夕暮れラジオ
ベッドに寝転がって、ラジオに耳を澄ましている。私も、ユイも。機械の調子が悪いのか、それとも放送局から遠いのか、たまにノイズが走って、聞き心地はあまり良くない。
『おいおいお前ら、生きてんのか? 今日のリクエストもゼロだったぜ。っつーわけで、またオレのお気に入りから一曲、聴いてもらおうか』
変なしゃべり方をする女のひと。いつも日が沈むころになると、彼女の声と、彼女が流しているらしい知らない誰かの歌が聞こえる。この数字や記号を見ると昔はもっとたくさんの人の声が聞こえたのかもしれない。残念ながら、いまは彼女の声しか聞こえない。それ以外の時間帯は雑音が流れるだけだった。
彼女のお気に入りは、夕暮れに似合うしっとりとした曲だった。歌詞の言葉はわかるものではないけれど、男のしわがれたボーカルから、いくばくかの寂寥を感じる。
「……さみしい曲だね」
ユイもそう思ったらしい。
「そうかもね」
天井を眺めながら耳を傾ける。悪い曲ではない。
こうやって意味のわからない歌を聞くことのほかに、私たちがやることはほんどない。せいぜいふたりで話をするか、その辺に転がっている本を読むかだ。
私たちは、生きるために生きている。明日寝たり食べたりするために、今日寝たり食べたりしている。ときどきそう思う。
『──天国ではな、みんな海の話をするんだってよ』
曲が終わったあと、彼女は唐突にそう切り出した。
『遠い昔の映像で、そう言ってたんだ。ホントかどうかはわからねえ。オレもその海とやらを見たことねえしな。どうやら、ここからじゃ、ずいぶん離れちまってるらしい。お前らも、死ぬ前に一回くらい見てみたらどうだ?』
それじゃ、今日はこの辺で。ハヴァ・グッライ。
彼女の放送が終わると、ラジオは雑音を吐き出すだけになる。電源を落とし、ベッドサイドに立てかけた。
「ねえ、ちひろ」
ユイの小さな体が私に向く。左腕に彼女の体温を感じる。私よりも少しあたたかい。
「なに?」
「海って、どういうところ?」
「さあ……。私も本物を見たことはないけど。どこかの本に写真が載ってて……」
あいまいな記憶を頼りに、どこまでも青い水が広がってるとか、高いところは白く泡が立ってて、とか、ユイに説明する。私には十分にあの写真を言い表すことはできそうにない。かといって、絵が描けるわけでもないし。
案の定、ユイには全然分かってもらえなかった。
「ちひろ……海、行ってみたい」
私の目をのぞき込んでくる。あの写真の水のような群青色の瞳。そういうふうに見つめられると、無下にすることもできない。幼いくせに、ずるがしこい。
「……いいよ。でも、どっちが海かとか、全然わかんないからね……」
地図もなければ、今私たちがどこにいるのかも見当がつかない。海の場所なんて、分かるはずがなかった。私たちにあるのは、無限にも思える時間だけだ。
「むむむ……」
ユイが眉根を寄せて考える。
「あ! ラジオのお姉さんに聞くとか! なんか知ってる感じだったし」
ラジオのお姉さんっていうのは、あの声の主のことだろう。
「そのラジオのお姉さんがどこにいるのか分からないじゃん……」
「あーそっか……。こっちの声は聞こえないのかな」
ラジオにそんな便利な機能はない。と思う。少なくとも私には、どうにもできない。ユイはボタンをあれこれ押して、聞こえますかー、とかやっていたけど、彼女が私たちの声に反応する気配はなかった。
「……まあ、とりあえず歩いてみよっか」
ユイがとてもうれしそうな顔をする。花が咲くみたいだ。私まで表情がほころびそうになる。
確か、そんなふうにして始めた旅だった。
***
無人の街を道に沿って歩き続ける。リュックを背負った私の半歩先に、ワンピースの裾を揺らすユイがいる。
塗装の剥がれた建物が軒を連ねている。割れたガラスが道路にまで散乱しているところもあった。見通しの良くなった窓から中を覗いてみると、生活感を残した家具やら食器やらが悲しそうに見つめ返してくる。
人がいたとき、ここはどんな街だったんだろう。人がいたのはどれくらい昔の話なのだろう。どうして誰もいなくなってしまったんだろう……。どれに対する答えも、私は持ち合わせていない。
