第二話 レジェンドになれなかった男
第1章 荷物は座標にいる
アッシュシティ──それは腐敗した都市の最後の継ぎ目。
誰もが何かを失くし、何も知らぬふりで生き延びる場所。
夜。空気は腐りかけたオゾンの匂いに満ちていた。
傘のように張り出した路地の天蓋に、古いネオンサインがにじんでいる。
スラム街の奥、沈んだ色のバーの奥に、男はいた。
カウンターの端、照明の死角。
焼けたジャケット、重たそうな義手。
背を丸めず座っているあたり、現役の匂いがまだ残っていた。
「荷物がある」
フィクサーがテーブルの向こうで言った。
銀髪を三つ編みに束ねた体格のいい髭面の男。
「座標はここだ」
男の前にスティックデバイスが転がる。
反射的に右手を伸ばしかけて、左義手で拾い直す。
古い義手だ。油の匂いと焦げ跡が染み込んでいる。
「報酬は?」
「五十万、前払いなし。成功時即時送金。……対象は“無傷で回収”が条件だ」
「中身は?」
フィクサーは微笑んだ。
「訊かないのが、お前のルールだったろ?」
氷の溶ける音が、グラスの底で小さく鳴った。
「……場所は?」
「第九セクター、ヴァイパー通りの倉庫群。二十四時間以内。遅れたら無効だ」
「了解」
男は立ち上がった。
椅子が床を擦る音に、バーの奥で何人かが一瞬だけ視線を寄越した。
だが誰も名前を呼ばなかった。
──名前を捨てて久しい。
傭兵時代のコードすら、今ではデータベースから消されている。
彼は、ただ“回収屋”と呼ばれていた。
夜のスラムを歩きながら、男はデバイスを確認する。
小さな赤い点が、座標を示して点滅していた。
「……どうせ、また面倒なゴミだ」
誰に聞かせるでもなく、つぶやいた声が、
鉄屑まみれのアスファルトに沈んでいく。
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第2章「座標の倉庫」
午後四時。アッシュシティ南端の旧輸送区画。
“例の座標”は、使われなくなった配送倉庫の裏手だった。
"回収屋" ヤナギダは無言で鉄の扉を押し開けた。油の抜けた蝶番がかすかに悲鳴を上げる。
誰もいないはずの空間に、彼の足音だけが反響した。
薄暗い。瓦礫と埃、剥き出しのケーブル。
陽が射さないのに、空気だけはぬるく湿っていた。
「……荷物、か」
彼は口の端だけで呟いた。
依頼主からの情報は座標だけ。何を回収するかは知らされていない。
不意に、視界の端が動いた。
「……」
それは隅の柱の陰。
埃の積もった床に、小さな影がうずくまっていた。
人だ。
それも──子ども。いや、少女。
痩せて、汚れて、視線だけが異様に澄んでいる。
ヤナギダをまっすぐ見ていた。言葉はない。ただ、その瞳だけが問いかけていた。
ヤナギダはしばらく黙ったまま立ち尽くしていた。
戦場で見た、あのときと同じ目だ。
生きていることに理由がなくなった者の、静かな目。
「……お前か」
誰に言うでもなく、そう呟くと、ポケットから通信端末を取り出し、依頼元に接続を試みた。
だが──応答はなかった。
代わりに、画面に短い文字列だけが表示された。
「荷物は現場で回収される。報酬は後日送金。」
「クソが……」
言葉にならない苛立ちを吐き出すと、ヤナギダはしゃがみ込んで少女と目線を合わせた。
「立てるか」
少女は答えなかった。だが、ゆっくりと立ち上がった。
膝が震えていたが、倒れなかった。
ヤナギダは何も言わず、彼女の前に立ち、歩き出す。
少女は一歩遅れてその背中を追った。
声はなかった。だが、足音が、確かに“ついてきていた”。
倉庫の扉が閉じ、街のノイズが二人を飲み込んだ。
