歴史書を読む女と花を愛でる男のプロポーズ~しがらみと絆について
* 武 頼庵(藤谷 K介)さまご主催の【能登沖地震復興支援!!】 繋がる絆企画への参加作品です。
「だーーーー!! ダメ、死んだ~」
大学一年を何とかやり遂げて春休みに入ったというのに、私は家で机に突っ伏していた。
「こんな怪文書、読めない……」
机上には文庫版「原文・日本書紀」5冊。
10か月前、志望校の国文学科に意気揚々と入学した4月当初に、出された課題のひとつだった。
「一回生のうちに『日本書紀』の原文を通読すること」
高校時代に『国語の権威・阪口法子』と呼ばれた自分はどこに行った?
春から何度も挑戦してそのたびに挫折、春休みに読めなきゃもう二回生だ。
ーーうそでしょ、これ、古文でもない、日本語でさえない。延々とした漢字の羅列。「大学受験に出る漢文知識」を総動員してもわからない。わかりかけたと思うと文脈にそぐわない字がどんどこ出てくる。
同じ科の友人たちは、「現代語訳読んで済ませた」と笑っていた。
「原文で」と言われたからには原文で読むことに何か意味があるはずだと思ってしまうところが、私らしい長所であり短所。
「行こう!」
窓の外の景色は2月下旬、クロッカスやラッパ水仙が咲き始めた柔らかい早春。
階下に降りて、昼食と夕食の支度の間で、茶の間でのんびりしている母に声をかけた。
「神社行ってくる」
「あら、デート?」
母は神職を務める信也さん目当てだとお見通しだ。
「違う、これの読み方がわからないの」
文庫本の表表紙を胸元でひらひらさせる。
「日本書紀?! 信也にわかるかしら?」
「うちの氏神様の神官だもん、何かアドバイスくれると思う。だって、あの神社の神さまは臣籍降下した皇族で、私たちはその末裔なんでしょ。だとしたら、天皇家の歴史ってうちのご先祖様のことになるんじゃない?」
母は大げさに首を傾げて、「どうだかねぇ~」と言った後でにんまりとした。
「ま、アンタの正攻法が効かない時に信也に突破口を見つけてもらおうってのは正しいと思うわ」
私は肩をすくめて、頬が赤くなりすぎないうちに自宅を後にした。
阪口信也、28歳。
私は9つも年上の彼に、かれこれ12年、恋している。
戸籍上は養子縁組による従兄、血縁では再従兄であって、お隣同士だから子守もしてもらい、勉強も教えてもらいの、兄妹のような相手。
名字も阪口同士だし。
高一の時、「このままいくと僕と結婚する羽目になるよ」と本人に言われたけれど、それを望んでくれているのかどうかはちっともわからない。
初対面では自分は2歳、「UFOみたいな歩行器に入ってよだれ垂らしてた」と今でもからかわれる。
だから、異性として好かれている自信はカケラもない。
ーー神官として誰にでも優しいから、他に好きな人がいても傍目に見えないだけかも。
夜、街に出て女性と会っていたとしても誰も気付かない。
信也さんの行動も頭の中も、読み切れる人など居やしないのだからーー
親戚一同公認、周囲ばかりが盛り上がり、既に婚約者カップル扱いなのが困る。
神社に関わる親族が多すぎて、その中心に信也さんが居るのが悪い。
そんなことをつらつらと思いながらのんびり15分かけて歩き、自分も緋袴を穿いて巫女を務めたことのある神社に到着した。
身に着いてしまっている通りにお参りする。
暇なら信也さんは自分から、どこからともなくぬっと現れる。
堂々と目の前の拝殿の扉から出て来たり、回廊の下をくぐってきたり、お茶室から顔を出したり、池の向こうから手を振っていたり。
出てこないなら忙しいのだろうからまたにすればいい。
神社の庭は気持ちいい。
拝殿の左横に広がる鏡池の上を優しい春風が渡って来る。
その向こうに見えるお茶室の濡れ縁にでも腰掛けて、手に持っている怪文書をもう一度読んでみようかという気になった。
漢字の羅列と、巻末についている読み下し文と交互に読んだっていい。
もう少し頑張ったら、コツが掴めるかもしれない。
いち、に、さん、し、ご。
7歩歩く前に声がした。
「もう帰るの?」
拝殿の横から伸びて鏡池までを遮る柵の向こうに、信也さんの顔だけが見えている。
彼はひょいひょいっと池の中の石組みを伝って柵を迂回した。
向けてくれるのはいつも通りの、屈託のない笑顔。
