白猫の毛皮
「あ、崇」
サッカーやバドミントンをする大きな子供たちや砂遊びをする小さな子供たちがいる。無人のブランコは揺れている。さびた遊具がさびしげに地面に張り付いている公園。その、黄色く葉の枯れたツツジの植え込みの向こう側を少年は歩いていた。うつむいて、大きなかばんは重そうに、のろのろと。
「崇、塾だろう」
すばやく弾むボールからあぶれた、図体の大きな少年が明るく言った。口が大きくて、図図しさの権化といった印象だ。崇はにやりと笑って「そう」とつぶやいた。元々声の小さな少年なのだ。
「崇、一緒に遊べよ」
少年は言う。崇はまたニヤニヤと笑う。黙ったまま、何も答えない。
「サッカーしろよ。人数足りなくてつまんねえんだよ」
「崇は塾だろ。いいって。あいつ下手だしさあ」
別の小柄な少年がボールを追うのを止めて不満げに言う。こちらはひどくやせていて、それでいてすばしっこそうだ。
「サッカーはいいよ。俺、行くから」
崇はそんなやり取りに表面上は何の反応も示さずにそれだけ言うと、またニヤニヤと笑いながら歩き始めた。
「崇ぃ」
「いいだろ。ほっとけ」
少年たちは顔を見合わせて不満顔を付き合わせると、すぐにそれをやめてボールを追いかけ始めた。古いダンボールで作ったゴールポストは生き物のように飛び回るボールを呑み込まんとしている。やばい、あっちに獲られる。そんな考えが二人の頭を満たした瞬間、崇のことはすっかり忘れられていた。
崇はのろのろと塾に向かった。崇は塾が好きではない。勉強は特にできないし、意欲もそれほど無い。母親の期待するほどの成果を上げられる素質も無い。しんとした教室で、ホワイトボードに描かれる様々な記号を追っても、崇はぼんやりと、これは何の役に立つのだろうと思うばかりだ。
だからといって同級生と公園でサッカーをするのも好きではない。何より下手だし、崇は少年たちとコミュニケーションをとるのが苦手だ。軽いノリやちょっとした下品な冗談、おどけたパフォーマンスを、全部受け付けない。崇はいつもみずから一人になる。
小さな公園を抜けて、香水と体臭と吐息と靴音のうるさい中心街の中に、崇の通う塾がある。ビルの五階にあって、崇はいつもこの五という数字に悩まされる。たった五階だと思えるときがあれば五階もあると思うときがあるのだ。今日は五階もある、そう思ってエレベーターに乗る。塾のクラスメイトの女子がいる。ずんぐりして、いやみったらしい口元の女の子だ。口も利いたことも無い。だから当然、話さない。
崇は二人きりで、じっとエレベーターの階数を数えていた。一、二、三……。恐怖が増してくる。体が破裂するほどに。女の子は無表情に、平然としている。彼女はこんな気持ちになったりすることは無いのだろうか。崇は怖い。怖くてしょうがない。
崇は思わず四階のボタンを押した。女の子は驚いたように崇を見る。それでも何も言わない。エレベーターが四階で止まって、崇が逃げるように降りてしまっても何も言わない。
ドアが背中で閉じた。女の子の視線も消えた。崇は息をつく。見えるのはリノリウムの床。顔を上げてみると――。
「あら、こんにちは」
巨大な金色の目に射られた。と崇は感じた。金色の目がしゃべって、崇を見つめている。
「暑いわね。これだけ毛が長いと参っちゃう。もう切ろうかしら」
そんなことを言う目をよく見てみると、それは猫で、真っ白で毛足の長い、オッドアイの――金色の目のもう片方はエメラルド色の鮮やかな目だった――上品な生き物だった。
崇はぼうっと猫を見つめた。きれいな猫だった。無表情で、高貴な視線を崇に向ける。何かを語りかけたくなるような猫だった。
「ねえ、何をぼうっとしてるの」
猫を抱いていた女が崇の顔を覗きこんだ。崇はあわてて後ずさった。顔が赤くなっている。猫がしゃべったと思い込んでいたことが恥ずかしかった。それに、顔をぎゅっと近づけてきたこの女はひどくきれいで、キャミソール一枚の肩は華奢で、崇は一度も見たことの無い、妖精のような透き通ったオーラを持った女だった。
「あなた、何をしてるの。こんなところで」
崇は女をうかがうように上目遣いで見た。女はそれをあまりにまっすぐに見つめ返すので、崇は目をそらした。
「おどおどした子ねえ。私に用事があるんじゃないの」
「いいえ」
「なら帰りなさいよ」
「はい」
崇は身を翻してもとのエレベーターに乗ろうとした。するとまた恐怖が体を襲ってきた。崇は体をぶるぶる震わせた。怖い。どうしても、怖い。
すぐに、何かに肩を押さえられた。振り返ると、その人は女ではなかった。五十くらいの中年の男が崇の肩を抱いていた。ニコニコと笑っている。
「大丈夫?」
陽気さを含んだ穏やかな声だった。崇はこくんと頷いた。
「よくわかんないけど、ジュース飲んできな。落ち着くからね」
崇はまたこくんと頷いた。何だってよかった。五階に行かなくて済むのなら。女は猫を床に降ろして、まあいいか、と放り投げるように言い、エレベーターからすぐのガラスのドアを押し開けた。男も、崇も、それに続いた。
中は清潔に整っていた。正方形の部屋には何故かたくさんの緑色のテーブルセットがあり、喫茶店なのかというとそうでもなかった。人が数人いて、ぼんやりと長いすに寝ている中年の女がいれば、かくしゃくとした老人もいた。一体ここが何の店なのか、病院なのか、崇にはよく分からなかった。
「オレンジジュース」
女の手から崇の目の前のテーブルに置かれた氷の入ったグラスには、とろみのある橙色の飲み物が入っていた。崇はお礼を言って、遠慮がちにソファに座った。ソファはやわらかく、動物の腹部のようだった。
オレンジジュースは、できるだけゆっくり飲んだ。男はここを訪れる人々の受付らしい仕事で忙しそうだったし、女は猫と遊ぶのに夢中だったので、今すぐここから出て行けといわれる心配はなさそうだった。崇は安心してひっそりとたたずんでいた。