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第3章「無言の帰路」
倉庫を出たヤナギダは、黙って歩き続けた。
少女は二歩後ろをついてくる。
逃げるでもなく、縋るでもなく、ただ歩幅を合わせていた。
アッシュシティの南端は、再開発の計画だけが先行し、整備も放棄された区域だ。
剥き出しの下水路、沈んだアスファルト、壁のひび割れに絡む蔦が、夕暮れの光に鈍く濡れていた。
「……妙な仕事だったな」
ヤナギダは独り言のように漏らした。
後ろからは返事も音もない。
彼は足を止め、後ろを振り返る。
少女はじっと立っていた。
視線は合わない。ただ、足だけが彼の動きに従って止まっていた。
「お前、名前は?」
──沈黙。
「……まあ、いい」
もう一度、歩き出す。
交差点の先には、モノレールの高架が崩れかけたまま放置されていた。
ヤナギダはそこをくぐり抜け、旧市街に入る。
この辺りはまだ“暮らしの残骸”がある。
取り壊された集合住宅の隙間に、掘っ立て小屋と再利用資材の壁が並び、かろうじて“街”を形成していた。
ヤナギダの隠れ家は、その裏手。
崩れかけたパーキングタワーの地下。かつて警備ドローンの拠点だった場所を改造した小部屋だ。
入口のコードを手打ちで入力し、ドアを開ける。
「入れ。別に罠じゃない」
少女は何も言わず、ヤナギダの後に続いた。
部屋には最低限のものしかない。
マットレス、壊れた冷蔵庫、武器のラック──
そして、端末一つ。
ヤナギダは棚からレトルト食糧を取り出し、湯を沸かした。
食器は一つだけ。スプーンを二本にして、カップ麺の容器に入れた粥を差し出す。
「食え」
少女はためらいながら、それを受け取った。
スプーンを持つ手が細く震えている。
最初の一口まで、ずいぶん時間がかかった。
やがて、ほんの少しだけ肩が落ちた。
それが安堵か、空腹が満たされたものかは分からない。
「……しゃべれねぇのか」
ヤナギダの問いに、少女は首を横に振った。
ほんの、わずかに。
「なら、しゃべらなくていい」
ヤナギダはそれきり黙り、端末をいじり始めた。
報酬が振り込まれているかの確認だ。
だが、アカウントには変化がなかった。
──そのとき、静かだった部屋に、微かな音がした。
カップを持つ少女の手から、粥の入った容器が滑り落ち、床に転がった。
彼女の顔が、青ざめている。
「……おい?」
少女の視線は、部屋の一角──
武器ラックの隣、壁のデジタルフォトフレームに向いていた。
そこには、かつての戦場の一枚──
ヤナギダが仲間たちと並ぶ写真。
その中の一人に、少女は気づいたのだ。
彼女が、知っている顔を。
## 第4章「痕跡」
夜は静かだった。
都市の騒音を吸い込んだコンクリートが、深夜の熱をまだ残している。
天井のファンは回っているが、部屋の空気は妙に重たかった。
ヤナギダはベッドに背を預け、薄暗い蛍光灯のもとでぼんやりと天井を眺めていた。
机の上には、例の写真が裏返しに置かれている。
それでも、あの子──あの少女は、その背中を向けたまま、じっと立ち尽くしていた。
「……なあ」
声をかけようとしたが、喉に引っかかった。
少女は小さな背中を丸めたまま、動かない。
気配だけが、刺すように伝わってくる。
写真の中にいた軍服の男。
あの時、彼女の顔が強ばったのをヤナギダは見逃していなかった。
だが、どう反応していいか分からなかった。
自分の中にも、あの写真は波紋を投げかけていた。
──あの任務で死んだはずの奴に、似すぎていた。
記憶の底に押し込めた過去が、静かに軋む。
だがそれを言葉にすれば、何かが壊れる気がしてならなかった。
「……お前、どこで育った?」
