子供部屋
「あんな、海老食うと歯捥げるて知っとる?」
「え?知らんよ、なにそれ?」
「なんか知らんけど、海老食うと歯捥げるんやて」
「そんなん嘘やろ、誰から聞いたん?」
「俺の部屋のウッキョムさんが言うとった」
「なんや、またウッキョムさんかや。わかったわかったほんならな」
そう言うとクラスメイトの猛は走って行ってしまった。
二時間目のあとの、ちょっとだけ長い休み時間に教室の後ろのとこで数人の男子が談笑していた。
「なぁ、岡田んち行った事ある?」
「あるある。アレやろ、子供部屋やろ」
「なんそれ?子供部屋ってなん?」
「そうそう子供部屋。うるさいけん子供部屋に行け」
「キャハハハハハ、子供部屋」
「なぁ、なんなんそん子供部屋て?」
「うん?やけん子供部屋。ぷぷ」
「そんならお前、岡田んち遊びに行けばよか」
猛は壮一にそう提案した。壮一はその子供部屋には興味があったけど、岡田家に行くのはあまり乗る気がしなかった。岡田の家は八幡神社の隣にある小さな公園のすぐ脇に建っている。見方によっては公園の隅にある感じで、いわゆる普通の住宅とは違う感じの建物だった。壮一は公園の近くを通る度に岡田んちを目にしていた。コンクリートブロックを積み上げて造られた車庫みたいなところへ、強引に掘っ立て小屋をくっつけたような家で、屋根はトタンとブルーシートで構成されている。所々に土のうが置かれ、風が吹くとブルーシートの端と、留めていた釘が外れてしまったトタンがバカバカと音を立てる。人が生活しているようには見えなかったけど、確かにそこは岡田んちで間違いなかった。
壮一は、猛にも一緒に行かないかと誘ってみたけど、塾があるからと断られた。猛が塾なんかに行ってないことを壮一は知っていた。そうやって噓をついてまで岡田んちに行くことを断るということは、相当岡田んちに何かあるということで、壮一は益々興味だけが膨らんでいった。
給食の時間は岡田の時間だ。誰よりも早く配膳を済ませ、給食係が言う「いただきます」の言葉を待つ。その言葉が聞こえる。「いただきます」岡田は手を合わせて小声で呟き給食に食らいつく。岡田の分の給食は、ほんの数分で綺麗に無くなる。岡田はそのまま席に座っている。だらだらとおしゃべりをしながら食べる者、食べるのか食べないのかさっきから右手に持ったパンを持て余す者、嫌いな野菜だけを食器の隅に寄せ器用に汁だけを啜る者、そんなクラスメイトたちを岡田は自分の席から観察していた。暫くすると食べ終えた者が席を立ち、食器とか空になった牛乳瓶を給食かごや牛乳瓶ケースへと戻してから昼休みへと突入していく。食べきれなかったパンやおかずがある者は岡田の席に立ち寄って、それを岡田の食器や盆の上に置いていく。岡田はそれを待ち構えていて次々と平らげていく。
壮一が岡田の席に近付いたのは、岡田もそろそろ席を立とうとしていた時だった。コッペパンを三分の一程持って壮一は岡田へ声をかけた。
「岡田、これ食べる?」
岡田はタイミングの悪い壮一にも笑顔で頷いた。壮一はそこで話を切り出した。
「今日、岡田んち行っていい?」
コッペパンを頬張りながら岡田は壮一の顔を見る。壮一は何でそんな事を言ってしまった分からなくなったけど、本来の目的である子供部屋の事を思い出して少し緊張した。パンを食べ終えた岡田は「よかよ」と一言だけ言って席を立った。
岡田には研二という一学年下の弟が居て小学二年生だ。岡田は大体この研二といつも一緒に連んでいる。岡田も研二も友達は居ないに等しく、二人で町をぶらついている。町の人たちは、この兄弟の事をあまり良く思ってはいない。万引きというのとはちょっと違うことかもしれないけど、岡田兄弟のそれは盗みみたいな事だった。おもちゃ屋へ行けばプラモデルの箱を勝手に開けて中身を取り出すし、電池式で動くロボットに、どこから持ってきたのか知らないけど持ってきた電池をセットして遊んでみたり、スーパーの惣菜コーナーへ現れると悪びれる事もなく食べたいものを口へ運ぶ、八百屋の店先からリンゴを掴むと、歩きながらそれも食べる。ただ本人たちには犯罪を犯している意識は微塵も無く、店主達が怒って家に押し掛けたところで支払う金なども無かった。そしてごく稀に岡田の同級生が家に来ることがあって、その時は研二も家にいる。