白く輝く太陽がひびわれたアスファルトを灼いている。夜はだいぶ過ごしやすくなったとはいえ、昼間の暑さは健在だった。ブラウスが汗を吸い込んで肌に張り付き、うっとうしいことこの上ない。革靴を脱いでしまいたい。日陰を選んで歩いているつもりだが、暑いものは暑い。
「ユイ、ちょっと休憩……」
「えー、またー?」
座るのにちょうどいい日陰の段差を見つけて言うと、彼女は涼しい顔をして振り返る。瞳と同じ色をした髪が風になびく。汗一つかいていない。
持ってきた水でのどを潤す。生ぬるいが無いよりましだ。
「飲む?」
ユイに差し出す。飲むときに、細いのどが魚みたいに動いて、面白い。
「ちひろ、疲れた?」
「ううん、大丈夫。今日の宿も見つけなきゃだしね」
自分より一回り小さいどころか、半分くらいの年の女の子に心配される日が来ようとは。日頃の運動不足を呪うばかりだ。
「……そういえば、ユイって何歳だっけ」
ユイは首を傾げる。そして体をぺたぺた触り始めた。頬、胸、おなか、おしり。ひとしきりやって、また首をひねる。
「わかんない。ちひろは?」
「………」
私も自分の胸やおしりを触ってみた。少しだけ膨らんでいるところもあるような、ないような感じだった。あと、白いブラウスに紺色のスカート──「制服」っていう格好だ。
「わかんない」
にへへ、と笑いながら言う。ユイも笑う。自分のことさえほとんどわからない。それがことさら残念だとも思わない。
「わかんないけど、十五才くらいかな?」
「ふーん。じゃあ、わたしも十五才ね」
ユイが大胆なことをのたまう。
「それは違うんじゃないかな……」
「えー、だめ?」
「……まあ、ダメではないけど」
私の数字も正確なものか分からないし、それなら別にユイがどれだけ鯖を読んでもいいかもしれない。年齢は、正しい数字じゃなきゃ意味がないから。いや、正しくても間違っていても、私たちには何の意味もないけど。
「そろそろ行きますか……」
立ち上がって、また歩き始める。今は海を見ることだけが、私たちにとって意味のあることだった。
わざわざ暑い中を押して歩いているのには理由がある。
人のいない町の夜はとても恐ろしい。今にもへし折れそうな街灯が灯ることはなく、月明かりだけを頼りに歩くのは相応の危険が伴う。そして何より厄介なのは──。
「ユイ、待って。あそこ」
指を差した先にいるのは一匹の犬だった。人間に飼われていたものが野生になったのか、それとも山から迷い込んだのかわからないけど、多くの場合、凶暴化している。もしくは──この街はもう自然の一部で、迷い込んでいるのは私たちの方、とも言える。
彼らも生きるのに必死だ。追いかけられれば走って逃げても勝ち目はない。昼ならこうして遠くから見つけることができるが、夜ならそうもいかず、何より逃げるのが難しくなる。
犬と一戦交えるほどの力を持たない私たちは、大きな音を立てないようにして、離れていくのを待つ。
「わたしたちのことばが通じたら、こんなことしなくていいのにね」
「うーん……それはどうかな」
言葉で高度なやりとりができるのに、命を賭して喧嘩をする動物もいるらしい。
「わたしとちひろは、けんかしないよ? ことばが通じるから」
「……言葉だけじゃ、どうにもならないこともあるんだと思う」
「………」
じゃあ、とユイが暗い声を出す。
「わたしとちひろも、いつかはけんかしちゃうってこと?」
そんなことは。ありえないと言い切れるか。
「………ユイと私がしたくないって思ってれば、喧嘩はしないよ」
そっか、とユイは神妙な面持ちになる。喧嘩したくないって心の中で唱えてくれているのかもしれない。
私はどうにもならないことの内容を考えていた。ユイと私の間に、そんなものは果たしてあるのだろうか。
***
向かう先にある太陽が赤く燃えている。今日の行程はこれまでらしい。旅に終わりは見えないけど、私たちの命にだってそうだ。焦ることはない。それより、今日の宿を探さないと。
宿の第一の条件は、しっかりした密室を作れること。眠っている間に獣に襲われて死んでしまってはたまらない。まだ海を見ていないし、死ぬわけにもいかない。あの世で手持ち無沙汰な時間を過ごすことになってしまう。