ぱっちりとした二重の瞳がくりくりして、イケメンだけど28歳にしては幼い、いつまでたってもいたずらっ子みたい。
黒い固めの前髪は立たせツーブロックにしている。
「もし時間あったら教えてください、日本書紀の攻略方法」
私は照れも手伝って、手にしていた本をぬっと突き出すだけになった。
信也さんは受け取ろうともしない。
「こーりゃく? そういえばもう、こめかみに膏薬貼る人いなくなったね」
「あ、ごまかした」
「選挙公約は守りましょう」
「ごまかし続ける気だな?」
「春休みの行楽にうちの神社でお花見はいかかがでしょうか? よかったら、裏山歩かない?」
「え、今?」
「いいお日和じゃん」
信也さんとの会話はいつもこんな感じだ。
気が向かないと返事はもらえない。諦めて、池べりを歩く。
信也さんは私の速度に合わせてのん気に鼻歌混じりだ。
神社の敷地は広大で、裏山のどこまで行くのか知らないけれど、スニーカー穿いてきてよかったと足元を見た。
隣の足は草履履き。
白衣に袴姿の今日は、信也さんにどこかしら小坊主感が漂い、神々しい斎服と比べるとかなりとっつきやすい。
「天孫降臨とかヤマタノオロチとかの神話は知ってるでしょ?」
信也さんが奇跡的に話を日本書紀に戻した。
珍しいなと失笑が洩れる。
履物を見ていたのをがっかりしてうつむいたんだと思ったのかもしれない。
何を訊いてもごまかしたまま有耶無耶にされるのには慣れているのに。
「内容ではなくて。というか内容もわかるに越したことないんだけど、ヘンな課題で、『原文を通読せよ』って」
信也さんは鏡池に流れ込む渓流沿いの上り勾配で立ち止まり、180センチ近い身長から見下ろした。
「漢文を読めって? 読み下し文でもなく現代語訳でもなく?」
「うん」
「じゃ、簡単だ」
相手は謎の言葉と共にくるりと裏山のほう、小さな滝と滝つぼ池がある進行方向を向く。
「簡単?」
傾斜の高いほうに回り込んで、見慣れている筈の従兄の顔をいつもより近い角度で見つめた。
「簡単だよ。眺めればいい。文字を追えばいいだけ」
ついっと顔を逸らされて、傷ついた気分が心に広がる。
「それじゃ何にもならない」
「なるよ。なると思ったから先生も宿題にしたんだろう? いずれ自分の研究する時に必要なんじゃない?」
「私がやりたいのは『源氏物語』で……」
「紫式部の時代にも、公文書は漢文だった」
「あ、そうか……」
「何か調べたいときに、漢字だけで書いてあるからこの文献は読みたくない~って言えないってことだと思うな。慣れればいい、逃げない姿勢を持てってことだろ」
「はあーー、そうなんだ、どうして私ってこういうとこに気が付かないんだろ、頭固いって言われるはずだわ」
私をバカにするでもなく、信也さんは上機嫌に滝池へと上がっていく。
「で、法子のことだから漢文を読み解こうとしたんでしょ?」
「読み解くも何も、尊とか姫ってあったら偉い人の名前だなとかしかわからない。天皇さまが何か言ったって書いてあると思ったら急に突拍子の無い漢字が何度も出てきたりでまた混乱して」
「波とか都とか、母とか、能力の能」
声に合わせて信也さんの右手が手話のように動いた。
「え、そう、その通り、そんな漢字が並ぶの」
「夜・露・死・苦、よろしく~と同じ、当て字」
今度も信也さんは四回手を動かす。五十音対応の、うちの神官が使う印だとハッとした。
「当て字? 印と同じ、あ、もしかして万葉集みたい? 万葉仮名?」
「知ってるじゃん」
信也さんの瞳が一層キラキラする。
「授業で習った。なんだ、当て字かあ」
「日本書紀は、ばっちり正しい文法の漢文のとこと、中国にちょっとだけ留学した人が書いたような文法ミスがたくさんある部分と、万葉仮名のとこがあるって聞いた」
「そうなの?」
「大御所の日本書紀でさえそうなんだ。古典の研究って大変だよね」
信也さんの眩しい笑顔。
多くの人が一発で心酔したり安心したりしてしまうと言われてる。
本人は無頓着に、滝池から下の鏡池とお社を眺望した。
「法子はやっぱり勉強似合うね。学者さんになるかもしれない」
まだ子ども、圏外、早すぎる、そんな言葉で何度も振られてきたというのに、笑顔の直後にまた拒否るのかと悲しくなった。
恋愛より学業に専念しろと言わんばかり。
