表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

と或る聖書の末路

作者: 橋沢高広

 政令指定都市内を流れる一級河川。全てではないが、その下流域では川の土手が舗装され、サイクリングやジョギング、散歩を目的に多くの人が利用している。通勤、通学の為に使う人も珍しくはない。俺も、その一人だ。

 会社へ行く際、俺は約一キロメートルの距離を、この土手を使って最寄りの駅へと徒歩で向かった。帰宅時間は、その日によって違うが、朝は午前七時半頃に利用している。

 土手の川側には堤防があり、その地面よりも約八十五センチメートル高いコンクリートの〈防壁〉が連なっていた。その上部は平らになっており、幅は三十五センチメートル程。ここに腰掛け、休憩している人もいれば、この上で器用に仮眠をしている人も時折、見掛ける。そして、「忘れ物」が多い場所でもあった。

 この土手で〈仕事〉をしていたのだろう。堤防の上にビジネス手帳が置かれていたのを目撃している。

(携帯電話での通話中、この堤防を机代わりにし、手帳にメモをしたものの、これだけを忘れていったのか?)などと考えながらも、それには手を触れない。

 女子の中学生か高校生が使いそうな可愛いイラストが描かれた小さなノートが置かれていた時もある。ビジネス手帳の時には感じなかった〈変な好奇心〉を一瞬、いだいてしまうが、もちろん、それも、そのまま放置した。

 会社から自宅に戻る途中、ここで携帯電話やスマートフォンを見付けた事もある。

 土手の上に街灯はなかったが、周囲にはマンション等の建物があり、そこから漏れる光によって、土手が〈真っ暗〉には、ならない為、堤防の上にある物も、ある程度なら見えるのだ。

 さすがに、この時は警察へ届けた。ちなみに、携帯電話等の「モバイルデバイス」と呼ばれる電子機器は落し物として警察に届け、その持ち主が現れなくても、〈自分の物〉には、ならない。「個人情報のかたまり」という理由で落とし主が現れなかった時の請求権を事前に放棄しなければ、ならないのだ。

 ビデオテープも何度か見掛けている。その背面にあるラベルに手書きで「8/18 彼女のアパート」という文字と共に、ピンク色のハートマークが記されたテープに関しては、「持ち帰って、見たい!」という〈強い〉衝動を覚えたが、生憎、俺はビデオデッキを、もう持っていなかった……。

 風が通り抜け易い川に面した堤防の上とはいえ、その影響を受けない場合も多い様だ。時折、「風で飛んでしまう様な物」も目にする。

 その目撃頻度として高いのが薬であった。プラスチック製のシートに入ったままの薬。何錠か残っている状態だった為、ここで飲み、薬そのものを忘れたのは間違いないだろう。一度だけだが、一錠も使用していないシートが十枚近く置かれていた事がある。

(どうして、こうなった?)と、思わず考え込んだ記憶は今でも鮮明だ。

 最も「悩んだ」のは未開封のコンドーム、しかも、一ダース入りの箱を見掛けた時だった。頭の中を(何故?)という言葉だけが去来し、自分が会社へ向かう途中なのも忘れ、その場に立ちすくみ、数分間、その箱を見詰めてしまった経験を持っている。そして、(何かのドッキリ企画かも知れない!)と、慌てて周囲を見回したのも、今となっては笑い話の一つだ。

 その様な中、最も目にするのが、広い意味での「本」である。「広い意味」としたのは、雑誌もその中に入れる為だ。マンガを始めとし、時には業界誌と呼ばれる一般には流通していない雑誌も、そこに含まれる。

 俺が勤めている会社が関係した業界誌を、ここで見付けた時には心底、驚いた。

(これ、うちの会社から持ち出した本じゃ、ないだろうな!)と、本気で思った程だ。もちろん、その〈犯人〉は俺じゃない。

 雑誌と言えば、いわゆる「エロ雑誌」も例外では、なかった。これは「忘れ物」というより、明らかに「置いていった物」だろうが、これに関しては面白い経験を持っている。

 ある日の朝、堤防の上に「十八歳未満お断り」の雑誌が置いてあった。しかも、割と綺麗な状態である。その日の夜、何となく気になった、このエロ雑誌を探すべく、堤防の上を注視しながら、帰宅したが、その際、エロ雑誌は見掛けていない。翌日の朝、この雑誌を昨日見た場所から四百メートル程、下流の堤防上で発見する。その上、本としては、まだ綺麗な状態だった。