普段、岡田と研二はあまり家には居ない。一日の大半を家以外で過ごす。朝起きて学校へ行き、学校が終わると暗くなるまで研二と二人で町をぶらつく。父親は偶にしか帰ってこないし、帰って来た時は大体酔っぱらっている。家には、ほぼ一日中母親が居て酒をチビチビやっている。家に電気は通っておらず、炊事場と言っている所に蛇口が一栓あるだけだ。風呂は週に二回くらい近くの銭湯へ、便所は隣の公園にある公衆トイレを使う。家の大半は土間になっていて、小上がりの板張りのスペースに布団が敷いてある。土間の隅にコンクリートブロックが四段積んであって二メートル真角くらいに囲われている。
神社のところまで来て壮一は少し後悔していた。ここから見えている岡田んちが否応なしに重暗い雰囲気を醸し出している。壮一はそこから公園へと足を踏み入れる。公園と言っても小さな公園だから、すぐに公衆トイレまで行き当たる。公衆トイレの先はもう岡田んちだ。ここまで来ればあとは腹をくくるしかない。同級生のうちへ遊びに行くだけなのに何でそこまで覚悟を決めないといけないのか、壮一は何だか馬鹿らしく思えてきて少し心が軽くなった。
完全に岡田んちの敷地内に入ったのに壮一は混乱しかけていた。玄関がどこなのか全く見当がつかなかった。恐る恐る家の周りを一周してみても、ブロック塀のとこは入り口どころか窓すら無い。だとするとこっちの木造部分のどこかに玄関というか、この建物に入るところがある筈なのだけど見当たらない。その時、古い大きな布が垂れ下がっている向こうでトタンが軋む音がして岡田が現れた。
「壮一、ここぞ」
垂れ下がっている布の奥から岡田が笑顔で手招いた。垂れ下がっている布は小汚く、そもそも何のためにここにこうして垂れ下がっているのか訳が分からなかった。壮一は極力布に触れないようにしてトタンの扉から岡田んちへ入った。入って直ぐに、土足で人んちへ入ってしまったと思ったけど、そこは土間だったし岡田も靴を履いていた。
「おじゃまします」
壮一が小さな声で言って一歩足を家の中へと進める。外から来た壮一は薄暗い家の中の様子がよくわからなかった。徐々に目が慣れてきてテーブルとそこの椅子に座ってこっちを見ている女の人に気付いた。テーブルの上には透明なグラスと一升瓶が置かれていた。女の人はスエットの上下を着ていたけど色までははっきりとわからなかった。軽く会釈をして土間を進む。奥に何かのカードを真剣に見ている岡田の弟がいる。岡田が椅子を出してくれたけど、赤ちゃんが座るような感じの椅子で何かのキャラクターが描かれていた。岡田も同じような椅子に座っている。壮一が椅子に座ろうとした時に足元でプラスチックが割れたような音がした。その音に反応して、奥でカードを見ていた弟の研二が飛んできた。
「おまえ、馬鹿」
切羽詰まった声で研二は壮一の足元で壊れた小さなプラモデルを拾い上げる。
「馬鹿馬鹿馬鹿、なんばすっとか、馬鹿」
研二の声は大きくなり、それが段々と泣き声に変わっていった。岡田は何も言わない。
「ごめん、わからんかったとよ」
壮一は研二に謝ったけど、研二の怒りと悲しみはどんどんと大きくなっていった。そしてギャーギャーと泣き出した。
ダンっとテーブルを叩きつける音が土間に響いた。スエットの女の人が鬼の形相でこっちを睨んでいた。女の人は立ち上がったと思ったら絶叫した。
「うるさい、子供部屋へ行け」
岡田と研二はもう既に行動を起こしていた。土間の隅にブロックが四段くらい積まれて囲われている場所へ二人は入り込んだ。壮一も慌てて後を追った。約二メートル四方に囲まれたところで三人は息を殺した。壮一は、そこでようやく猛が行くのを断った訳を理解した。
どのくらいの時間そこでそうしていたのか分からなかったけど、テーブルにグラスを置く音がして、「よし」という声がした。岡田と研二は急いで壮一を連れて家の外へ出た。日が暮れるような時間じゃないのに大分薄暗くなっていて、もう秋も終わろうとしているのに生暖かい風が吹いていた。
久しぶりに父親が帰って来たのは十二月に入って直ぐだった。珍しく酔っぱらっていなかった。母親もどことなく機嫌が良く、暗くなってから帰宅した岡田と研二も暖かい気持ちになった。
耳を疑った。岡田は多分初めてその言葉を聞いた。父親はとんでもないことを口にした。