それにしてもここは何だろう。ただ人が集まってくるばかりだ。大人しそうな女の人や、にぎやかな主婦や、無数のピアスをつけた男。人種はばらばらだ。崇はじっと受付や周囲を観察していたが、何も分からなかった。
と、その時、冷たい手で目をふさがれた。
「駄目よ。じろじろ見ちゃ」
猫を抱いた女だった。崇の頭を後ろから抱いた手はするすると戻っていき、崇はどきどきしていた胸がすうっと収まるのを感じた。
「あの」
「何」
「ここは何のお店ですか」
女がけらけら笑った。あまりに声が大きいので周りの人々が振り返るほどだった。猫はうるさそうに互い違いの目を閉じた。受付の男は立てた人差し指を口にあて、シーッと言った。
「うるさいよ」
「いいじゃない」
女は唇を突き出して、舌打ちをした。崇は緊張しながらこの成り行きを見ていた。
「あのねえ」
女は崇に向き直った。
「ここはあんたみたいな子供が来るところじゃないのよ、本当は」
それを聞いて、崇はあわてて立ち上がった。女が怪訝な顔をする。
「すみません、帰ります」
「何で」
「僕がいちゃいけないんでしょ」
「まあ、いけないけど」
「なら、帰ります」
「まあまあ」
受付から声がする。
「ジュース飲むくらい良いじゃない」
「そうよ、良いじゃない」
女もきょとんとした顔で言う。崇は大騒ぎした自分が恥ずかしくなる。
「なんだかいちいち面倒くさい子ねえ」
女があきれたようにそういうので、崇は恥ずかしさに加えて悲しさにも襲われた。否定されてしまった。何て悲しいんだろう。
「悲しいの?」
女が尋ねる。崇は涙目になっていた。しかし決してうなずかない。
「泣くなよ、このくらいで」
「泣いてないです」
崇は涙をぐっと我慢して女を見つめた。女はにやりと笑っていた。
「ねえ、君」
女は猫を崇に渡した。とてもやわらかく大きな猫で、崇はひどく感動した。動物を触るのは初めてだった。猫はすこし戸惑ったが、崇のひざに乗ると、くつろぎ始めた。
「明日も来て良いよ。五階に上がりたくないんなら」
「崇、一緒に遊ばない?」
あの大柄な少年がまた声をかけた。崇はにっこりと笑って首を振り、「塾だから」と答えた。少年はつまらなそうに公園入り口の車両止めに座っていた。奥の方の亀に似た隠れ家のような遊具の中で、男子も女子も混ざって何かひそひそ話していた。少年はそれにあぶれたのだろうか。
「塾だからしょうがないんだ。お母さんに怒られる」
崇はむしろ陽気そうに首を振り、走った。後から、少年のもの悲しい視線が追ってきていた。
エレベーターは四階で止まる。五階に行くことはない。この一週間の間は。崇はここでジュースを飲む。他の人々を観察しながら。
ここの人々には相変わらず変化が無い。街を歩く人々をごっそりとまとめて連れてきただけ、そんな感じがするほどだ。しかし、今日は少し違った。
「早く行きたいんです。早くしないと私の家に入れなくなるんです」
サラリーマン風の男がおんおんと泣きながら女にすがっていた。猫を相変わらず抱いていて、猫は目を大きく開いて男を見ている。
「早く行かせてください。早く。毛穴の中に入れてください。俺を毛穴の中に入れてください。つらいんです。いくら行っても家に入れないんです」
「落ち着いてください」
猫と同じ表情と無言で男を見ている女は、受付の男が現れるとさっと身を翻した。男はまだ女を追っている。
「お願いします……」
「時間になれば開始しますので、どうか落ち着いてください。あ、崇君」
崇は呆然とその光景を見ていたが、声をかけられるとびくっと肩を震わした。女が勢いよく崇の元に歩いてくる。そして、腕を乱暴に掴んだ。猫のような目で崇をねめつける。
「あんたは今日は帰りなさい。事情が変わっちゃったから。というか、塾に行きなさいよ。いくじなし」
崇はあわてて立ち上がった。そして、女の顔も見ずに走り出した。ガラス戸を引っ張り、エレベーターに乗った。行き先は。崇の指はパネルの上でうろうろと動いた。自動的にドアが閉まる。どこに行こうか。どこに行けばいいんだろうか。崇は泣き出した。指先を震わせながら泣いていた。俺には行き先が無い――。涙が止まらなかった。
家に帰ると、いきなり母親から頬をはたかれた。痛みにくらくらしながら母親を見ると、彼女は冷たい目で崇を見ていた。
「馬鹿の癖に…」
崇は目をつぶった。
「馬鹿なんでしょ、あんた」
黙りこむ。
「馬鹿なら勉強しなきゃいけないんじゃないの。違うの」
家の中はしんとしている。仕事中の父を除けば、この家には母と崇しかいないのだ。空気が重い。そう思うのはいつものことだ。
「馬鹿なんだから、馬鹿なんだから、馬鹿なんだから」
母親は言葉が続けられないほど震えているらしかった。崇はそのことにも怯えた。塾から自分がサボっていることを告げられただけでこんなに混乱するなんて――。
「勉強できないなら死になさい」
「え」
崇は信じられずに母の顔を見つめる。青く、震える母の唇。力の抜けた体。
「死になさい!」
崇は玄関をとび出した。生暖かい空気。薄暗い夜道。無人の空。明るい窓。崇は息をついた。自転車に乗る。左足で蹴って、右足はペダルを踏む。自転車の動きが安定する。汗ばんだ自分の匂いが鼻孔に入る。崇は夜の街に飛び出した。
まだ胸がどきどきする。死ね、と言われるのは初めてだ。だが、何故か初めてではない気がする。いつもあの目はそう言った。きちんとあいさつができなければ死ね、靴を揃えられないなら死ね、自慢できる息子でなければ死ね。それは本当の死を意味してはいなかったろう。意味していたのは、崇の人格の死だ。崇の人格はいつでも死んだ。何度も死に続けた。助けはなかった。それが当たり前だった。
母にとって、崇は何だったのだろう?
