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灰に眠る者たち  作者: 森下圭
第2話 レジェンドになれなかった男
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第二話 レジェンドになれなかった男

第1章 荷物は座標にいる

アッシュシティ──それは腐敗した都市の最後の継ぎ目。

誰もが何かを失くし、何も知らぬふりで生き延びる場所。


夜。空気は腐りかけたオゾンの匂いに満ちていた。

傘のように張り出した路地の天蓋に、古いネオンサインがにじんでいる。

スラム街の奥、沈んだ色のバーの奥に、男はいた。


カウンターの端、照明の死角。

焼けたジャケット、重たそうな義手。

背を丸めず座っているあたり、現役の匂いがまだ残っていた。


「荷物がある」


フィクサーがテーブルの向こうで言った。

銀髪を三つ編みに束ねた体格のいい髭面の男。


「座標はここだ」


男の前にスティックデバイスが転がる。

反射的に右手を伸ばしかけて、左義手で拾い直す。

古い義手だ。油の匂いと焦げ跡が染み込んでいる。


「報酬は?」


「五十万、前払いなし。成功時即時送金。……対象は“無傷で回収”が条件だ」


「中身は?」


フィクサーは微笑んだ。

「訊かないのが、お前のルールだったろ?」


氷の溶ける音が、グラスの底で小さく鳴った。


「……場所は?」


「第九セクター、ヴァイパー通りの倉庫群。二十四時間以内。遅れたら無効だ」


「了解」


男は立ち上がった。

椅子が床を擦る音に、バーの奥で何人かが一瞬だけ視線を寄越した。

だが誰も名前を呼ばなかった。


──名前を捨てて久しい。

傭兵時代のコードすら、今ではデータベースから消されている。

彼は、ただ“回収屋”と呼ばれていた。


夜のスラムを歩きながら、男はデバイスを確認する。

小さな赤い点が、座標を示して点滅していた。


「……どうせ、また面倒なゴミだ」


誰に聞かせるでもなく、つぶやいた声が、

鉄屑まみれのアスファルトに沈んでいく。


---


第2章「座標の倉庫」

午後四時。アッシュシティ南端の旧輸送区画。

“例の座標”は、使われなくなった配送倉庫の裏手だった。


"回収屋" ヤナギダは無言で鉄の扉を押し開けた。油の抜けた蝶番がかすかに悲鳴を上げる。

誰もいないはずの空間に、彼の足音だけが反響した。


薄暗い。瓦礫と埃、剥き出しのケーブル。

陽が射さないのに、空気だけはぬるく湿っていた。


「……荷物、か」


彼は口の端だけで呟いた。

依頼主からの情報は座標だけ。何を回収するかは知らされていない。


不意に、視界の端が動いた。


「……」


それは隅の柱の陰。

埃の積もった床に、小さな影がうずくまっていた。


人だ。

それも──子ども。いや、少女。


痩せて、汚れて、視線だけが異様に澄んでいる。

ヤナギダをまっすぐ見ていた。言葉はない。ただ、その瞳だけが問いかけていた。


ヤナギダはしばらく黙ったまま立ち尽くしていた。


戦場で見た、あのときと同じ目だ。

生きていることに理由がなくなった者の、静かな目。


「……お前か」


誰に言うでもなく、そう呟くと、ポケットから通信端末を取り出し、依頼元に接続を試みた。

だが──応答はなかった。


代わりに、画面に短い文字列だけが表示された。


「荷物は現場で回収される。報酬は後日送金。」


「クソが……」


言葉にならない苛立ちを吐き出すと、ヤナギダはしゃがみ込んで少女と目線を合わせた。


「立てるか」


少女は答えなかった。だが、ゆっくりと立ち上がった。

膝が震えていたが、倒れなかった。


ヤナギダは何も言わず、彼女の前に立ち、歩き出す。


少女は一歩遅れてその背中を追った。

声はなかった。だが、足音が、確かに“ついてきていた”。


倉庫の扉が閉じ、街のノイズが二人を飲み込んだ。