「クリスマスプレゼント、なんか欲しかもんあるか?」
研二はすかさず今夢中になっているロボットのプラモデルを挙げた。すると父親は直ぐに快諾した。岡田は隣でそれを見聞きしていて思った。それはずっと欲しいものだったけど絶対に手に入るものではなかった。でも今日ならそれを聞き入れてくれるかもしれない。岡田は思い切って言ってみた。
「父ちゃん、俺、自分だけの部屋が欲しか」
岡田はずっとそう思っていた。自分が好き勝手に自由に過ごせる場所が何よりも欲しかった。さっき研二がプラモデルと言った時は即答で受け入れた父親は黙ってしまった。その表情を見て岡田は自分がとんでもないことを言ってしまった事に気が付いた。
「噓、噓たい、俺リンゴジュース飲もうごたる」
岡田は照れ隠しをしたみたいにそう言って、そのまま靴を脱いで小上がりの布団へと潜り込んだ。次の日の朝、父親はもう居なくなっていた。
クリスマスはいつものように、岡田と研二は町で過ごした。家に帰ると母親はいつもよりもグテングテンに酔っぱらっていた。次の日から冬休みになったけど、それでも岡田と研二は町へ行くしかなかった。町の雰囲気もクリスマスからガラッと変わり年末年始に向けての慌ただしいものへとなっていた。そんな時に父親は帰って来た。だいぶ夜遅くに帰って来た。布団に入っても寒くてなかなか寝付けない夜だった。トタンの扉が開いて、足元がフラフラの父親が入ってきた。
「メリークリクリます」
そう言って土間へと倒れ込んだ。クリスマスはとっくに過ぎていた。少し大きな袋を二つ携えていた。研二はもう眠っていて、仕方なく岡田と母親で何とか父親を布団のところまで運んだ。力を使ったおかげで身体が暖かくなり岡田はそのまま布団へ入って眠ることが出来た。
翌朝、研二の歓喜で目が覚めた。土間にあった袋の中身は研二が欲しがっていたプラモデルだった。
「やった、やった、父ちゃんありがとう」
研二は土間を飛び跳ねていた。父親も母親も起きる気配はなかった。岡田は、もう一つの袋の中身はリンゴジュースなのかと覗いて見ると、家の模型だった。正確に言うと家の断面の模型で、その中にウサギのキャラクターの人形が二階の部屋でテレビを見ていた。箱も説明書も無く、たぶんどこかに捨ててあったものを拾ってきたのだろう。でも岡田は、その家の断面の模型が気に入った。ウサギのキャラクターの人形を二階から一階のリビングに移してくつろがせたり、キッチンで料理を作らせたり、二階の寝室のふかふかのベッドで眠らせたりして遊んだ。岡田も研二も冬休みの間ほとんど外へは出ずに各々家の中で静かに遊んだ。
新学期が始まる頃には、岡田はすっかり自分をウサギのキャラクターの人形に投影していて、その素敵な模型の家で暮らしている感じだった。ウサギのキャラクターの人形にはウッキョムさんと名前を付けて、事あるごとに会話をしていた。何かを思い付く度に、それはウッキョムさんがそう言っていたと思い込んだ。
「ねぇ、歯が捥げる夢ばみたよ」
岡田がウッキョムさんへ話しかけると、ウッキョムさんは全てを見通したように答えてくれる。
「それは海老を食ったからだよ」
「いや、海老なんて高こうて買えんよ」
「えびせん食べなかった?」
「あ、食った」
「それも海老だから。海老食うと歯が捥げるよ」
「うわ、みんなに教えてやらんきゃ」
岡田は、その家でステーキを食べた。お洒落な風呂に入った。ベッドに身体が沈み込んでよく眠れた。テレビでは毎日見たかったアニメが放送されている。最高の暮らしだ。何をやってもいい。それはテレビを見ている時だった。ふとウッキョムさんを呼んでみたら返事がなかった。ウッキョムさんどこ行った?あれ?向こう側に土間がある。
声は聞こえないけど母親が激しく怒鳴ったような仕草が見えて、研二が何かを抱いて子供部屋へと逃げ込む。研二は何を抱いている?岡田は二階のテレビを見ている部屋から土間の子供部屋をよく見る。研二の腕に抱かれているものはウサギだった。どういう訳だかその生きたウサギはウッキョムさんだ。岡田はそこで事の重大さに気付いた。どんなに大声を出しても向こう側へは届かない。
ただ、ここでの暮らしも悪くない。岡田はそんな事を思いながら二階の部屋でテレビを見ている。
〈了〉