1.フィーネ
柔らかい物が全身をくるんでいる。ふわふわしていて、あったかい。私はこれを知っている。毎朝毎朝、それから離れるのが難しいくらい愛しいそれ。
おかしいな、私が寝っ転がっていた場所は、固くて冷たい岩の上だった気がするのに。いつの間に最愛のお布団に姿を変えたんだろうか。ゆっるゆるに緩んだ思考でそんなことを考えながらゆっくりと瞼を上げる。いつもよりも半分も開かなかったが、それでも見えた景色に何度も瞬きを繰り返した。
外じゃなかった。
そういえば、さわさわと優しく歌っていた川の音が聞こえない。代わりにチュンチュンと可愛らしい小鳥の囀りが耳に届く。暖かみのある木目のある天井が視界いっぱいに広がっていて、視線を動かすと柔らかい陽の光が窓から注がれていた。やっぱり、外じゃない。ベッドで寝ているのだから当たり前なのだが、ここは室内だ。
驚きで思わず飛び起きる。部屋はこじんまりとした寝室だった。ベッドの他に小さな箪笥と折り畳みの机と椅子があるだけで他には何もない。というよりも、他には何も置けないくらい狭い。物置部屋と言われてもおかしくないレベルだ。それでも小さな窓からは十分な光が入ってるし、家具も部屋の雰囲気も柔らかくて、とても落ち着く。一言で言えば、好みの部屋だった。まあ、ここで私の好みを言っていても仕方ないのだが……。
なんて、言っている場合じゃなかった。ここはどこなんだろうか。そっと窓の外に視線を向ければ、昨日散々歩き回った山と同じ景色が広がっている。どうやら未だ山の中なのは変わらないらしい。ということは、あの場でうっかり眠った私を誰かが見つけてここに運んでくれたんだろうか。
生憎と言っていいのか、今の私は五歳程度の体型で、大人なら簡単に運べてしまうだろう。救ってくれたのか、それとも逆の意図なのかはわからない。言えることはあの場で朝まで寝ていたら今度は風邪をひいて動けなかったかもしれないということだ。今私が立たされている状況はいいか悪いか判断はできないけれど、ひとまず気持ちのいいベッドをありがとうと心の中で述べた。
「やっと起きたかね」
ノックも無しに入って来た人の声に体を震わせて振り返る。小さなお盆に湯気を立てたスープとパンを乗せて部屋に入って来たのはお婆さんだった。口元と目元に軽い皺をつくり、白髪混じりの亜麻色の髪を後ろで編み込みしてまとめている上品な髪形をした彼女は、翡翠色の目をこちらに向けていた。少し強い視線に僅かに体を固くする。
お婆さんと言ったが、それでも年齢は五十前後くらいだろう。山の中で暮らしているせいなのか、全然衰えているようには見えない。腰も曲がっていないし、動きもしっかりしている。白髪が無ければ三十代後半に見えたかもしれない。
「あんた、川のところで眠りこけてたんだよ。てっきり死体かと思っちまったよ。紛らわしいね」
「え、あ、ご、ごめんなさ、い」
「フン。まあいい。けれど、あんな場所で死なれたら水汲むときに迷惑だからね。仕方ないから連れてきてやったんだ。ほら、ご飯だよ。食べな」
少し高圧的な言い方ではあるけれど、全然怖くない。態度と行動が全く合っていなくて、思わずパチクリと瞬きをしてしまった。布団の上に乗せるように置かれたご飯とお婆さんを順番に見る。
ふわりと漂うのはスープの香りだ。野菜と卵を使ったあっさりスープなのだろう。皿の底まで見えるくらい透き通ったお汁は美味しそうだった。すぐにでも食いつきたい気持ちをグッと堪えて、もう一度お婆さんに視線を向ける。そんな私を怪訝な表情で見やった彼女は、グッと眉間に皺を寄せた。
「何だい? 毒でも入ってると思ってるのかい?」
「いえ、そんなこと思ってないです。えっと、助けてくれてありがとうございます。とってもお腹が空いてたの。いただきます」
小さく頭を下げてスプーンを手に取る。口に広がる優しい味がじんわりと体に染みわたる気がした。昨日の昼から何も食べてなかったこの体に、ちょうどいい味だった。薄味なのも、お婆さんの気遣いなのかもしれない。そう思うと余計に美味しくて、もう一度すくって口に含む。