---


第3章「無言の帰路」


倉庫を出たヤナギダは、黙って歩き続けた。


少女は二歩後ろをついてくる。

逃げるでもなく、縋るでもなく、ただ歩幅を合わせていた。


アッシュシティの南端は、再開発の計画だけが先行し、整備も放棄された区域だ。

剥き出しの下水路、沈んだアスファルト、壁のひび割れに絡む蔦が、夕暮れの光に鈍く濡れていた。


「……妙な仕事だったな」


ヤナギダは独り言のように漏らした。

後ろからは返事も音もない。


彼は足を止め、後ろを振り返る。


少女はじっと立っていた。

視線は合わない。ただ、足だけが彼の動きに従って止まっていた。


「お前、名前は?」


──沈黙。


「……まあ、いい」


もう一度、歩き出す。

交差点の先には、モノレールの高架が崩れかけたまま放置されていた。

ヤナギダはそこをくぐり抜け、旧市街に入る。


この辺りはまだ“暮らしの残骸”がある。

取り壊された集合住宅の隙間に、掘っ立て小屋と再利用資材の壁が並び、かろうじて“街”を形成していた。


ヤナギダの隠れ家は、その裏手。

崩れかけたパーキングタワーの地下。かつて警備ドローンの拠点だった場所を改造した小部屋だ。


入口のコードを手打ちで入力し、ドアを開ける。


「入れ。別に罠じゃない」


少女は何も言わず、ヤナギダの後に続いた。


部屋には最低限のものしかない。

マットレス、壊れた冷蔵庫、武器のラック──

そして、端末一つ。


ヤナギダは棚からレトルト食糧を取り出し、湯を沸かした。

食器は一つだけ。スプーンを二本にして、カップ麺の容器に入れた粥を差し出す。


「食え」


少女はためらいながら、それを受け取った。

スプーンを持つ手が細く震えている。

最初の一口まで、ずいぶん時間がかかった。


やがて、ほんの少しだけ肩が落ちた。

それが安堵か、空腹が満たされたものかは分からない。


「……しゃべれねぇのか」


ヤナギダの問いに、少女は首を横に振った。

ほんの、わずかに。


「なら、しゃべらなくていい」


ヤナギダはそれきり黙り、端末をいじり始めた。

報酬が振り込まれているかの確認だ。

だが、アカウントには変化がなかった。


──そのとき、静かだった部屋に、微かな音がした。


カップを持つ少女の手から、粥の入った容器が滑り落ち、床に転がった。


彼女の顔が、青ざめている。


「……おい?」


少女の視線は、部屋の一角──

武器ラックの隣、壁のデジタルフォトフレームに向いていた。


そこには、かつての戦場の一枚──

ヤナギダが仲間たちと並ぶ写真。


その中の一人に、少女は気づいたのだ。


彼女が、知っている顔を。


## 第4章「痕跡」


夜は静かだった。

都市の騒音を吸い込んだコンクリートが、深夜の熱をまだ残している。

天井のファンは回っているが、部屋の空気は妙に重たかった。


ヤナギダはベッドに背を預け、薄暗い蛍光灯のもとでぼんやりと天井を眺めていた。


机の上には、例の写真が裏返しに置かれている。

それでも、あの子──あの少女は、その背中を向けたまま、じっと立ち尽くしていた。


「……なあ」


声をかけようとしたが、喉に引っかかった。


少女は小さな背中を丸めたまま、動かない。

気配だけが、刺すように伝わってくる。


写真の中にいた軍服の男。

あの時、彼女の顔が強ばったのをヤナギダは見逃していなかった。

だが、どう反応していいか分からなかった。


自分の中にも、あの写真は波紋を投げかけていた。


──あの任務で死んだはずの奴に、似すぎていた。


記憶の底に押し込めた過去が、静かに軋む。

だがそれを言葉にすれば、何かが壊れる気がしてならなかった。


「……お前、どこで育った?」


やっとのことで、それだけを訊いた。


少女は答えない。

ただ、写真に視線を落としたまま、

何かを思い出すように、あるいは──戦っているように、

その場に立ち尽くしていた。