突然、耳に入ってきた悲鳴。これは何だろう。女の悲鳴? いや、動物の悲鳴だ。犬がきゃんきゃんとほえている。
崇はいつもの公園の前を走っていた。その中の街灯の下で、大人の男たちが何かに向かって棒を叩きつけたり蹴ったりしていた。崇は怯えた。犬の目が飛び出ている。助けようか、どうしよう、いや、助けよう――。そんなことを思いながら崇は公園を通りすぎた。様々なことを思いながらペダルをこいだ。俺ができることはない。大人の男にかなうわけがない。でも、あの犬、悲しそうだったなあ――。
着いたところはいつものビルだった。塾の生徒たちが吐き出されていく。その中に友人も混じっていて、崇を見つける。だけど崇は目をそらして波に逆らい、エレベーターに乗る。行き先は、四階。
「いいですか、目を閉じてください。じっとしてれば、すぐにたどり着きます。さあ、十数えますよ。一、二」
男の声が続く中、夕方いた場所に崇はまたもぐりこんでいた。誰も崇に気づいていない。明かりは一つもついていなくて、崇は汗ばんだシャツを皮膚からはがしながら女を捜した。女は部屋の奥に、猫を抱いて椅子に座っていた。不思議なことに、ここにいる人々は皆彼女のほうを向いている。
「五、六」
閉じられていた女の目がゆっくりと開かれる。
「七.八」
女はゆっくりと辺りを見回す。そして驚いた顔になる。崇は見つかった、と思って目を閉じた。
「九」
女の口が動き出す。
「十」
「あんたなんで来たのよ。帰れって言ったじゃない」
女の叫びに周りの人々驚いて目を開けたとき、奇妙なことが起こった。猫が、膨張している。大きくなって、部屋いっぱいに広がって、悲鳴を上げる人々を壁や床に押しつぶそうとする。崇は逃げようとした。白い毛の塊が追ってくる。つぶされる。つぶされて死ぬ。
しかし、そうではなかった。
崇は吸い込まれたのだ。膨張して広がった猫の毛穴の中へ。一瞬にして広がった毛穴は全ての人々をそれぞれに呑み込んだ。人々を飲み込んだ猫はそれからゆっくりと収縮していき、やがて再び女の腕の中に納まった。男と女は、呆然とお互いを見詰め合っていた。
いつもの公園だった。おかしなことにまだ夕方で、空は明るく、子供たちはにぎやかに遊んでいた。崇は自転車に乗っていなかった。それに、塾の鞄も持たなかった。何をしているのか、よく分からなかった。
崇のクラスメイトたちが、亀に似た遊具に集まってひそひそ話をしていた。目つきは陰険で、ぞっとするほど冷たかった。崇は彼らに話しかけることをためらった。そのまま通り過ぎてしまおうと考えた。
「崇」
少女の声がして、崇は僅かに怯えて振り返った。クラスのリーダー格の少女だった。彼女はしなやかな体つきをしていて顔立ちもきれいなのだが、気が強く、何よりも残酷だった。
「あんたも参加しなさいよ」
「何に?」
崇は彼女に話しかけられることなどあまりなかったので動揺していた。彼女は多くの同類の女子をはべらせて、亀の遊具の上に座っていた。遊具の周りには男子たちもいた。皆笑っている。
「彰良のお葬式」
崇の心臓がギクンと鳴った。男子たちの向こうにへんなものが見えた。溶け出したような、丸い眼球。
犬だ、と崇は思った。さっきの犬が死んでいるのだ。それをあいつらが弄んでいるのだ。可哀想に。何てひどいことをするのだろう。そんなことを考えながら、崇は一歩も動かなかった。しかし、彰良のお葬式とは何だろう?