「おいしい……」
パンもこんな山奥にあるとは思えないほど柔らかくて美味しかった。慌てずに味わうように咀嚼する。その間、お婆さんは何も言わずにただ黙って見守ってくれた。何だか恥ずかしいけれど、気にしない。最後の一口を食べきって大きく溜め息をついた。満ち足りた気分で笑って顔を上げれば、僅かに目を丸くして視線を向けるお婆さんと目が合う。
「ご馳走様です。美味しかったです」
「あ、ああ」
「あの、それでその、迷惑ついでに私の事情をお話したいんですけど、いいですか?」
ついでにお願いもしたいけれど、それを受けるかどうかはまず事情を話してからじゃないと駄目だろう。一方的に話をしてしまうのも、お婆さんに負担をかけてしまう。だけど、このまま何も言わずにいても結局は迷惑かけてしまうだけだし。そのまま話もしないうちに追い出されてしまうのはちょっと困る。
でも、本来なら放っておいてもよかったのに、ここまで運んでくれた彼女を、追い出されたからといって恨むつもりもない。とにかく話を聞いてくれないかなと淡い期待を持って口にした。もし駄目なら潔くこの家からお暇しよう。
追い出されたとしても恨むつもりはない。ないけど……、それでも心の中で悪態をつくくらいは許してほしい。
ドキドキしながら彼女からの反応を待っていると、空になった器をお盆ごと取られる。
「その話、どうせ長いんだろう。食後のお茶を淹れてやるからこっちに来な」
「え?」
「何だい、話したいんじゃないのかい?」
意外にもあっさり許してもらえて拍子抜けする。けれども、もたもたして気分が変わったなんて言われても困る。いいえ、とすぐに力強く首を振ってベッドから下りた。途端、膝に力が入らず床に倒れ込む。およよ、何これ生まれたての小鹿じゃない?
思えばこんな小さな体で丸一日ほとんど休憩も取らずに歩き続けていたんだ。こうなるのは当然か。いや、けど、どうしようこれ! 歩けないんだけど! 若干足の裏もヒリヒリ痛むし!
昨日一日この体を使っていたのに、それでもまだ幼い体を使うという感覚に慣れない。こんなにもすぐに体力がなくなって、ガタガタになってしまうなんて。なんて脆いのか。
「まったく、しょうがないねえ!」
「え、ひゃあ! え、おばあさん!」
「婆さんじゃないよ! フィーネって呼びな! ほら、運んでやるから暴れるんじゃないよ!」
なんて豪快……いや、逞しいお婆さんなんだ! 確かにこの家まで運んでくれたのは彼女なんだから、今更隣の部屋に運ぶくらい訳はないんでしょうけど。それでも見た目年齢五十過ぎに入っている彼女が、そんな簡単に私を抱き上げるなんて思っていなかったからびっくりだ。しかも安定した足取りでさっさと隣のリビングだと思われる部屋にある椅子に下ろされて、彼女自身は部屋の隅にあるキッチンへと向かっていった。あらかじめ沸かしておいたお湯を手際よくポットに入れてこちらに持ってくる。
「疲労回復にいいと言われている薬草茶だよ。わたしゃああまり甘いものを取らないのに前に品売りの小僧が押し付けて来た蜂蜜が余ってたからあんたはそれを淹れて飲みな」
「あ、ありがとう、ございます」
薬草のお茶なんて言われるとすんごい苦そうなイメージだ。けれど、漂ってくる香りは紅茶に近いように思える。クンクンとはしたいけれど匂いを嗅ぎつつも、言われた通り蜂蜜を少しだけ入れる。そっと一口飲めば、意外にも苦味なんてものはなかったし、渋味も少ないように思えた。拍子抜けしつつもゴクゴクと喉を鳴らして飲む。スープで誤魔化していたけど、大分喉が渇いていたようだ。
「……あんた、何処のお嬢さんだい? 人攫いでもあったのかい?」
「んぐっ」
思いがけない問いかけにお茶が気管に入りかけた。どうにか堪えて落ち着けるけど、今ので無駄な体力を使った気がする。この体は元より力がないんだろうか。