やがて彼女は、そっと写真に指を伸ばした。


震えていた。


「知ってる人がいるのか?」


また沈黙。


──知らないわけじゃない。

だが、言いたくない。


ヤナギダはそれ以上追及しなかった。

立ち上がり、飲み残した水のボトルを手に取る。


「……もう寝ろ。明日は早い」


少女は小さくうなずき、写真をそっと伏せた。

その指先が、まるで何かを封じるように見えたのは──

ただの錯覚だったのか。


ヤナギダはそう思いながら、部屋の明かりを落とした。


その夜、彼女はずっと眠れなかった。

そしてヤナギダもまた、夢を見なかった。



第5章「割られた鏡」


夜の街は、静かすぎた。


ネオンが消えた裏通りは、まるで息を潜めているようだった。ドローンの羽音すら聞こえない。風は吹かず、看板も揺れない。


ヤナギダは煙草に火を点けずに唇に咥えたまま、無言で歩いていた。


──報告するべきだ。


脳裏で、いつもの義務感が言った。長年染み付いた判断基準。報酬、契約、信頼、手順。いつだって、その通りにやってきた。


でも、少女の目がちらついた。


あの無言の視線。警戒でも、恐怖でも、敵意でもない。

もっと深く、言葉にできない何かが、そこにはあった。


「……クソが」


ヤナギダは煙草を指でへし折った。


店のシャッターに背を預けて立ち止まる。


時間を潰すふりをしながら、彼はポケットの中のメモリチップを指で転がしていた。少女の痕跡。名前も年齢も分からないまま、記録には映像だけが残っている。


彼女はどうして、あの場所にいたのか。

なぜあの時間に。

なぜ、黙って彼の顔を見ていたのか。


ヤナギダは小さく吐息を漏らし、通りの先にある小さな建物へ向かって歩き出した。そこは、かつての同業者──退役傭兵たちが細々と暮らしているシェルターだった。


扉の前で立ち止まり、ノックを三回。

しばらくして、無骨な電子ロックが解錠音を鳴らした。


「……お前か、ヤナギダ」


現れたのは、片腕を失った男──キシダだった。


「ひとつ、聞きたいことがある」


ヤナギダはそう言って、懐から少女の映ったホロを差し出した。


キシダの表情がわずかに変わる。


「……その顔、どこで拾った」


「捨てられてたんだよ。瓦礫の中でな」


「……まさか、まだ生きてるのか」


「さあな。ただ、動いてた。俺を見た。何も言わずにな」


キシダは沈黙したまま、煙草に火をつけた。

火の点いた煙草をヤナギダの折れた煙草のかわりに差し出す。


「名前は知らねえ。ただ……俺のガキに似てたんだよ」


ヤナギダはそれを受け取り、短く吸い込む。


「──なら、あんたも報告しなかったんだな」


二人の間に、過去が沈殿する。


やがてキシダは小さく頷き、部屋の奥から古いファイルを持ってきた。


「もう使い道はねえ。好きにしろ」


ファイルには、いくつかの地名とコード。

そして手書きで一言──


『回収対象、失敗。接触リスク高。要注意』


ヤナギダはそれを黙って見つめた。


「……壊れてるのは、俺か、世界か」


呟いたその声は、誰にも届かないほど低かった。



第6章「雨の刻印」


雨が降っていた。アッシュシティにしては珍しく、重い粒が地面を叩くような音を立てている。細い通路に積もった埃と煤が、湿気でどろどろに溶け出し、ヤナギダの足元を黒く染めていた。


キシダの言葉が、頭の奥でくぐもったように響いている。


──お前は知らないほうがいい。


だが知ってしまった。


少女の顔。あの目。あの震え。


あれが“実験体”だというのか。


そうでなければ、なぜ……なぜあの子が消されかける?


ヤナギダは路地の奥で足を止めた。


人の通らぬ廃道に、ぽつんと浮かぶ古びた端末。


かつて偽造IDや逃亡経路の情報が売買された、いわゆる“道端のオラクル”。今ではもう使い物にならないと思われていたそれに、ヤナギダは無造作にアクセスコードを打ち込んだ。