それから、なるべく清潔であること。食べ物や水はオプション。電気が通っているとすごく助かる。めったにないけど。
いろんなことを考え、私たちが選んだのは小さな病院だった。家々の間に埋もれるように立っている。それでも病院だとわかったのは、大きな看板が立っていたからだ。
ドアとシャッターで密閉されていて、住みよさそうな印象を受ける。ガラス張りの自動ドアをこじ開け、土足で踏み入る。多少散乱してるけど、暮らせないほどじゃない。食料はないかな、なんて薬剤ばっかの戸棚を探してみる。ユイも部屋のあちこちを探してくれたが、芳しい知らせは聞けなかった。見つけられたのは、蛆がわいていたり、明らかに腐っていたりするものばかりだ。
「食べ物はなさそうかも。別のおうちから分けてもらおっか」
そだね、とユイがうなづく。
学校やオフィスビルだった建物には、私たちの目的とするものがあることが多い。残念ながらここは住宅街らしく、あたりには見当たらない。民家に押し入るしかないみたいだ。誰もいないと分かっているし、誰にとがめられることもないとはいえ、他人の家に入ることに少し足踏みしてしまう。
「あっ、ユイ」
ユイはそんな抵抗をみじんも感じないらしく、ガラスの割れた窓から堂々と入っていった。どうしてだろう、と思う。私に備わっている気持ちが、ユイにはないみたいだ。それは私がスカートとブラウスを身に着けていて、ユイが白いワンピースを着ていることにも関係があるんだろうか。
考えても詮がない。抵抗を飲み込んで、私も窓から失礼する。
中はリビングらしい部屋だった。フローリングの床には、うっすらと砂埃がこびりついている。ユイが降り立った場所がきれいに足跡になっていた。
ユイはさっさと家の中に歩を進めてしまう。もっと危なげなく行動してほしい。家の中に何もいないとも限らないのだから。もし入り込んだ獣に彼女が襲われたら、私じゃ助け出すこともできない。
慣れた様子で戸棚を片っ端から開けていく。私たちが求めるものが冷蔵庫にないことは、彼女もよくわかっている。私もユイの隣で黙々と作業を進める。こうしているとまるで泥棒みたいだった。だとすれば、私たちが死んだあと行くのは、天国じゃなくて地獄なのか。
缶詰やお菓子をリュックサックに詰め込む。同じ種類がたくさんあるものは、一つだけ開けて匂いを嗅いだり味見したりする。開けてみないと腐っているかどうかはわからない。たまにはお肉や魚も食べたいけど、足が早いものが多い。仕方なく切り捨てる。
食べ物と飲み物をあらかた詰め終わると、今度はほかに使えそうなものがないか家探しする。あのラジオもどこかの家から持ってきたものだった。まだ使える機械は珍しいので、使い方が分かりそうなものはなるべく持って帰ることにしている。まあ、今回は収穫がなさそうだけど。
「ちひろ、これ、持って帰っていい?」
ユイがぬいぐるみを持ってくる。ほこりを払ってやると、白いクラゲであることがわかる。
また罪悪感が鎌首をもたげかけた。ぬいぐるみは、私たちが生きるのに必要ではない。なら、むやみに持ち去るべきではないんじゃないか、と。でもユイのキラキラした目を見ていると、「ダメ」と言うことにも罪を感じてしまう。
「いいよ。好きにして」
結局、私は目の前のひとを悲しませないことを選ぶ。
暗くなる前に民家を出て今日の宿に戻った。ちょうど日が沈みだす時間帯だ。日課のラジオの電源をつける。
とぎれとぎれに例の女のひとの声が聞こえるが、なんていっているのかはもう全く分からなくなっている。あの家で天国の話を聞いて、海を見るために歩き始めてから、ノイズがどんどんうるさくなっていた。彼女のいる場所は海より遠いと言っていたことを考えると、本当に私たちは海に近づいているというのもありうる。
雑音に耳を傾けていても仕方がない。ラジオの電源を切る。もうこの日課も、明日にはお終いかもしれない。
ユイと一緒に缶詰とお菓子の晩ごはんを食べたあと、ベッドのほこりを払う。病院だっただけあって、今まで泊まってきたどの民家よりもこぎれいにしてあった。
二人で寝るには小さかったので、隣りにあるのとくっつけた。ユイが飛び乗ろうとする。硬いよ、と言ってみると、そっかー、と残念そうに横になる。