やっとのことで、それだけを訊いた。
少女は答えない。
ただ、写真に視線を落としたまま、
何かを思い出すように、あるいは──戦っているように、
その場に立ち尽くしていた。
やがて彼女は、そっと写真に指を伸ばした。
震えていた。
「知ってる人がいるのか?」
また沈黙。
──知らないわけじゃない。
だが、言いたくない。
ヤナギダはそれ以上追及しなかった。
立ち上がり、飲み残した水のボトルを手に取る。
「……もう寝ろ。明日は早い」
少女は小さくうなずき、写真をそっと伏せた。
その指先が、まるで何かを封じるように見えたのは──
ただの錯覚だったのか。
ヤナギダはそう思いながら、部屋の明かりを落とした。
その夜、彼女はずっと眠れなかった。
そしてヤナギダもまた、夢を見なかった。
第5章「割られた鏡」
夜の街は、静かすぎた。
ネオンが消えた裏通りは、まるで息を潜めているようだった。ドローンの羽音すら聞こえない。風は吹かず、看板も揺れない。
ヤナギダは煙草に火を点けずに唇に咥えたまま、無言で歩いていた。
──報告するべきだ。
脳裏で、いつもの義務感が言った。長年染み付いた判断基準。報酬、契約、信頼、手順。いつだって、その通りにやってきた。
でも、少女の目がちらついた。
あの無言の視線。警戒でも、恐怖でも、敵意でもない。
もっと深く、言葉にできない何かが、そこにはあった。
「……クソが」
ヤナギダは煙草を指でへし折った。
店のシャッターに背を預けて立ち止まる。
時間を潰すふりをしながら、彼はポケットの中のメモリチップを指で転がしていた。少女の痕跡。名前も年齢も分からないまま、記録には映像だけが残っている。
彼女はどうして、あの場所にいたのか。
なぜあの時間に。
なぜ、黙って彼の顔を見ていたのか。
ヤナギダは小さく吐息を漏らし、通りの先にある小さな建物へ向かって歩き出した。そこは、かつての同業者──退役傭兵たちが細々と暮らしているシェルターだった。
扉の前で立ち止まり、ノックを三回。
しばらくして、無骨な電子ロックが解錠音を鳴らした。
「……お前か、ヤナギダ」
現れたのは、片腕を失った男──キシダだった。
「ひとつ、聞きたいことがある」
ヤナギダはそう言って、懐から少女の映ったホロを差し出した。
キシダの表情がわずかに変わる。
「……その顔、どこで拾った」
「捨てられてたんだよ。瓦礫の中でな」
「……まさか、まだ生きてるのか」
「さあな。ただ、動いてた。俺を見た。何も言わずにな」
キシダは沈黙したまま、煙草に火をつけた。
火の点いた煙草をヤナギダの折れた煙草のかわりに差し出す。
「名前は知らねえ。ただ……俺のガキに似てたんだよ」
ヤナギダはそれを受け取り、短く吸い込む。
「──なら、あんたも報告しなかったんだな」
二人の間に、過去が沈殿する。
やがてキシダは小さく頷き、部屋の奥から古いファイルを持ってきた。
「もう使い道はねえ。好きにしろ」
ファイルには、いくつかの地名とコード。
そして手書きで一言──
『回収対象、失敗。接触リスク高。要注意』
ヤナギダはそれを黙って見つめた。
「……壊れてるのは、俺か、世界か」
呟いたその声は、誰にも届かないほど低かった。
第6章「雨の刻印」
雨が降っていた。アッシュシティにしては珍しく、重い粒が地面を叩くような音を立てている。細い通路に積もった埃と煤が、湿気でどろどろに溶け出し、ヤナギダの足元を黒く染めていた。
キシダの言葉が、頭の奥でくぐもったように響いている。
──お前は知らないほうがいい。
だが知ってしまった。
少女の顔。あの目。あの震え。
あれが“実験体”だというのか。
そうでなければ、なぜ……なぜあの子が消されかける?