「あいつまだ分かってないぜ」
男子の一人が言った。崇がサッカーに入るのを止めた少年だった。あきれたように、崇を見ている。
「しょうがないなあ。ちゃんと近づいて見ろよ、崇」
少女が促す。崇はのろのろと歩きだす。男子が道を開ける。その先に見えるのは――。
「彰良!」
いつも崇に声をかける大柄な少年が、体中殴打されたように膨らんで、倒れていた。目玉は、彰良の眼孔から白く伸びて流れていたのだった。そっと膨張した頬を触ってみる。
「死んでる!」
崇は後ずさった。
「死んでるよお!」
突然、ざわざわとした雑音が聞こえてきた。うるさい、うるさい。崇が彰良の死体を見ながら呟いていると、ようやくそれがみんなの笑い声なのだと気づいた。
崇は皆を振り返った。口を大きく開けて、目を三日月形にして、歯をぎらぎらと光らせて笑っていた。なんだろう。崇の頭に浮かんだのはその言葉だった。一体、何なんだろう。
「あったり前じゃん。見れば分かるでしょ」
亀の頂上の少女が笑いながら言う。
「分かんないよ。何だよ、何で救急車呼ばないの」
崇の頭には先ほどの犬を蹴っていた大人たちの姿が浮かんでいた。彼らが彰良を殺したに違いない。殴って、蹴って、死なせて、逃げたに違いない。
「救急車必要ないじゃん、死んでるし」
少女の笑いを含んだ声に、崇はようやく顔を上げた。少女は端正な顔を崩さずきれいに笑っていた。崇はようやくこの状況のおかしさに気づいた。
「何で笑ってるの?」
崇は震え始めていた。クラスメイトたちは全員、崇を見ている。この連中が、怖い。
「うん、次は崇にしようかなー、と思って」
少女は一見優しそうに微笑む。
「次?」
「あたしたちが次に殺すの、崇にしようかなーって」
途端に少女の顔が弾けた。口を大きく開けてゲラゲラ笑っている。クラスメイトたちはというと――、全員が崇に飛びかかろうと、一斉に走り出してきた。
わああああ、と悲鳴が口から漏れ、崇は全速力で走り出した。殺される。奴らに殺される。そんなのは嫌だ。
歩道に出て、買い物中の女を突き飛ばす。彼女はよろけて、次に大勢の小学生の集団に目を丸くする。
短い距離を走って、公園から離れる。茶色いマンション、銀色のビル。それに広大な交差点。運よく信号は青だ。
ゆっくりと歩く人々の間をすり抜けながら、長い横断歩道を走る。背中には一番すばしこい、あの小柄な少年が手を伸ばそうとしている。
しかしビルは横断歩道を渡ってすぐなのだ。ビルに飛び込み、無人の廊下のエレベーターのボタンを押す。エレベーターはなかなか降りてこない。その間に男子たちが次々と押し寄せてくる。一番すばしっこい少年に、崇は乱暴に捕まった。
「何逃げてんだよ、崇」
少年がハアハアと息をつきながら暴力的な声を上げる。崇は涙を流していた。
「殺さないで」
崇は哀願した。声は弱弱しく、悲しげだった。しかし、少年はせせら笑った。
「殺すに決まってんじゃん」
「何で殺すの」
「ユミカがそう決めたから」
少年はリーダー格の少女の名を挙げた。崇は絶望した。あの少女は、目に付いたクラスメイトを一人ひとり、蟻をいたぶるようにいじめる。クラスの女子の大半が、無視という冷たいいじめを受けているはずだ。男子もことによってはいじめる。馬鹿だったり、失敗をしたりした場合、男子を使って男子をいじめる。そのやり方はとても残酷なものだ。しかし、殺しはしなかったはずだ。
「俺は殺されたくないよ」
「選ばれちゃったんだから、しょうがないな」
少年が笑う。後ろに控えたクラスメイトたちがニヤニヤ笑う。女子の集団と共に、ユミカがゆっくりとやってきた。もうおしまいだ。殺される。
その時、エレベーターのドアが開いた。崇はエレベーターに乗ってもまた追われて助かる見込みはないと思っていたので、後ろを振り返らなかった。しかし、首筋をぐいとつかまれて、後ろに転んだ。唖然としているクラスメイトたちの目の前で、ドアは閉まる。
「四階でしょ?」
崇は呆然としていた。そこには猫を抱いた、あの女が立っていたからだ。崇を猫のような目で見ている。
「やあね、あんたいじめられてたの」
女は笑った。崇は無言だった。ただただ震えていた。
「この世界じゃね、いじめというのはつまり本当に殺しちゃうということなのよ。助かって良かったわね」
背筋がぞくっとして、銀色のドアを見た。開く心配はなさそうだった。パネルの階数もぐんぐん上がっていく。
「彰良、死んじゃった」
「死んじゃったの。まあ」
「俺、どうしよう」
崇の目に大粒の涙が溢れ出した。ぼろぼろ落ちて、止まらない。女はそんな崇に何かしてやるでもなく見ていた。電子音が響く。エレベーターが四階に止まったのだ。女が先に歩きながら尋ねる。
「降りる? 良ければ今日も毛穴の世界に連れて行ってあげるけど」
「毛穴の世界?」
崇は泣きじゃくりながら、女に従ってエレベーターを出た。
「猫の体が部屋いっぱいに大きくなったのを見たでしょう? そしてあんたは毛穴の一つに吸い込まれた。ハプニングでね。だから――」
「俺、よくわかんないよ」
女が舌打ちをする。
「じゃあ田中さんに教えてもらいなさい。あのおじさん」
部屋の中はいつものように人がポツポツといるだけだった。崇と女が入っても、誰も振り向かない。ただ静かだ。そこへ、中年の男が駆け寄ってくる。田中だ。
「さっきは大変だったね。猫に吸い込まれたり、街がいつもと違っていて怖かったろう」
「いじめられそうになってたのよ、この子」
