼休みから帰ってくることはなかった。
次の日も、その次の日も、卓郎は会社に姿を現すことは無かった。
命よりも大切な会社を残して、卓郎は姿を消した。
しばらくの後、命よりも大切な会社は、卓郎をあっさりと首にした。
卓郎がどうして姿を消したのか、
この世のものの中に知るものはいなかった。
終わり。
去りゆく梅雨を偲んでこんな話を書いてみました。
梅雨は蒸し暑いけれど、本番の夏よりはいいかもしれない。
もうちょっと梅雨が続いてもいいのに。
梅雨の暑さにやられながら、そう思いました。
人を取って食うあの世のものは恐ろしい。
しかし、命がけで会社に尽くす社員の首を簡単に切る会社も、
それと同じくらい恐ろしいものかも知れない。
そんなテーマも一緒に入れてみました。
お読み頂きありがとうございました。