ヤナギダは路地の奥で足を止めた。
人の通らぬ廃道に、ぽつんと浮かぶ古びた端末。
かつて偽造IDや逃亡経路の情報が売買された、いわゆる“道端のオラクル”。今ではもう使い物にならないと思われていたそれに、ヤナギダは無造作にアクセスコードを打ち込んだ。
……動いた。
緑色のホログラムがふわりと浮かび、過去のアクセス履歴が滲み出す。
ID《Ypsilon-3》の痕跡が、薄く、しかし確かに残っていた。
「……逃げ回ってるのか、それとも……」
そのときだった。
端末の表示が突然、強制的にシャットダウンされ、警告の赤い文字が画面いっぱいに広がる。
──アクセス権限違反
──追跡信号検出
「クソッ」
ヤナギダは一歩引き下がると、周囲の物陰に素早く身を隠した。数秒後、上空から小型の監視ドローンが光を走らせながら通過していく。
アヤはまだ生きている。
だが、それを知った瞬間から、ヤナギダは“巻き込まれた”のだ。
昔なら、即座に任務を放棄して姿を消していただろう。
だが今は──
彼はもう一度、ポケットの中の古いミリタリータグを握りしめた。
その錆びた金属に刻まれた名前を、少女は知らない。
だが、知ってほしいと、ほんの少しだけ思った。
「今度こそ、やりきれ」
呟いたその声を、雨粒がすぐにさらっていった。
第7章「帳の中で」
鉄製の鍋に火を落とすと、密閉された狭い仮設空間にスープの匂いが満ちた。合成ミソと乾燥野菜、それにプロテイン由来のダイスミート──味気ないはずの構成が、不思議と心に沁みる。ヤナギダは皿をふたつ並べ、ひとつを少女の前に置いた。
彼女は警戒しながらも黙って受け取り、スプーンでそっとすくって口に運ぶ。
それが何日ぶりかの温かい食事なのか、あるいは──記憶にある最後の食事すら思い出せないのか。
スプーンが、皿の底を軽く叩く音だけが空間に響く。
湯気の香りに混じって、ほんの少しだけ“安心”の気配が漂い始めた。
少女は口を開けかけて、また閉じた。視線は皿の底。指はわずかに震えていた。
そして、ほんの一瞬、肩の力が抜けたとき──
「……アヤ」
掠れるような声だった。言葉というより、思わずこぼれた反応のような響き。
ヤナギダはスープをすくう手を止めて、横目で彼女を見た。
「……あ?」
「名前。アヤ……たぶん」
彼女はすぐにまたスプーンを口に運んだ。まるで、それ以上は話すなという沈黙を引き連れて。
「……ああ」
ヤナギダもそれ以上は言わなかった。
名前を聞けた。それだけで十分だった。
仮設空間の外では、夜が降りていた。スラムの縁で、サイレンが遠く響く。
けれど、ふたりの間には、わずかな静けさがあった。ぬるいスープと、息の通う音。誰にも邪魔されない、ほんの束の間の帳──その中で、名前だけがぽつんと、確かに存在した。
第8章「報酬と予兆」
仮設空間に設置された端末が、静かに明滅していた。警戒灯ではない、連絡のインジケーター。
ヤナギダは皿を片付けながら、ちらりと目をやった。アヤ──いや、少女は、端末を避けるように背を向けて、ブランケットに身を沈めていた。
『コード名:ヤナギダ。案件ログ:#5743。報酬:標準通貨換算で18,000UC。』
表示された金額は、アッシュシティのスラム住人が十年働いても稼げない額だ。
『受領方法:指定の地下口座に送金。次指示は72時間以内に配信予定。』
画面の右下には、
──"KOSMOS / SIGMA"──
という送信元コード。
フィクサーの名ではない。組織名だ。KOSMOS──それだけで、この案件がただの掃除仕事ではないとわかる。
ヤナギダは頷き、端末を閉じた。
金は入る。だが、次が来る──それも、すぐに。
彼は仮設スペースの外に出て、湿った空気を胸いっぱいに吸い込んだ。雨は止んでいたが、空は曇ったまま。街灯が霧に滲み、ネオンの粒子が流れていく。
もう、退けない。
そして、あの少女を放っておける理由も──もう、どこにもなかった。
ヤナギダは静かに振り返り、仮設空間の奥に横たわる影を見つめた。
「……アヤ」
小さな肩が、わずかに動いた。
「朝には出る。ついてきたきゃ、それまでに決めろ」
返事はなかった。
けれど、彼女がブランケットの中で、ほんの少しだけ身体を起こしたのを、ヤナギダは見逃さなかった。