女がため息をつきながら言う。この世界でのその意味を知っているらしい田中は険しい顔をして崇を見つめた。
「怖かったろう」
優しい言い方に、崇はまた涙をこぼしてしまった。涙が止まらない。人に抹消されることの恐ろしさがこれほどとは知らなかった。
「泣き虫ねえ」
「良いじゃないか」
田中は崇の頭を撫でた。崇は顔を上げて涙を拭いた。
「僕、どこにいるんですか。この世界だとか何とか、よく分かんないです」
田中は長いため息をついた。女は猫を抱いてあやしている。猫は相変わらず仏頂面だ。
「座りなさい」
田中に言われるままに、崇は緑色のソファに座った。田中と女は向かい側に座る。
「白い猫の毛皮にはね、宇宙があるんだよ」
第一声に、崇はふっと笑った。何をつまらない冗談など言っているのだろう。
「あ、やっぱり笑った」
女がいらだたしげに崇を指差した。崇は唇をかんで自分を制した。田中は慣れているのだろう、平気な顔で話を続けた。
「白い猫の皮膚にある、小さな無数のへこみ、つまり毛穴、あれは、一つ一つが宇宙を有しているんだよ。中では人が人を殺しあう宇宙や、逆に平和な宇宙や、人が一人もいない宇宙がある。そんな様々な宇宙の一つに、僕らは住んでいるんだ。つまり君がもといた宇宙だって、白猫の毛皮の毛穴の中にあるんだよ」
「そんなの嘘だ。宇宙の果ては猫の毛穴の内壁だなんて、馬鹿馬鹿しいじゃないか」
崇が噛み付くと、田中は微笑んだ。
「宇宙の果てを見たことがないだろう? 僕らは知っている。柔らかな猫の皮膚なんだ。皮膚に包まれているんだよ、僕らは。そこに飛び込もうと思えば飛び込めるんだ。ここにいる皆、自分に合った宇宙を探しているんだ」
「じゃあ、それが本当だとして、僕はこの猫の毛皮のどれかに飛び込めば、本当の世界に戻れるんですか? クラスメイトに殺されない世界へ」
「いいや」田中はゆっくりと首を振った。「戻れないよ。この猫はさっきの猫とは違う猫なんだ。街で拾ってきたんだよ」
崇はぞっとした。
「それじゃあ、元に戻れないじゃないか!」
「戻れるわよ」
女が口を出す。崇が見ると、微笑んだ。
「ブラフマンさんを探せばいいのよ。ブラフマンさんはあなたの体に流れる世界の雰囲気をつかんで、それに見合った世界に戻してくれるわよ」
「どこにいるの、その人は」
「どこか」
女が崇から目をそらす。
「分からないんだよ。僕らにも」
田中が言いにくそうに言う。崇は絶望した。また涙を流した。女がため息をつく。
「よく泣く子ねえ。ブラフマンさんはどこかにいるわよ。今からこの子の毛穴を開くから、そこに入って探して御覧なさいよ。見つからなかったらまたここに来れば良いから」
女は崇の腕をつかんで無理やり立たせる。
「早いけど、毛穴を開きましょうか」
女が言うと、辺りにいた人々がいっせいに振り向いた。儀式が始まるのだ。
「皆さん、目を閉じてください」
辺りはしんと静まり返る。崇も目を閉じる。途方もない旅の恐怖に打ち震えながら。
「十数えます。一」
崇は思った。白い猫とは一体何なんだろう。不思議な存在だ。
「二」
毛穴に宇宙を持っているなんて疑わしい。崇はまだ信じられない。それに、猫の毛穴の宇宙が実在するとするなら、自分が今いるのは、毛穴の中の中の中の中の……、永久に続く連鎖の一部だ。何だかぞっとする。
「三」
でも今日の出来事はおかしかった。いきなりクラスメイトが殺されるなんて。
「四」
それに自分も殺されそうになった。崇は震えた。
「五」
死んだらどうなるのだろう。それより、殺される時の痛みはどんなふうなんだろう。
「六」
そういえばこの猫は拾った猫だと言ってたな。崇はちらりと女の腕の中の猫を見る。ずいぶん大人しい猫だ。一度も鳴かない。それに前の猫にそっくりだ。互い違いの目も同じだ。
「七」
しかし、おかしいぞ。
「八」
猫が違う猫だということは分かる。違う世界なのだから。
「九」
では、自分と以前から知り合いであったかのように話すこの女と男は何者なんだろう――。
「十」
目を見開いた崇の目の前には、白い毛があった。それが膨張し、広がり、毛穴が見え――。
毛穴の中には本当に真っ暗な宇宙があった。星が瞬き、焼ける太陽も見えた。
また、公園だった。夕方で、空気は生ぬるく、明るかった。
今度もクラスメイトたちがいた。サッカーをしている。集まってはいない。崇は先ほどのことを思い出しておびえた。今度はどんな宇宙だろう。ブラフマンは早く見つかるだろうか。
「崇、サッカーやろうよ」
彰良がサッカーの輪の中から声をかけた。崇はほっと息をついた。彰良が生きている。正常な宇宙だ。
「パスするから受け取れよ」
彰良の足からポーンと丸いものが飛んでくる。植え込みを越えて、崇の足元で弾む。――生首が。
誰の頭だろうと考えて、先ほど崇を殺そうとした少年だと気づいた。舌を出し、目をかっと開いている。首からは血が止まって、様々な器官がはみ出している。
崇はその場で吐いた。
「どうしたんだよ。孝之自殺しちゃったから皆でボールにして一緒に遊んでやってんだろ。一緒にやろうよ」
彰良が笑顔でそういうのが信じられない。崇は口元を押さえながら後ずさった。と、歌が聞こえてくる。
「星よ、星よ、何故瞬くの。月よ、月よ、何故輝くの」
老人の声だった。公園の隅の方から聞こえてくる。見ると、背の高い鉄棒の下で棒を振り回して遊んでいる男がいる。夏にもかかわらず長いコートを羽織って、髪を長く伸ばしている。鉄棒にぶら下がっているのは、人間だ。首吊り死体が四体も――。それに向かってばしばしと棒を当てて、遊んでいるのだ。