……動いた。


緑色のホログラムがふわりと浮かび、過去のアクセス履歴が滲み出す。


ID《Ypsilon-3》の痕跡が、薄く、しかし確かに残っていた。


「……逃げ回ってるのか、それとも……」


そのときだった。


端末の表示が突然、強制的にシャットダウンされ、警告の赤い文字が画面いっぱいに広がる。


──アクセス権限違反

──追跡信号検出


「クソッ」


ヤナギダは一歩引き下がると、周囲の物陰に素早く身を隠した。数秒後、上空から小型の監視ドローンが光を走らせながら通過していく。


アヤはまだ生きている。


だが、それを知った瞬間から、ヤナギダは“巻き込まれた”のだ。


昔なら、即座に任務を放棄して姿を消していただろう。


だが今は──


彼はもう一度、ポケットの中の古いミリタリータグを握りしめた。


その錆びた金属に刻まれた名前を、少女は知らない。


だが、知ってほしいと、ほんの少しだけ思った。


「今度こそ、やりきれ」


呟いたその声を、雨粒がすぐにさらっていった。





第7章「とばりの中で」


鉄製の鍋に火を落とすと、密閉された狭い仮設空間にスープの匂いが満ちた。合成ミソと乾燥野菜、それにプロテイン由来のダイスミート──味気ないはずの構成が、不思議と心に沁みる。ヤナギダは皿をふたつ並べ、ひとつを少女の前に置いた。


彼女は警戒しながらも黙って受け取り、スプーンでそっとすくって口に運ぶ。


それが何日ぶりかの温かい食事なのか、あるいは──記憶にある最後の食事すら思い出せないのか。


スプーンが、皿の底を軽く叩く音だけが空間に響く。


湯気の香りに混じって、ほんの少しだけ“安心”の気配が漂い始めた。


少女は口を開けかけて、また閉じた。視線は皿の底。指はわずかに震えていた。


そして、ほんの一瞬、肩の力が抜けたとき──


「……アヤ」


掠れるような声だった。言葉というより、思わずこぼれた反応のような響き。


ヤナギダはスープをすくう手を止めて、横目で彼女を見た。


「……あ?」


「名前。アヤ……たぶん」


彼女はすぐにまたスプーンを口に運んだ。まるで、それ以上は話すなという沈黙を引き連れて。


「……ああ」


ヤナギダもそれ以上は言わなかった。


名前を聞けた。それだけで十分だった。


仮設空間の外では、夜が降りていた。スラムの縁で、サイレンが遠く響く。


けれど、ふたりの間には、わずかな静けさがあった。ぬるいスープと、息の通う音。誰にも邪魔されない、ほんの束の間の帳──その中で、名前だけがぽつんと、確かに存在した。