第9章「選択」
朝。霧が薄れ、アッシュシティの輪郭が露わになっていく。
ヤナギダは仮設空間の壁にもたれ、ブーツの底で湿った路面を確かめていた。空気に油の匂い。都市が目覚める前の、まだ静かな時間。
背中のコンテナには、最低限の装備と燃料セル、数日分の食糧。あの少女──アヤの分も、念のために詰めてはある。
だが、彼は振り返らない。
彼女が来るか来ないか、それを確認するために、振り返ることだけはしたくなかった。
──踏み出した。左足。
それで終わりだと思った。
しかし、背後で小さな足音。
一、二、三。
「……ねえ」
かすれた声。
ヤナギダは歩みを止めず、ただ言葉だけを返す。
「名前を訊いた覚えはない」
「言ってない」
「そうか」
また一歩、足を前に出す。
「でも……行き先くらい、教えてよ」
ヤナギダは短く息を吐いた。
「マグ・ノード14。中央融解炉跡地だ。クライアントの転送指示だ」
「……危ない?」
「安全な仕事なんて、アッシュシティにはない」
彼女の足音は止まらない。
ヤナギダは何も言わず、ただ歩いた。
足音が、ひとつ後ろで重なる。
都市のざわめきが、ゆっくりと上昇してくる。
静かに始まった“同行”は、たったそれだけのことで成立した。
ヤナギダはその事実だけを受け入れ、都市の核心へ向かって歩き続けた。
第10章「街の呼吸」
午前十一時。
マグ・ノード14。
この都市の中心核であり、あらゆる通信、交通、物流が螺旋のように集中する場所。
灰色の塔群が空を突き刺し、空調と排熱で霞んだ空が、昼でも黄昏のような光を落としていた。
ヤナギダはターミナルゲートで停止した。
顔認証ではなく、静脈照合──軍の特殊部隊出身者向けの極秘プロトコルが使われていた。
「アクセス、承認。コールサイン“ブルー・ゴースト”、任務コード登録完了」
首筋に小さな針が刺さるような感覚。認証完了の刺激だ。
「やれやれ」
どこか懐かしむように目を細め、ヤナギダは一歩を踏み出す。
彼の背後、数歩遅れて、アヤがついてきた。
無言。
しかしその歩幅はぴたりと揃っていた。
「名前を訊いた覚えはない」
ぽつりと呟く。
アヤは答えない。ただ、足取りを緩めることも、逸らすこともなく、そのまま前を見ていた。
──どうやら、それでよかったらしい。
都市の心臓部。
一歩ごとに空気が重くなる。
誰が味方で、誰が敵か──そんな線引きすら曖昧になる、この街の核で、
彼らは“何か”を回収する。
報酬と、裏切りと、選択と。
アッシュシティが、彼らを試す時が来る。
第11章:縫合線
都市の中心、マグ・ノード14の足元で、空気は嘘のように清浄だった。ヤナギダはあまりの静寂に、何かを踏みしめる足音すら控えてしまいそうだった。
ガラスとポリマーカーボンの複合で構成された高層の壁面が、ぬるりと曇った陽光を反射する。色彩のない白が並び、建物たちは自己主張を拒むかのように沈黙していた。
アヤが一歩、ヤナギダの横に並んだ。
「……音、しないね」
その呟きに、ヤナギダは返事をしなかった。代わりに歩を止め、指先で壁に触れた。
つるりと滑る無機質な肌。まるで、巨大な生き物の皮膚をなぞっているような気分だった。
「ここから先だ」
エントランスもなく、案内もなく、ただ目印にしか見えないプレートが一枚、道の脇に突き刺さっていた。
『施設管理区画:登録者以外立入禁止』
カードキーを差し込むと、無音でシャッターが引き上がった。そこには、もう空調の風すら感じられなかった。
下へ向かう階段。明かりはあるが、自然光は届かない。規則正しく配置されたLEDパネルの照明が、白い死体のような色で二人を照らす。
「気をつけろ。ここから先は──」
そう言いかけたところで、ヤナギダの後ろでシャッターが音もなく降りた。
アヤの肩がわずかに震える。だが彼女は泣き声を漏らすこともなく、前を見ていた。
ヤナギダは少しだけ顎を引いた。
(本当の意味で、こいつは“慣れて”きている)
感情を殺す術を、学び始めている。それが、この街に生きるということだ。
地下通路の最奥には、古びたセキュリティボックスがあった。
「ここが指定地点だ」
アクセスコードを入力する。
──エラー。
もう一度。