崇の視線に気づいた彰良が言う。
「あのおやじ、さっきから木琴遊びをしてるんだ。死体で遊ぶのは子供の特権なのに、ずるいよな」
「……皆で、死体で遊ぶの?」
崇の声は弱弱しいが、彰良は気にしていない。
「そうだよ。当たり前だ。それがお葬式というものだろ」
それよりサッカーを……といいかけた彰良を置いて、崇は走り出した。走って、走って、途中で激しく黄色い胃液を吐いた。吐いた胃液はシャツについた。
「また戻ってきたの」
女があきれたように言う。崇はぜいぜいと息をついて、またあのビルの四階にいた。顔は青ざめ、顔中がこわばっていた。白い猫はまた抱かれていたが、今度は毛足の短い、ほっそりとした白猫だった。白猫は崇をじっと見つめている。
「ここでは死体で遊ぶのがお葬式なんだって」
崇がそう言うと、女は唇の片方だけ笑った。
「そう、それに皆自殺するのよ、この宇宙では」
「何故だろう」
「理由なんて知らないわ。何故か皆自殺する。それだけよ」
女はそういうと田中のいるほうに走っていった。田中は入れ違いに青いグレープジュースと新しいシャツを持ってきて、崇に渡してくれた。シャツは大人用だったが、この汚い服よりはましだったので、崇は場所もかまわず着替えた。
「次の宇宙がどんなところか不安です」
崇が言うと、田中は深く頷いた。
「そうだろうね。ブラフマンさんを見つけるのは大変だろうしね。でもここの人たちはね」と、田中は辺りを見回した。そこにはいつものようにまばらに人がいた。「自分の居場所を求めて次々に宇宙を巡っているんだよ」
「自分の元の居場所じゃなくて?」
「そうさ。自分に相応しい場所を探しているんだ」
俺には無理だ、と崇は思った。例え母親に死ねといわれても、クラスメイトにいじめられても、元の居場所で縮こまっているのが自分の限界だ。探すなんて、できない。見つけられても、きっと適応できない。
「猫は知っているのさ。人間たちが求めているものを」
田中は女の抱く猫をいとおしげに見つめた。
「一」
それにしても何だろう、この気持ちは。
「二」
あきらめ?
「三」
俺はあきらめようとしているのだろうか。
「四」
いくら行っても恐ろしいものにぶち当たる恐怖に?
「五」
ブラフマンという、いつになったら見つかるか分からないものの途方のなさに?
「六」
だけどどうしても帰らなければならない。
「七」
どうしても。
「八」
あれ? だけどどうしてだろう。
「九」
俺はどうして帰りたいなどと考えるのだろう――。
「十」
猫は膨張する。まるでビックバンのように突然。猫の柔らかな皮膚が体じゅうに押し当てられる。そして毛穴が広がっていく。
崇は追い込まれる。真っ暗な、果ての見えない宇宙へ。
公園だ。崇はうんざりするような、安心するようなだるい気分に襲われていた。皆がいる。クラスメイトたち。彰良も、孝之も、ユミカも。生きている。全員生きている。崇はひとまず安心した。
「おーい、崇、お前も来いよ」
彰良が手を振る。どうやら公園の奥に何かあるらしい。崇はびくびくと恐れながら車両止めを抜け、芝生の生えた公園の中に入っていった。
「見ていてごらん。おじさんが逆さになると不思議なことが起こるからね」
そこにいたのは、前の宇宙にもいた男だった。長い白髪交じりの毛はぼさぼさで、目はぎょろりと大きい。夏にもかかわらず長いフェルトのコートを着ている。この男が何かパフォーマンスを始めたらしく、亀の遊具に集まったクラスメイトたちは、あるものは楽しげに、あるものは仏頂面で待っていた。
男は地面に節くれだった手を着いた。そしてぐっと力を入れると、ゆっくりと、ゆっくりと、下半身が上へと上っていった。恐ろしい腕力だった。崇は思わず男の行動に見入った。
「なーんだ、ただの逆立ちじゃん」
と、誰かが言った時だった。男の逆立ちは完全になった。その瞬間、ザーッという音が辺りにけたたましく響いた。子供たちはぎょっとして男を見た。逆さになった男の体じゅうから、キラキラとしたものがいっせいに零れ落ちているのだ。それは男の周囲から範囲を広げていき、子供たちの足元までたどり着いた。光るものがつま先に着いた少年は、びくりと体をどかした。それでもそれは広がっていった。
音がおさまると、男は身軽に逆さから元に戻った。そしてどうだといわんばかりに笑った。歯はほとんど欠けていた。
男の体から落ちてきたものは、色とりどりのビー玉だった。何の珍しくもないものだと分かると、子供たちの驚愕はいっせいに冷めた。
「ビー玉じゃん」
ユミカが吐き捨てるように言った。
「そうだよ。きれいだろ」
男がうれしそうに笑ってユミカに近づくと、亀の遊具の周りにいた男子の一人がビー玉をつかんで男に思い切り投げた。ばらばらとビー玉をぶつけられた男はひいっと悲鳴を上げて体を縮めた。子供たちは一斉に笑った。
「もっと投げつけろよ。もっと」
ユミカの命令の元にどんどんビー玉は飛び交うようになっていった。男に当たってばしばしと鳴るそれは恐ろしい凶器だった。しかし崇には美しいもののように思えた。そもそも、逆立ちのパフォーマンスも、流れ出るビー玉も、全てが面白いもののように思えていた。男にぶつけようとビー玉をにぎっている子供たちの手そのものも、輝いている、美しい、そう思えた。
「崇もやれ!」