第8章「報酬と予兆」


仮設空間に設置された端末が、静かに明滅していた。警戒灯ではない、連絡のインジケーター。


ヤナギダは皿を片付けながら、ちらりと目をやった。アヤ──いや、少女は、端末を避けるように背を向けて、ブランケットに身を沈めていた。


『コード名:ヤナギダ。案件ログ:#5743。報酬:標準通貨換算で18,000UC。』


表示された金額は、アッシュシティのスラム住人が十年働いても稼げない額だ。


『受領方法:指定の地下口座に送金。次指示は72時間以内に配信予定。』


画面の右下には、


──"KOSMOS / SIGMA"──


という送信元コード。


フィクサーの名ではない。組織名だ。KOSMOS──それだけで、この案件がただの掃除仕事ではないとわかる。


ヤナギダは頷き、端末を閉じた。


金は入る。だが、次が来る──それも、すぐに。


彼は仮設スペースの外に出て、湿った空気を胸いっぱいに吸い込んだ。雨は止んでいたが、空は曇ったまま。街灯が霧に滲み、ネオンの粒子が流れていく。


もう、退けない。


そして、あの少女を放っておける理由も──もう、どこにもなかった。


ヤナギダは静かに振り返り、仮設空間の奥に横たわる影を見つめた。


「……アヤ」


小さな肩が、わずかに動いた。


「朝には出る。ついてきたきゃ、それまでに決めろ」


返事はなかった。


けれど、彼女がブランケットの中で、ほんの少しだけ身体を起こしたのを、ヤナギダは見逃さなかった。




第9章「選択」


朝。霧が薄れ、アッシュシティの輪郭が露わになっていく。


ヤナギダは仮設空間の壁にもたれ、ブーツの底で湿った路面を確かめていた。空気に油の匂い。都市が目覚める前の、まだ静かな時間。


背中のコンテナには、最低限の装備と燃料セル、数日分の食糧。あの少女──アヤの分も、念のために詰めてはある。


だが、彼は振り返らない。


彼女が来るか来ないか、それを確認するために、振り返ることだけはしたくなかった。


──踏み出した。左足。


それで終わりだと思った。


しかし、背後で小さな足音。


一、二、三。


「……ねえ」


かすれた声。


ヤナギダは歩みを止めず、ただ言葉だけを返す。


「名前を訊いた覚えはない」


「言ってない」


「そうか」


また一歩、足を前に出す。


「でも……行き先くらい、教えてよ」


ヤナギダは短く息を吐いた。


「マグ・ノード14。中央融解炉跡地だ。クライアントの転送指示だ」


「……危ない?」


「安全な仕事なんて、アッシュシティにはない」


彼女の足音は止まらない。


ヤナギダは何も言わず、ただ歩いた。


足音が、ひとつ後ろで重なる。


都市のざわめきが、ゆっくりと上昇してくる。


静かに始まった“同行”は、たったそれだけのことで成立した。


ヤナギダはその事実だけを受け入れ、都市の核心へ向かって歩き続けた。



第10章「街の呼吸」


午前十一時。


マグ・ノード14。


この都市の中心核であり、あらゆる通信、交通、物流が螺旋のように集中する場所。

灰色の塔群が空を突き刺し、空調と排熱で霞んだ空が、昼でも黄昏のような光を落としていた。


ヤナギダはターミナルゲートで停止した。

顔認証ではなく、静脈照合──軍の特殊部隊出身者向けの極秘プロトコルが使われていた。


「アクセス、承認。コールサイン“ブルー・ゴースト”、任務コード登録完了」


首筋に小さな針が刺さるような感覚。認証完了の刺激だ。


「やれやれ」


どこか懐かしむように目を細め、ヤナギダは一歩を踏み出す。

彼の背後、数歩遅れて、アヤがついてきた。


無言。


しかしその歩幅はぴたりと揃っていた。


「名前を訊いた覚えはない」


ぽつりと呟く。


アヤは答えない。ただ、足取りを緩めることも、逸らすこともなく、そのまま前を見ていた。


──どうやら、それでよかったらしい。


都市の心臓部。

一歩ごとに空気が重くなる。


誰が味方で、誰が敵か──そんな線引きすら曖昧になる、この街の核で、

彼らは“何か”を回収する。


報酬と、裏切りと、選択と。


アッシュシティが、彼らを試す時が来る。




第11章:縫合線フュージョンライン


都市の中心、マグ・ノード14の足元で、空気は嘘のように清浄だった。ヤナギダはあまりの静寂に、何かを踏みしめる足音すら控えてしまいそうだった。


ガラスとポリマーカーボンの複合で構成された高層の壁面が、ぬるりと曇った陽光を反射する。色彩のない白が並び、建物たちは自己主張を拒むかのように沈黙していた。


アヤが一歩、ヤナギダの横に並んだ。


「……音、しないね」


その呟きに、ヤナギダは返事をしなかった。代わりに歩を止め、指先で壁に触れた。


つるりと滑る無機質な肌。まるで、巨大な生き物の皮膚をなぞっているような気分だった。


「ここから先だ」


エントランスもなく、案内もなく、ただ目印にしか見えないプレートが一枚、道の脇に突き刺さっていた。


『施設管理区画:登録者以外立入禁止』


カードキーを差し込むと、無音でシャッターが引き上がった。そこには、もう空調の風すら感じられなかった。


下へ向かう階段。明かりはあるが、自然光は届かない。規則正しく配置されたLEDパネルの照明が、白い死体のような色で二人を照らす。


「気をつけろ。ここから先は──」


そう言いかけたところで、ヤナギダの後ろでシャッターが音もなく降りた。


アヤの肩がわずかに震える。だが彼女は泣き声を漏らすこともなく、前を見ていた。


ヤナギダは少しだけ顎を引いた。


(本当の意味で、こいつは“慣れて”きている)


感情を殺す術を、学び始めている。それが、この街に生きるということだ。


地下通路の最奥には、古びたセキュリティボックスがあった。


「ここが指定地点だ」


アクセスコードを入力する。


──エラー。


もう一度。


──アクセス拒否:上書き権限不一致。


「……くそ」


このパターンはまずい。依頼の発注者が、情報を握りつぶしている可能性がある。


背後で、アヤが何かに気づいたように顔を上げた。


「オジサン……これ、見て」


アヤの指差す先、壁のパネルが一部、変色している。灰色だったはずのパネルの隙間から、うっすらと金属の断面がのぞいていた。


「こじ開けられてる……」


誰かがここに先回りしていた。もしくは、回収対象を“あえて”残していった。


ヤナギダは手袋越しにそのパネルをはぎ取る。


そこにあったのは──


無数のケーブルに繋がれ、無言で立ち尽くす、少女の義体だった。


そして、その義体の胸元に、小さなホログラフ表示が灯っていた。


『AYA.02──起動未承認』




第12章:再起動(修正版)


