幻燈
先生の銀鼠色のお召しの襟元からは、白い手が一つ、上に向かって伸びていました。白く、家事仕事などとは無縁であろう綺麗な手でした。
先生はその手を愛で、また、手も先生の愛情に応えるように甲斐甲斐しくしておりました。先生の唇の端に食べ物のかすがついた時にはそれを取り、先生が涙する時には、その流れる雫をそっと拭って、それは献身的な在り様でした。いえ、献身的とは語弊がありますね、その手には「身」はなかったのですから。不思議なことにその手は私以外には見えないようでした。
先生が結婚なさらず、独り身を通すのも道理でした。なぜならその手以上に、先生の伴侶に相応しいと思える相手がいなかったからです。私は一度ならず、手について先生に尋ねようとしたことがあります。
しかしいつもいつも、先生に向けようとする言の葉は咽喉の奥に留まり、決して宙に放たれることはございませんでした。私は先生をお慕いしておりましたが、先生とその手の間柄について、何かこう、少しでも無粋をすることはひどく気が引けてなりませんでした。大袈裟に言うのであればそれは聖域に踏み込むことのように思えたのです。
ゆく春も照る夏も去る秋も黙する冬も、手は先生と共にありました。そうして私にはそのことが、これ以上ないくらいにとても自然に感じられました。
虫のすだくある秋の晩、先生の部屋の前の廊下を通りかかると、談笑が聴こえて参りました。談笑と申しましても響くのは先生の楽しそうな、それでいて慈しむような声ばかり。けれど確かに、先生の声に応答し、また、語り掛ける存在があると察せられました。
それはあの手の他にはございませんでしょう。
先生には聴こえるのです。手の声が。
私はその瞬間、激しい嫉妬に駆られました。その相手は先生であり、手でした。比翼連理と申せど、かほどに睦まじく互いを想い合う者同士があろうか。私のきつく閉ざしたまなうらに、幻燈のように目まぐるしい光が巡り明滅を繰り返しました。
私はその晩、先生がお休みになられるのを待って、先生の寝所に忍び込みました。書生としてお宅に置いていただいている身です。家の中の勝手は解ります。私は刺身包丁を手に持っていました。暗い寝所の中、刺身包丁の銀が鈍くぎらりと物申しました。
それから私は、先生の襟元から出ている手の付け根に刃をあて、少しずつ少しずつ、丁寧に斬ってゆきました。手は大人しく、時折、ぴくぴくと痙攣する他は常と変わりませんでした。赤く溢れるものが先生の襟元をとても汚したものですから、私はそれだけが気掛かりでした。
ようやく手を全て切り離した後、私はそれを庭の桜の下に埋めました。そうして私の犯行の全てを入念に隠蔽してから、私室に入りました。
眠ることなど出来まいと思っていたのですが、私は気づくと文机に突っ伏して寝ていました。朝の白々した光と雀の鳴き声に目覚めると、右手が激しく痛みます。まるで手首から先を喪失したかのような痛みに、私は呻きました。これはどうしたことと思いながら、身体を引き摺り先生の寝所に向かうと、先生は事切れておいででした。襟元にいつもの手がありません。当然です。私が切断してしまったのですから。
ぽと。
落下音が聴こえました。
それは私の右手が落ちた音でした。
初め、私は自分が絶叫していることについぞ気づきませんでした。
私は全てを得心しました。あの右手の主は誰であったのか、真に先生の愛情を享受していたのは誰であったのか。私は、昨日、手を埋めた庭に裸足で降り立ち、手と一緒に埋めた刺身包丁を掘り出しました。それを首に当てて、少しずつ、少しずつ、丁寧に斬ってゆきました。
最期に記憶しているのは、紅葉した桜の葉、それでなくとも赤く見える桜の葉。
まるで幻燈のようでした。