たったそれだけでぐったりとしつつ、傾きかけた体を起こした。
「えっと、その……実は、わからないんです」
「は?」
「私が一体誰なのか、どうして山にいたのか、まったく何も、覚えてなくて、ですね」
気づけば山の中で寝ていたこと。傍には誰もいなかったこと。もしかしたら両親とはぐれただけかもしれない。そう思って一日中歩き回ったけれど、結局誰にも会うこともなく、あの場所で眠ってしまったこと。全て順を追って話した。その間、お婆さん――フィーネさんは難しい顔をして、ずっと私のことを見つめていた。少しだけ圧を感じる視線ではあるけれど、責めているようにも憐れんでいるようにも見えない。ただ、真剣に聞いてくれているだけのようだ。
不思議な人だと思う。こんな幼子の言葉をきちんと聞いてくれている。起きてから今まで、大人を相手にしているような扱いに、じわじわと嬉しさが込み上げてくる。
「ふぅん、なるほどねぇ。それで、あんたはどうしたいんだい?」
「まだ両親とはぐれたという可能性が無くなったわけではないので、この山の一番近くの街か村で捜索が出ていないか確認したいな、と。というか、そういうことでもない限り、私の両親が誰なのかもわからないかなあって」
「記憶喪失ねえ。その割にはあんたの子供らしからぬ言葉遣いは違和感しかないけど。人里におりたいなら子供らしい態度を演じときな。私相手にそれは不要だけど、他の大人には見繕うことも必要だよ」
「フィーネさんには、いらないんですか?」
「あんたのそれが演技ではないってわかるからね。人の本質を見るのは結構得意なんだよ。まあ、年の功って言うのもあるけどね。だから、あんたがわざと私に子供らしく振る舞ってきたら、胡散臭さで話も聞かなかったかもね」
綺麗な翡翠の瞳が私を射抜く。たった少しだけの会話で、私の言葉を何もかも信じたという顔にゾクリと悪寒に近いものが走った。
きっとこの人はただ者じゃないんだろう。こんな人のいない山奥でたった一人で暮らしているのだから。人と過ごすのが嫌いなのかも。そう思ったけれど、その割には私には普通に対応している気がするし。
子供なのに大人のような態度の私を、それなのに記憶喪失というちぐはぐな私を、まっすぐに見つめては見極める。
それは、それだけこの人がいろんな人たちを見てきた証拠。そんな人に偶然にも出会い、そして私は縋った。それなら、この人の言うことをちゃんと聞かないと。
「――うん、わかったよフィーネさん」
にっこりとただ純粋に微笑んだ。屈託のない笑顔、なんて意識したことはないけれど、気遣いをする表情はきっと〝子供らしく〟ない。だから、それを取り除けばいいだけ。素直に笑みを浮かべて、単純な言葉を連ねる。それだけで十分なんだろう。
「上出来だよ。まあ、厄介だと知っておきながら拾ったのは私だからね。その分の責任は取ってやるよ。そうと決まったら山を下りるか」
まるで買い物でもしようか、なんて軽いノリで言われたことに驚く。もしかして昨日頑張ったお蔭で人里に大分近づいていたのだろうか。驚いた顔でフィーネさんを見上げれば、彼女は同時に椅子から立ち上がっていた。
「人探しするなら少し大きなところがいいね。それならベッサの街よりも王都が一番か」
「あの、それはここから近いんですか?」
「いんや、普通に行けば徒歩と馬車で丸一日以上はかかるね」
あっさりと言われた言葉に衝撃を受ける。丸一日。しかもフィーネさんが言うなら私の足だともっとかかるはず。そんな場所に今からこんなボロボロの状態で行くなんて無理だ。けれど、私が行かないと話にならないし。
ショックで硬直していれば、彼女はそんな私に気付いてニッと豪快な笑みを浮かべた。
「なあに、それでもすぐに着けるよ。私の魔法を使えばね」
そしてまたもやあっさりと口にしたその言葉は、今まで一番聞き馴染みのない、到底信じることはできない単語だった。
なるほど。
薄々もしかしてとは思っていたけれど、どうやら私は異世界? に、来てしまったようです。