「もう聞こえないね。あのひとの声」
ユイがラジオの話をしているのはわかった。
「もうそのくらい離れちゃったってことかな。結構歩いたからね」
詳しい距離はわからないけど、あの日から数日間、ずっと道に沿ってまっすぐ歩き続けている。もし海を見る前にこの道が終わってしまったらどうしよう、と考えていた。少し戻って、今度は別の道をまた終わりまで歩くのだろうか。
「ちひろ」
「なに?」
「わたしたちは、死んだらどうなるのかな」
あまりにも唐突だったので、思わずユイに視線を向けてしまう。彼女の瞳には、今日手に入れたクラゲだけが映っている。口調も表情も真剣そのものだった。
……そんな表情も、出来たんだ。
彼女の向こう側にある小さな窓から、少し物足りない月がのぞいている。白い月影に、彼女の肌が透き通る。
目が合った。もしかすると、彼女は、あのラジオを聞いた時からずっとそのことを考えていたのかもしれない。あの女のひとが、天国と海の話をしてから、ずっと。
口ごもる。わからない、という答えは簡単だけど、彼女が求めているのはたぶんそうじゃない。
ユイが瞬きをした。直後、彼女の瞳に悲しみの色が浮かび、私は少し焦った。
彼女のまぶたがまた静かに落ちる。すぐに寝息を立て始めるユイに苦笑しながら、返答に窮していた私は、どこかで安心していた。
***
まぶしさに目を覚ます。ユイの寝顔が目の前にあるのは、もう見慣れた光景だ。たいして驚きはしない。
やけに暑かった。太陽も高い。きっともう昼過ぎだ。眠りが浅かったのか、体にわずかに疲労感が残っている。ユイが起きるまで、しばらく本でも読もう、と思った矢先、彼女が目を薄く開けた。
「……ちひろ、起きた?」
なにそれ、とふき出してしまう。寝てたのはユイじゃん。
寝ぼけたユイがちゃんと目を覚ましてから、朝ごはんのビスケットを食べ、私たちは病院を後にする。気に入ったのか、ユイのカバンからはクラゲのぬいぐるみがはみ出ていた。昨日となんら代わり映えしない街を、道に沿ってただ歩く。朝の涼しい時間を移動に費やせなかったのは、惜しいことをしたようにも思える。
額からこぼれた汗がアスファルトにしみを作る。太陽が低くなり始めたころに、近くの小屋のような建物の屋根を借りて休憩する。休憩が必要なのはもっぱら私で、ユイは果敢にも奥の方へ入っていってしまう。止める元気もない私は、座ったままユイの背中をぼーっと眺めていた。
ユイが振り向いて、見て見て、と手招きする。うれしそうな表情を見るとあしらうこともためらわれて、重い腰を上げざるを得なくなる。
「どうしたの」
ユイは視線をさびた鉄柵の向こう側に向けていた。つられて目を移すと、まるでそこだけが神聖な場所であるかのように四角く落ちくぼんだ空間がある。
いや、私たちが立っている場所が高く作られているのだ。低くなったところは雑草に覆われている。最初はこの小屋の庭かと思ったが、それにしては細長く不自然な形をしていた。
鉄柵を乗り越え、庭に近づく。ユイも後からついてきた。覗き込むと、緑に邪魔されながらも二本の鋼鉄が見える。
「駅だ……」
駅を使ったことなんてないはずなのに、その言葉がひどく口なじみして感じる。駅。電車に乗ったり、降りたりする場所。
「えき……?」
「うん。駅」
私たちが立っているのはホームだった場所らしい。蔦がひさしを埋め尽くしている。ここももう使われてはいないだろう。
ホームの端まで歩く。大した距離はない。あまり長い電車は来なかったのかもしれない。
「……もうすぐ、海かもしれない」
ほんとに、とユイが表情を輝かせる。次の駅は、しみずかいがん、と書いてあった。
***
余計なことを言った。もう日が暮れようとしているのに、ユイはかたくなに足を止めようとしなかった。そろそろ宿を探そう、と言うと、とても悲しそうな顔をする。……私はユイに甘すぎるんじゃないか。
進路を線路沿いに変え、トンネルを抜けると、みすぼらしい駅にたどり着く。
どちらに向かえばいいかは分かっていた。喧嘩したわけでもないのに、私たちは無言で山と逆方向へ歩いた。寂しかったのかもしれない。永遠にも思えた旅が終わってしまうことが。それでも、私たちは海を目指す。