ヤナギダの目がかすんでいた。痛みではない。熱だ。肩口から、じわじわと広がる灼熱が神経を侵食する。撃たれた。


「……ちっ」


不意打ちだった。振り返る暇もなかった。


アヤの悲鳴が耳の奥でこだまする。意識が遠のく。血の匂い。油のような機械の匂い。それでも、ヤナギダはアヤの手を掴んで立ち上がった。


「走れ……アヤ……」


意識の暗がりの中、うっすらとした視界に見慣れないシルエットが揺れる。人影。だがそれは──


黒の義体。


それが立っていた。


滑らかで人工的な外殻、アヤに酷似したシルエット。目の奥に青白い光が灯っている。


「おい……なんだそれは……」


ヤナギダは問いかけた。だが返答はない。


少女の形をした義体──AYA.02──が、無言で歩み寄ってくる。


アヤが怯えたように振り返った。


「わたし……あれ……」


自分を指差し、言葉を詰まらせた。


「わたしの……コピー……?」


AYA.02は何も言わず、立ち止まる。


空気が張り詰めた。銃声が遠くから響いた。誰かが近づいてくる音。


「くそっ……ここじゃまずい」


ヤナギダは肩を押さえながら、アヤの手を強く引いた。


「来い! 後で確かめりゃいい……今は逃げるぞ」


AYA.02が、その場から一歩も動かずに彼らを見送った。


まるで、何かを計算するように、冷静に。


その視線の奥に、わずかな感情があったかもしれない──だがそれを読み取る余裕など、ヤナギダにもアヤにもなかった。





第13章「低層区画A-17」


アヤは何も言わなかった。あの白い光の中から戻ってきて以来、一言も口をきいていない。


ヤナギダは左腕を押さえたまま、湿った地下通路を進んでいた。肩口のジャケットは裂け、血で重たくなっている。


「オジサン、大丈夫?」


やっとのことでアヤが声をかけた。震えるその声に、ヤナギダはわずかに頷いた。


「かすり傷だ。問題ない」


そう言いながらも、額には脂汗。奴ら──あの金属のような脚で歩く機械兵──の攻撃は予想を超えていた。


「……何だったの、さっきのひと」


アヤが問うたのは、あの白い光の中で姿を現した少女に似た存在──AYA.02だ。


「さあな」

ヤナギダは短く返した。正確には、わからないというより“言葉にできない”というのが本音だった。


ヤナギダの視界には、今でもその残像が焼き付いている。


白磁のような肌。仄かに発光する神経インターフェース。


──そして、アヤと酷似した瞳。


あれは記憶か、幻覚か、それとも──。


「……アヤ」


「なに?」


「お前……何か思い出したか」


アヤはゆっくり首を横に振った。


「でも……心が、ざわざわする。あの子を見てから……」


言いかけてアヤは口を閉じた。言葉にしてしまえば、何かが壊れそうで。


ヤナギダは歩を止め、地下通路の壁にもたれた。


「休憩だ。五分だけ」


言いながら、義手の指で残った弾薬を確認する。


「……なあ、オジサン」


「なんだ」


「私……人間なのかな」


その問いに、ヤナギダはすぐには答えられなかった。だが、すぐに見上げ、静かに言った。


「今こうして生きていて、寒くて、怖くて、腹が減ってるなら──人間とそう変わらん」


アヤは小さく笑った。それは、ここ数日で初めての本当の笑顔だった。


「そっか」


五分が経った。


「立てるか」

「うん」


ふたりは再び歩き出した。


低層区画A-17。ここはアッシュシティの外縁、立ち入り制限区域。


人が住んでいた形跡はあるが、今は見る影もない。コンクリの割れ目から、細い根が伸びている。


「もうすぐ目的地だ」

ヤナギダが呟いた。


この先にあるのは、かつて「旧王の礼拝所」と呼ばれた空間。


誰も寄り付かないその場所に、回収対象は眠っているはずだった。





第14章「逃走と引き換えに」


 それは一瞬の判断だった。


 ヤナギダはアヤの小さな肩を引き寄せ、鉄屑と煙にまみれた通路を駆け抜けた。


 天井をかすめるように飛来する火花と断線した電線。冷却水が噴き出し、霧のように視界を遮る。