ユミカの甲高い声がする。逆らってはいけない声だ。やろうか、やるまいか、崇は散々迷った。震える手で、転がっていた一粒の黄色いビー玉をつかんだ。男は小さくうずくまって震えていた。崇は、投げようか、投げまいか、いつまでも迷って――、とうとう投げられなかった。
「何やってんだよ!」
バシッと、耳に固いものがぶつかる。ビー玉だ。見ると、孝之が広げた手を崇に向けていた。
「何でやんねえんだよ!」
今度はユミカから投げつけられる。投げつけられたビー玉は後頭部にぶつかった。少女の手によるものだから、孝之の投げたものよりは痛くなかった。
「皆、崇に投げなよ」
ユミカの命令が下ると、ためらいなく崇に向かってビー玉は投げられてきた。体じゅうにぶつかる。彰良までもが投げているのがショックだった。崇は目をつぶった。痛い。痛い。助けてくれ。
「やめなさい」
何かが崇を包んだ。ごわごわした、固いものだった。それに、ひどく臭い。
「友達をいじめるのはやめなさい。どんなにこの子が傷つくか、考えなさい」
「うっせー、オヤジ」
ユミカの声だ。
「崇なんてさー、いつも暗いし何考えてるかわかんないし、だからどうやっても良いんだよ。えらそうに説教すんな」
崇は涙が出た。いつもそうだろうと考えていたことが、言葉に出されることはショックだった。崇は震えながら、男にすがった。
「帰ろうっと」
ユミカの声が突然軽くなった。亀の遊具から滑り降りる音がする。
「皆も帰ろう。あ、そうだ、明日から崇はシカトね」
クラスメイトのさざめきが聞こえる。遠ざかっていく。
「何なんだろうね、あのオヤジ」
「臭そう」
「崇、抱きしめられちゃってんの」
「うける」
静かになっていく。しかし崇の胸の鼓動はますます激しくなっていく。見捨てられた。クラスメイトから、見捨てられた。
「ぼうや、安心しなさい。おじさんが助けてあげたから」
歯の欠けた汚い男がそう言っている。としか思えなかった。男は公園の一番大きな木の根元に座ると、手で崇を招いた。崇はブンブンと首を振り、拒絶した。
「僕、僕、帰ります。さようなら」
崇は身を翻し、走って公園を出た。男は差し伸ばした手も虚しく、崇の後姿を見つめていた。
崇は唖然としていた。目の前にあるのは若い女が出入りする服屋で、あのビルではなかった。ビルが、消えていた。
どうしてだ、と崇は心の中で叫んだ。行けないじゃないか。これ以上進めないじゃないか。進めなければ、俺はこのいじめられることが決定した宇宙にい続けなければならないじゃないか。
呆然と立ち尽くす小学生を、着飾った女たちは怪訝な目で見ていた。だけど誰も声をかけなかった。崇の様子はあまりに不気味で、声をかけられる雰囲気ではなかった。
崇はしばらくそこにいると、やがてとぼとぼと歩き出した。行くところがない。どうしよう。そればかり考えていた。
いや、あるじゃないか。家が、あるじゃないか。崇の表情は輝いた。帰るところはあるじゃないか。崇は家が帰る場所だということを長らく忘れていた。
崇は走った。長い横断歩道を抜け、ビル群を抜け、公園の脇をすり抜け、住宅街に向かって走った。ごちゃごちゃした清潔と謳われる新興住宅街を走り抜けると、崇の家は道がカーブを始める場所に、水色のペンキの剥げかけた壁を見せながら立っていた。鉄の門を抜け、銀色の玄関のドアを開ける。
「入らせないよ」
そう聞こえてきた声に、崇は面食らった。目の前にいるのは崇だった。玄関のドアノブをにぎって、崇を睨みつけている。崇はうろたえた。自分に出会うことなど初めてだった。それでも、もじもじと質問をした。
「どうして、いけないの」
「ここは俺んちだから」
もう一人の崇は居丈高だ。
「俺んちでもあるよ」
崇は少し怒りを覚えた。こんなに威張られる理由はない。
「だけど俺んちでもあるんだ。家には崇は一人しか入れないよ。早いもん勝ちだ。だからここは俺の家だ」
崇はもう一人の崇の言葉に黙り込んだ。言い返せなかった。かといって、家を奪い取ろうという勇気もなかった。そもそも、家に対する執着心がなかった。たまたまビルと猫がなくなっていたので家を求めただけだ。
なので、ぴしゃりとドアが閉められると、崇はすごすごと家の敷地から出て行った。でも、最後に一言だけ言ってやりたかった。
「お前、明日からユミカたちにいじめられるよ」
すると、中からは案外平気な声で返事が返ってきた。
「分かってる。でも家がないよりましだ」
崇は色んな自分がいるものだと思いながら歩き出した。自分ならいじめられたくない。だから猫を探して別の宇宙へ逃げ出したい。ああ、あの女と田中は、一体どこに消えたのだろう――。
結局崇は公園に戻った。そこにはもう子供はいなくなっていて、ひっそりとあの男が木下にたたずんでいるばかりだった。崇はそこから離れたベンチを探して寝転がった。
「どうした。家に帰らないのか」
早速男が話しかけてきた。崇は無視した。
「困ったねえ。子供が外で寝るなんて、危ないねえ」
ビー玉は全て男が回収したようだった。辺りからはあの輝きは失せ、崇にはまるで夢だったかのように思われた。しかし、あの大量のビー玉は一体どこから出てきたのだろう。服のポケットに、あれほどの量をしまっておけるものだろうか。崇は固い湿ったベンチで寝返りを打ちながら、考えた。
「そういえば、ミミさんと田中さんたちがいなくなってしまったね。ぼうやはそれで困ってるんだろう」
途端に崇は起き上がった。男を見ると、ニヤニヤ笑って崇を見つめていた。知っている。こいつは知っている。ブラフマンだ!