(一度、誰かが持って帰り、また堤防の上に戻したのか?)と思いつつ、会社へ向かう。その夜、昨晩同様、そのエロ雑誌は目にしていない。

 その翌日。天候は雨。駅へ向かう為、土手を歩いていると、昨日よりも二百メートル程、上流側で例のエロ雑誌を見掛けた。さすがに雨を受け、雑誌の紙が水を吸い〈膨れ上がって〉いる。専門的には「水喰い」と呼ばれる……、しかも、かなり〈ひどい〉状況だった。こうなると本は「読める状態」では、なくなる。端的に言えば「単なる紙ゴミ」と化していたのだ。

(このエロ雑誌、ここに置かれて以降、少なくとも二人の人が手にしたな……)と、思いながら会社へと急ぐ。

 文庫本や新書版の本を見掛ける頻度も高い。半面、「二度と、お目に掛からない」場合が、ほとんどだ。本来の所有者が持ち帰ったのか、誰かが拾って行ったのかは知らないが……。一方、明らかに「捨てられた」と思われる汚れた本が数日間、堤防の上に置かれていた事もある。


 二日前の朝。堤防の上に一冊の本が置かれているのに気付く。B6サイズの『新約聖書』だった。一見しただけでは新品の様に見える。

(忘れ物?)と考えつつも、その場を素通りした。俺自身、宗教を信仰していない為、興味が、なかったのだ。

 その夜、『新約聖書』は、まだ、その場にあった。朝、見掛けた時と本の方向は異なっていたが、位置的には、ほとんど動いていない。

 夜半になって雨が降り出したが、朝には止む。

 翌日。その聖書は、まだ同じ場所にあった。雨水を含んだ紙は膨れ上がり、「極度な水喰い状態」となった本の重量は、かなり増え、多少の風では動かない重さになっている筈だ。

 同じ日の会社帰り。駅から川の土手ヘと向かう。その際、(あの聖書、もう堤防の上には、ないだろう)と、確信していた。何故なら、一時的ではあったが、午後から強い風が吹き出し、俺が住む隣町で「突風による被害が出た」という情報も得ていたからである。

 案の定、堤防の上に聖書はなかった。だが、俺は、それを見付けてしまう。土手側に落ちていたのだ。

 この時、俺は酒を呑んでいた。翌日、会社は休みである。妙に、その聖書が気になったものの、(早く帰って寝たい!)という意識が強く、そのまま自宅へと急ぐ。

 次の日。アルコールは体内に残っていなかった。普段と同じ通りに目覚める。同時に何故か、例の『新約聖書』が気になり始めた。

(散歩と称して、土手へ行ってみるか……)と、俺は外出する。

 通勤で使う一級河川の舗装された土手。その一角に本が落ちている。水分を含んだ上に風でページが内側に巻き込まれたらしく、〈異様な膨れ方〉をした『新約聖書』が、そこに存在した。紙自体に汚れはなく、その白さが目に飛び込んで来たが、もう、本として〈機能〉する代物ではない。まともにページをめくるのが不可能な状態である。

 この時、俺は、やはり水喰い状態となった「例のエロ雑誌」を思い出していた。片や信仰上、最も重要な書物である『新約聖書』、片や人間の性的欲望を満たす事を目的とした「エロ雑誌」。その内容は全く異なっているが、同じ「紙」で出来た媒体であるのは間違いない。読めなくなったら、本としての役目を終えるのだ。

 俺の足元には、薄日を浴びた『新約聖書』が落ちている。だが、その存在自体は「単なる紙ゴミ」であった。

と或る聖書の末路(了)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