「まだ、追ってきてるか?」


 息を詰めながら問うと、アヤは小さくうなずいた。


 背後から聞こえる金属の擦れるような、いやに湿った足音。

 それは、ただの歩行音ではない。静かに、だが確実にこちらを捉えている者の足取りだった。


「分かってる……このままじゃ──」


 ヤナギダは思い出す。

 瓦礫の下で倒れていた、あの男の姿。

 すでに息は絶えていたが、その手には情報チップが握られていた。


(くそっ、あのとき、あの部屋で──)


 考えるよりも早く、体が動いていた。


 急な分岐路で壁を蹴り、左手へと曲がる。


 通路の先には……光。


 セキュリティドア。

 開いている。


「アヤ、走れ!!」


 力の限り叫んだ。

 少女は振り返らず、真っすぐに走った。


 だがその瞬間、背後で爆音が響く。

 ヤナギダの背中に衝撃が走った。


 気づけば、床に伏していた。


 左腕が……動かない。

 視界が歪む。


「オジサンっ!!」


 アヤの叫びが遠くに聞こえた。


 必死に這いながら、手を伸ばす。

 彼女を、逃がさなければ。


 それが、あの日、死なせてしまった娘の影を追うかのような、

 遅すぎた贖罪だった。


 彼の手が届くより先に、ドアは自動的に閉じ始める。


「アヤ……行け……」


 少女は涙を滲ませた目で、ヤナギダを見つめていた。

 だが、そのまま立ち尽くしているわけではなかった。


 背負っていた端末を開き、何かを打ち込む。


「ダメ……あたしが開ける、オジサンも一緒に行くの!!」


 彼女の声に、ヤナギダの意識が遠のく──


 しかし。


 次の瞬間、ドアが再び開く音がした。


 そして、ヤナギダは光の中に引き込まれた。



第15章「血の残響」


銃声の余韻がまだ空気の中に残っている。

金属の臭い。焼け焦げたプラスチックの匂い。ヤナギダの腹部には深い裂傷。


その隣に、少女が崩れ落ちるように座り込み、震える指先で男の手を握っていた。


「……オジサン、目を開けて。私、まだ名前、ちゃんと言ってなかったでしょ……」


ヤナギダの口角が、わずかに持ち上がった気がした。

だがすぐに意識は深く沈み込んでいく――――




施設の医務ブロックに、少女が文字通り飛び込んできたのは、その日の夜だった。


「お願い!この人を助けて!!お願いだから!!」


警備員が制止する間もなく、少女は担架に血塗れの男を乗せて引きずってきたという。


後に彼を診た医師が回想した。


「……それはそれは、すごい剣幕でね。大人でもあんなふうに叫ぶ人は、なかなかいない」


男は瀕死だった。内臓の一部が破裂し、肋骨も数本折れていた。

医療チームが緊急対応に移る最中、手術台に乗せられた彼の身体から、異常な反応が検出された。


「トレーサーチップが……沈黙してる?」


モニターを覗き込んだ看護師が眉をしかめる。


「フリーズでも、ジャミングでもない。完全に…焼け切れてる……」


一方、その情報はすぐにフィクサーの元へも届いた。


「EMPか何かで吹っ飛んだらしい。回収不能。」


モニターに映る人工衛星の追跡ログには、ヤナギダの行動記録が最後に残された地点で途絶えていた。


「座標が更新されねぇなら、死んだも同然ってことだな。」


「裏切ったか?」


「どっちでもいい。……もう使い物にならねぇ身体だ。」


フィクサーは煙草に火を点け、書類に一言だけ書き加える。


――[終了処理済] ヤナギダ・ソウイチ。






それから一週間後。

郊外のリカバリー施設。

病室のベッドに、年老いたように痩せた男が静かに横たわっている。

傍らの椅子には少女。


「オジサン、今日のごはん、いつもよりおいしいって……栄養士さんが言ってたよ」


彼女の声に、かすかに男のまぶたが動いた。


そして、口元が微かに、微かに緩んだようにも見えた。


風がカーテンを揺らしていた。


街の喧騒から遠く離れた場所で、彼らだけの時間が、静かに流れていた。


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