何を知っているのか底の知れない9歳も年上の隣の男性には手が届かないまま。
「うちの神社の経典は、漢字だらけでなくてよかったねぇ~」
おどけたその一言は、
「僕は日常的に古文書を祝詞に使っているから、慣れてるだけだよ」
という意味なのだろう。
「私、いつまでたっても圏外だよね」
つぶやいてしまって赤面した。
大学生になってタメ口で話せるようになった以外は、信也さんとの間に特に進展はない。
「法子、うちの神社には柵がある。さっき僕は池の石を使って出てきた」
「うん……」
信也さんは静かな声で話題を替えた。
「社の反対側も、集会所の壁まで柵が走っている。今僕たちは下の池を大回りして柵内に入ってきた。柵のこっち、裏山側は一般の人は立ち入れない」
「神域だもの」
「柵って字、他に何て読むか知ってる?」
「柵?」
掌に指で木偏から書いてみた。「こうだよね?」なんて思いながら。
「何かから大事なものを守りたくて柵は建てる。でもそれは……」
信也さんが言葉を濁してくれて何とか間に合った。
「しがらみ!」
信也さんはまたほわっと微笑んで林に分け入り、滝を頂点にして下がり始める裏山の道に歩を進める。
「僕は人生の大半を、柵のこちら側で過ごす。現宮司が完全に引退したら本当に、この社を背負って立つことになる。それは一種、外社会から守られていると同時に、縛られていることにもなる……」
思ったより真面目な話題らしい。
道が下り坂になると心臓の音は私の身体全体に響く気がした。
裏山の山肌には原生林の合間に、四季折々に見ごろになる花木が植えられている。どれもがもう大木だから、ずいぶん昔から人の手が入っているのだろう。
信也さんは満開の白梅の前で立ち止まった。
ほろりほろりと花びらが散る。
桜ほど一斉ではないその静かさが、私には趣高い気がして黙って見上げた。
「今でも僕が好き?」
信也さんからぶしつけな質問。
たまには私もはぐらかしたりごまかしたりしたいと思う。
でもとくんと跳ねた心臓がそんな余裕をくれない。
梅の花を眺めたまま、頷くだけにした。
「結婚は絆を結ぶことだ。いい加減な気持ちですることじゃない」
ーーああ、また振られるんだ、今度こそ決定的に。
梅の花びらを瞳で受け止めようとしているかのように、私は梅から目を離さなかった。
少しでもうつむいたら、泣いてしまいそうだから。
「絆という言葉は元々、馬や犬を繋ぎ止める綱のことだったそうだよ。僕を繋ぎ止めたい?」
コクリと頷いた。やはり涙がひとつ零れた。
卑怯な人だ。いつも私に心の全部を顕わにさせて、自分のことはコマ切れしか見せてくれない。
「僕を繋ぎ止めると、この神社までしがらみとして付いてくる。そこも考えた?」
「うん」
「法子のお父さん、克也叔父さんはこの神社大嫌いなことも?」
「うん」
「法子だってこの神社の宗教っぽいとこは嫌いだよね」
無言で頷いた。
12年もたった1人の男性を好きだったら、悩む時間はいくらでもあるの、と相手の胸を叩いて泣けたらいいのに。
「僕も法子が欲しくなった……」
寝耳に水だった。
「こっちに来て……もうひとつ見せたい花がある」
信也さんは私の手を握り締めると歩き出した。
樹々の間を白く細い道が蛇行している。
思ったより肉厚の大きな手が私の右手をすっぽり包んでいた。
けもの道を曲がった途端に、数えきれない燭台に黄色い線香花火を上向きに灯したような、高さより横幅のほうが広い木が現れた。
「やっぱり法子に似合う。綺麗だ」
「な、なんて木?」
胸の鼓動が速過ぎて、センテンスにならない。
「山茱萸。華やかなのに煩くない、控えめなのに寂しくない、昨日見に来て、華燭の典って言葉が浮かんだ……」
私は心の震えを隠したくて、低い枝に近づいて花を観察した。
「何かに似てると思った……お雛様や三人官女の冠を枝に散りばめたみたい……」
信也さんが後ろから、照れたように自信なさげに問う。
「僕と、結婚の絆を結んでくれますかって……聞いてるんだけど?」
私はくるりと振り向いて、「今更なの?」としかめ面をした。
「あーあ、可愛い顔台無しにして。さっき小川のところで、すっごい美人になったなあって感心したのに」
え、小川って、鏡池と滝の間で、ついって顔を背けた時?