──アクセス拒否:上書き権限不一致。
「……くそ」
このパターンはまずい。依頼の発注者が、情報を握りつぶしている可能性がある。
背後で、アヤが何かに気づいたように顔を上げた。
「オジサン……これ、見て」
アヤの指差す先、壁のパネルが一部、変色している。灰色だったはずのパネルの隙間から、うっすらと金属の断面がのぞいていた。
「こじ開けられてる……」
誰かがここに先回りしていた。もしくは、回収対象を“あえて”残していった。
ヤナギダは手袋越しにそのパネルをはぎ取る。
そこにあったのは──
無数のケーブルに繋がれ、無言で立ち尽くす、少女の義体だった。
そして、その義体の胸元に、小さなホログラフ表示が灯っていた。
『AYA.02──起動未承認』
第12章:再起動(修正版)
ヤナギダの目がかすんでいた。痛みではない。熱だ。肩口から、じわじわと広がる灼熱が神経を侵食する。撃たれた。
「……ちっ」
不意打ちだった。振り返る暇もなかった。
アヤの悲鳴が耳の奥でこだまする。意識が遠のく。血の匂い。油のような機械の匂い。それでも、ヤナギダはアヤの手を掴んで立ち上がった。
「走れ……アヤ……」
意識の暗がりの中、うっすらとした視界に見慣れないシルエットが揺れる。人影。だがそれは──
黒の義体。
それが立っていた。
滑らかで人工的な外殻、アヤに酷似したシルエット。目の奥に青白い光が灯っている。
「おい……なんだそれは……」
ヤナギダは問いかけた。だが返答はない。
少女の形をした義体──AYA.02──が、無言で歩み寄ってくる。
アヤが怯えたように振り返った。
「わたし……あれ……」
自分を指差し、言葉を詰まらせた。
「わたしの……コピー……?」
AYA.02は何も言わず、立ち止まる。
空気が張り詰めた。銃声が遠くから響いた。誰かが近づいてくる音。
「くそっ……ここじゃまずい」
ヤナギダは肩を押さえながら、アヤの手を強く引いた。
「来い! 後で確かめりゃいい……今は逃げるぞ」
AYA.02が、その場から一歩も動かずに彼らを見送った。
まるで、何かを計算するように、冷静に。
その視線の奥に、わずかな感情があったかもしれない──だがそれを読み取る余裕など、ヤナギダにもアヤにもなかった。
第13章「低層区画A-17」
アヤは何も言わなかった。あの白い光の中から戻ってきて以来、一言も口をきいていない。
ヤナギダは左腕を押さえたまま、湿った地下通路を進んでいた。肩口のジャケットは裂け、血で重たくなっている。
「オジサン、大丈夫?」
やっとのことでアヤが声をかけた。震えるその声に、ヤナギダはわずかに頷いた。
「かすり傷だ。問題ない」
そう言いながらも、額には脂汗。奴ら──あの金属のような脚で歩く機械兵──の攻撃は予想を超えていた。
「……何だったの、さっきのひと」
アヤが問うたのは、あの白い光の中で姿を現した少女に似た存在──AYA.02だ。
「さあな」
ヤナギダは短く返した。正確には、わからないというより“言葉にできない”というのが本音だった。
ヤナギダの視界には、今でもその残像が焼き付いている。
白磁のような肌。仄かに発光する神経インターフェース。
──そして、アヤと酷似した瞳。
あれは記憶か、幻覚か、それとも──。
「……アヤ」
「なに?」
「お前……何か思い出したか」
アヤはゆっくり首を横に振った。
「でも……心が、ざわざわする。あの子を見てから……」
言いかけてアヤは口を閉じた。言葉にしてしまえば、何かが壊れそうで。
ヤナギダは歩を止め、地下通路の壁にもたれた。
「休憩だ。五分だけ」
言いながら、義手の指で残った弾薬を確認する。
「……なあ、オジサン」
「なんだ」
「私……人間なのかな」
その問いに、ヤナギダはすぐには答えられなかった。だが、すぐに見上げ、静かに言った。
「今こうして生きていて、寒くて、怖くて、腹が減ってるなら──人間とそう変わらん」
アヤは小さく笑った。それは、ここ数日で初めての本当の笑顔だった。
「そっか」
五分が経った。
「立てるか」
「うん」
ふたりは再び歩き出した。
低層区画A-17。ここはアッシュシティの外縁、立ち入り制限区域。
人が住んでいた形跡はあるが、今は見る影もない。コンクリの割れ目から、細い根が伸びている。