崇はベンチから飛び降りて男に走りよった。男はうれしそうに木の根元に場所を開けた。崇はそこに座らずに離れた場所で尋ねた。
「おじさん、ブラフマンさんなの」
男はニヤニヤと笑ったきり答えなかった。
「ねえ、ブラフマンさんなんでしょ。僕を元の宇宙に戻してください。お願いです」
男はうんうんとうなずいて、崇の手をつかんだ。つかんで、引き寄せた。
「まあ、ここに座りなさい」
崇は半ば無理やり隣に座らされた。泥の覆い地面で、崇は閉口した。
「おじさんはね、カンガルーになりたいと思って、長いこと旅をしてきたんだ」
男のこの言葉に、崇は眉をひそめた。何を言っているんだ?
「カンガルーになって、全てをおなかのポケットに入れてしまいたいと、そう思ってたんだ」
崇は立ち上がった。この男はブラフマンじゃない。ただの気の毒な狂人だ。男はニコニコと微笑みながら崇の手を離さない。崇は不安を覚え、早く逃げ出そうと思って構えていた。しかし握力が強く、解くことができそうになかった。
「そしたら、穴が開いたよ、おなかに」
男がコートの前を開いた。カンガルーそっくりの丸い穴がたるんだように開いていた。崇は思わず見入った。中に、何かがある。ビー玉だ。ビー玉が無数にたまっている。崇は全身が粟立つのを覚えた。嫌悪のあまりに逃げようとした。しかし、逃げられなかった。
突然ぐう、ぐう、という獣の声が聞こえる。崇は思わず振り向いた。公園のどこかで、苦しげな獣の声がする。
「ああ、人間がまぐわいを始めたね」
「まぐわい? まぐわいって何? 違うよ、これは獣だよ。獣の声だよ。きっと野犬だ」
崇は怯えながらそう答えた。怖い。公園になど来るんじゃなかった。
「人間は獣だよ。まぐわいをすると顕著になるけれど、獣だ。君はよく生きてられるねえ。この獣だらけの社会に」
男は微笑を絶やさずにそう言った。崇はわけが分からなかったが、女の高い声が聞こえてようやくこれが何なのか分かった。ただ話で聞いていたものと、実際目にするものは違う。想像していたときとは違って、崇は勃起しなかった。崇はこの醜い声が本体ごと消えてしまえば良いのに、と思った。気持ちが悪い。獣め。
「それで、君は元の宇宙へ帰るかい?」
崇はハッとした。男はコートの前をはだけたまま、崇を見つめていた。腹部の肉製のポケットは空洞になり、広がっていた。
「この中には全ての宇宙が詰まっている。入るとぼうやは元の宇宙に戻れるよ。どうだい、戻るかい」
崇はうろたえた。これは、本物だろうか? いや、本物だ。きっと崇を助けてくれるのだ。そうに違いない。それに他に手立てはない。
崇はうなずいた。そして男に近づいた。この汚い宇宙から戻れるなら、あのいくらかましな元の宇宙に帰れるなら、この奇妙な穴に入ってもいい。
崇は男の腹部に触れた。ぶよぶよした、力を失った皮膚だった。崇は穴に手を突っ込んだ。そして横に広げて頭を入れた。足で地面を蹴った。崇は思い切り、男の穴の中へ飛び込んだ。そして、腹部は大きく膨らむと、しばらくして崇を消化したかのように小さく収縮していった。
ブラフマンはため息をついた。
「あら、あの子、元に戻ったのね」
そこに女が白猫を抱いてやって来た。田中も後をついてきていた。ブラフマンは悲しそうにしくしくと泣いた。
「どうして泣くのよ、ブラフマンさん」
「可哀想に、可哀想に」
ブラフマンは顔を覆っておいおいと泣いた。
「仕方ないですよ、仕方ない」
田中がブラフマンを慰めた。女はかまわず猫をあやしていた。今度の猫は日本猫らしく、大きな頭をしていた。
「この宇宙はあのビルがない宇宙。白猫の毛穴を利用している人たちには困ったものでしょうね」
三人は、薄暗く生ぬるい公園の空気の中で、人間のまぐわいの音を聴きながら静かに語り合った。
《了》