私が顔を近づけたから、ドギマギしてくれたの?
身長より低い枝を持ち上げるようにして、信也さんは私を線香花火の中に誘い、山茱萸の幹に寄り添わせた。
すぐ近くに胸の打ち合わせから覗く肌と広い胸がある。
どこを見ればいいのと焦った瞬間に指がすっと頬に触れ、気付いたら口づけされていた。
ーー19歳の春、遅い遅いファーストキス。
「待たせてすまなかった……やっと、覚悟ができた。君を僕に繋いで、僕も君に繋がれる、それが幸せだと思える絆の覚悟が」
私は声も出せずに、信也さんが作った腕の囲みの中にいた。
「何も言ってくれないの?」
キスの後で言葉を求めるなんて無粋よ、と言えるほど余裕があればよかったのだけれど。
12年間の片想いが溢れる涙に変わるばかり。
「あ、ごめん、順番間違えた。『僕と結婚を前提にお付き合いしてください』、こっちが先だった」
私は泣き笑いに顔をゆがめた。
信也さんは額にそっとキスを落とす。
そして私は山茱萸の幹よりもがっしりとした身体に包まれていた。
嗚咽が信也さんの胸に伝わり凪いでいく。
この人は、結婚の絆について回る覚悟と責任を、ずうっと考えてくれていたのだろう。
氏神様を祀る伝統から離れない一族だから、私を従妹から妻に格上げするとついてくるいろいろな面倒くさいしがらみを。
「大学の勉強疎かにしたら怒るからね?」
信也さんが急に彼氏風を吹かせる。
「僕の彼女になるにあたって覚えてほしいことがあります」
「は、はい……」
急に丁寧語、信也さんらしいけど改まって何だろう、両想いでゴールじゃない、これからのほうが大変なのかも。
「十干十二支の暦法です。神社の奥さんには何かと必要です」
「え? 十二支?」
「僕は壬寅年の辛丑。法子は亥年だとしか知らないでしょ? 早見表上げるから、日本書紀に出てくる年月日を見てごらん」
「日本書紀?!」
問い質す隙もくれず信也さんは私からすっと離れて樹下から出てしまった。
「アハハ、法子、真面目な顔し過ぎ」
と、笑いながら社への道を帰ろうとする。
「待って、信也さん」
「日本書紀は歴史書だよ。日付の書き方がわかったら楽に眺められる」
数歩先で眩しく振り返っている恋人になったばかりの人に尋ねた。
「神社に必要なんじゃないの?」
信也さんは戻ってきて私をまた抱きすくめた。
「神社は僕に任せればいい。夫のただの職場だと思ってもいいんだ。しがらみより強い絆を結べば、僕は垣根を乗り越えられる」
そして特大に優しいキスをくれた。
「僕を攻略した君が、日本書紀に負けるはずはない……」
耳元に落とされた言葉は線香花火よりまばゆく、私の心と身体を熱くしていった。
ー了ー
読んでくださってありがとうございます。
もし信也や法子に興味を持たれましたら、「帰ってきた人」https://ncode.syosetu.com/n5517eq/
を覗いてみてください。
初期作品なので読みにくいとは思いますが。
本作も人称のズレがあったので企画期間終了後になりましたが訂正いたしました。