「もうすぐ目的地だ」
ヤナギダが呟いた。
この先にあるのは、かつて「旧王の礼拝所」と呼ばれた空間。
誰も寄り付かないその場所に、回収対象は眠っているはずだった。
第14章「逃走と引き換えに」
それは一瞬の判断だった。
ヤナギダはアヤの小さな肩を引き寄せ、鉄屑と煙にまみれた通路を駆け抜けた。
天井をかすめるように飛来する火花と断線した電線。冷却水が噴き出し、霧のように視界を遮る。
「まだ、追ってきてるか?」
息を詰めながら問うと、アヤは小さくうなずいた。
背後から聞こえる金属の擦れるような、いやに湿った足音。
それは、ただの歩行音ではない。静かに、だが確実にこちらを捉えている者の足取りだった。
「分かってる……このままじゃ──」
ヤナギダは思い出す。
瓦礫の下で倒れていた、あの男の姿。
すでに息は絶えていたが、その手には情報チップが握られていた。
(くそっ、あのとき、あの部屋で──)
考えるよりも早く、体が動いていた。
急な分岐路で壁を蹴り、左手へと曲がる。
通路の先には……光。
セキュリティドア。
開いている。
「アヤ、走れ!!」
力の限り叫んだ。
少女は振り返らず、真っすぐに走った。
だがその瞬間、背後で爆音が響く。
ヤナギダの背中に衝撃が走った。
気づけば、床に伏していた。
左腕が……動かない。
視界が歪む。
「オジサンっ!!」
アヤの叫びが遠くに聞こえた。
必死に這いながら、手を伸ばす。
彼女を、逃がさなければ。
それが、あの日、死なせてしまった娘の影を追うかのような、
遅すぎた贖罪だった。
彼の手が届くより先に、ドアは自動的に閉じ始める。
「アヤ……行け……」
少女は涙を滲ませた目で、ヤナギダを見つめていた。
だが、そのまま立ち尽くしているわけではなかった。
背負っていた端末を開き、何かを打ち込む。
「ダメ……あたしが開ける、オジサンも一緒に行くの!!」
彼女の声に、ヤナギダの意識が遠のく──
しかし。
次の瞬間、ドアが再び開く音がした。
そして、ヤナギダは光の中に引き込まれた。
第15章「血の残響」
銃声の余韻がまだ空気の中に残っている。
金属の臭い。焼け焦げたプラスチックの匂い。ヤナギダの腹部には深い裂傷。
その隣に、少女が崩れ落ちるように座り込み、震える指先で男の手を握っていた。
「……オジサン、目を開けて。私、まだ名前、ちゃんと言ってなかったでしょ……」
ヤナギダの口角が、わずかに持ち上がった気がした。
だがすぐに意識は深く沈み込んでいく――――
施設の医務ブロックに、少女が文字通り飛び込んできたのは、その日の夜だった。
「お願い!この人を助けて!!お願いだから!!」
警備員が制止する間もなく、少女は担架に血塗れの男を乗せて引きずってきたという。
後に彼を診た医師が回想した。
「……それはそれは、すごい剣幕でね。大人でもあんなふうに叫ぶ人は、なかなかいない」
男は瀕死だった。内臓の一部が破裂し、肋骨も数本折れていた。
医療チームが緊急対応に移る最中、手術台に乗せられた彼の身体から、異常な反応が検出された。
「トレーサーチップが……沈黙してる?」
モニターを覗き込んだ看護師が眉をしかめる。
「フリーズでも、ジャミングでもない。完全に…焼け切れてる……」
一方、その情報はすぐにフィクサーの元へも届いた。
「EMPか何かで吹っ飛んだらしい。回収不能。」
モニターに映る人工衛星の追跡ログには、ヤナギダの行動記録が最後に残された地点で途絶えていた。
「座標が更新されねぇなら、死んだも同然ってことだな。」
「裏切ったか?」
「どっちでもいい。……もう使い物にならねぇ身体だ。」
フィクサーは煙草に火を点け、書類に一言だけ書き加える。
――[終了処理済] ヤナギダ・ソウイチ。
それから一週間後。
郊外のリカバリー施設。
病室のベッドに、年老いたように痩せた男が静かに横たわっている。
傍らの椅子には少女。
「オジサン、今日のごはん、いつもよりおいしいって……栄養士さんが言ってたよ」
彼女の声に、かすかに男のまぶたが動いた。
そして、口元が微かに、微かに緩んだようにも見えた。
風がカーテンを揺らしていた。
街の喧騒から遠く離れた場所で、彼らだけの時間が、静かに流れていた。