目的の場所に着くころには日が落ちきっていた。濃紺の空と淡青の海は、私が見た写真を逆さまにしたような景色だった。月明かりに砂浜の白が浮かび上がるように見え、めまいがする。
現実の海は、思い描いていたそれをはるかに凌駕していた。私が住んでいた世界がひどく小さなものに思えてくる。さざなみに足を踏み入れることさえ怖じてしまう。体をひたしてしまえば、二度と帰ることはできないかもしれない。
風に背を押されるように、ユイが浜辺を歩く。海へと小さな足跡が続いている。ユイの生々しいくるぶしを、波が浚おうとする。嫌な想像が脳裏をよぎり、慌てて靴下と革靴を脱ぎ散らかした。
ユイを追いかけようとして、冷たい砂に足をとられる。うまく走れない。彼女に追いつけないのがもどかしい。彼女のふくらはぎが灰色の海水に侵される。
どういうわけか、私の足を伝う水は、妙に生ぬるかった。それが気持ち悪くて、今すぐにでも戻りたくなる。しかし、彼女が海に拐かされてしまうという焦燥が、それを許してくれなかった。
絶望的な距離を感じた時、ふと彼女が足を止め、私の方を振りかえった。嬉しそうな彼女の顔を見ても、少しも心が落ち着かない。海の色をした瞳が感情を失ったように見え、私を縛り付ける。
「あったかいね」
あったかくて、気持ちいい。ユイはそう言った。ぞくぞくした。そんなはずない。気持ち悪いよ。そう言いたかったのに、言葉にできない。言えば、ユイだけが海に囚われているような気がしてしまう。私はそれを認めたくなかった。
でもこのままじゃ──。
「天国って、こういうところなのかな?」
このままじゃ、私もユイも、海に囚われてしまう。
「……もしかしたら、わたしたち、もう天国にいるのかもね」
「やめて!」
波と風の音に負けないよう、声を上げる。
「そんなわけないじゃん! 私もユイも、生きてるんだよ……?」
ユイが微笑む。いつもの彼女ではないような、大人びた表情だった。水面で踊るように身をひるがえす。水が跳ねて小さな音を立てる。
「たぶん、ここがわたしの居場所なんだ。だってとっても気持ちがいいんだもん。空を切りとる建物もないし、凶暴な犬もいない。ねえ、ちひろもそう思うでしょ?」
かぶりを振る。ユイの手をひっつかむ。彼女は踊るのをやめて、不思議そうに私を見る。
「……帰ろう」
ユイがまた悲しそうな顔をした。でも、今回は私が折れるわけにはいかなかった。
「……ちひろは、海がきらい?」
うん。あんまり好きじゃない。素直に答えると、ユイは私の手を解いて、握り直した。
「じゃあ、しかたないね」
生ぬるい水の外に出る。浜辺で足を乾かしてから、靴を履く。海が追ってくるような気がする。私は振り向かずに歩き始めた。
***
海から夜通し歩き続けて、旅を始めた場所に戻った後、私は泥のように眠った。正常な判断を失っていたらしい、と気づいたのは、あの日ラジオを聞いたベッドの上で目を覚ましたときだった。
空が赤い。朝焼けの赤ではなく、夕暮れの赤だ。ユイは私の腕の中で寝息を立てている。よかった。
ラジオの電源をつけると、あの女のひとの声が聞こえる。
わたしたちは、死んだらどうなるのかな。
あの時、彼女が求めていた答えが、今ならわかる気がした。
ユイが拐かされてしまうと思うと、とたんに怖くなった。私には、命は永遠のように感じられ、私たちにとてつもなく長い時間が残されているかのように思われる。けれど、ユイにとって、私が先にいなくなってしまうというのは、ありふれた可能性なのだと思う。どういうわけか、体を見ると、私の方が長く生きているみたいだから。
同じものを食べて、同じ罪を重ねる私たちは、死ぬときも、死んでからもきっと一緒だ。
根拠も確信もないけど、なんとなく私はそう思う。そうであってほしい。
この言葉を伝えれば、ユイを安心させられるだろうか。彼女の髪を撫でながら、私はそんなことを考えていた。
あとがき
お読みいただきありがとうございます。新井すぐと申します。みなさんの心に何か残るものがあれば幸いです。
※本作は百合誌『Liliest』(2018年11月刊)に掲載した同タイトルの小説を加筆・修正したものです。