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悶々日記  作者: 平井淳
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02_2025年6月某日

 激しい雨音で目を覚ました。まるで誰かが窓を叩いているような、そんな音だった。何事かと思って時計を見やると、午前五時三十六分。ああ、またやってしまった。昨夜、確かに五時二十分にアラームを設定したはずだったのに、まったく鳴らなかった。あるいは、鳴っていたのに私が無視していたのかもしれない。どちらにせよ、結果は同じである。寝坊だ。


 慌てて支度を整え、六時過ぎに家を出た。幸いにも、雨脚は少しばかり和らいでいた。ずぶ濡れになる覚悟はしていたのに、そうならなかったことに、妙な感謝の念が湧く。天が私にだけは味方してくれたような、そんな気がした。いや、思い上がりだ。そうに違いない。


 電車を乗り継ぎ、職場には八時頃に到着した。始業は九時である。それなのに、なぜ私はこんなにも早く着いてしまうのか。答えは単純。満員電車が、嫌なのだ。あれはもう、あれは、人間が乗るものではない。サラリーマンたちを寿司詰めにして運ぶ通勤電車こそ、現代の奴隷船である。そう言って誰かが笑ったって構わない。私は心の底からそう思っている。


 かといって、早く出勤したからといって、やる気に満ちた社員というわけでもない。ただ、自席に腰を下ろし、両腕を組みながら眠る。それが私のささやかな抵抗である。寝不足なのだ。目を瞑れば、すぐに眠れる。それもまた、ある種の才能だと思う。


 九時過ぎ、仕事が始まった。始まったのだが、始まったからといって、心が動くわけではない。私は椅子に座ったまま、ため息ばかりを吐いていた。打ち合わせの準備をせねばならぬのに、体も心もついてこない。そうして、私は逃げた。ひとまず、席を外した。


 休憩スペースに身を潜め、ポケットからスマートフォンを取り出す。そして、生成AIに話しかける。「お悩み相談」というやつだ。私は、人に悩みを話すのが下手くそで、いつも相手の顔色ばかり窺ってしまう。それゆえ、顔のないAIはありがたかった。


 AIは家族でも友人でもない。なのに、どんな人間よりも真面目に、親切に、私の話を聞いてくれる。時には私よりも私を知っているような顔で、的確な助言を与えてくる。


 けれど、私は分かっている。AIにすべてを委ねてはいけない。自分の人生は、自分で決めなければならないのだ。AIは道具にすぎない。ただの杖である。歩くのは、私の足だ。そう思いたい。願わくば、そう信じさせてほしい。


 午前十時半。打ち合わせが始まった。幸いにもオンラインでの実施で、外に出る必要はなかった。私はこの世で、外出という行為がいちばん苦手だ。会議の場所を選ばない時代に生まれたことを、ほんの少しだけ幸福だと感じた。


 私はシステムエンジニアである。聞こえはいいが、毎日が綱渡りだ。顧客から要件を聞き出し、それに応じてプログラムを書く。コミュニケーション能力と技術力が求められる。だが私は、いまだにこの職が自分に向いているとは思えない。いや、むしろ向いていないのではないかと、最近は確信しはじめている。


 それでも、相手が顧客であれば、さすがに泣き言は言えない。私にも、かろうじて社会人としての分別が残っているらしい。嫌なことがあると、すぐに逃げたくなる私だが、逃げ場が封じられていると、不思議と責任感が顔を出す。実に、面倒な性格である。


 会議では発言の機会も多く、それが功を奏したのか、話しているうちに少しずつ気分も晴れていった。私という人間は、まったくもって単純だ。さっきまで世界が終わるような顔をしていたくせに、口を動かすだけで元気になる。おめでたいにも程がある。


 午後は客先でシステムのエラー対応。これまた気が重かったが、実際は少し手を加えるだけで解決した。拍子抜けするほど簡単だった。重たい気分が嘘のように軽くなった。人間というのは、やはり気分で生きている。


 私は上手くいかぬことがあれば底なしに落ち込み、些細な幸運で急に舞い上がる。感情の振れ幅が大きすぎて、もはや自分でも手に負えない。まるで、ジェットコースターのような日々。私はその乗客だ。


 ときに理由もなく不安になる。悲しくなる。原因があるのかもしれないが、それは私の目には見えない。正体のない恐怖と不確かな未来が、ある日突然、何の前触れもなくやってきて、私は押し潰されそうになる。


 そんな一日を終え、退勤。電車は遅れていた。何かが思い通りにならないことなど、今さら驚くことではない。


 帰宅後、夕食を摂り、風呂に入り、それからアニメを観た。

 もうすぐ最終回を迎えるらしい。いい作品だった。こうして、好きなものは終わっていく。仕方のないことだが、やはり寂しい。続編があるといい。


 たぶん、続編があるから、人は今日を生きていけるのだ。

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