弟敵
今年最後の投稿になるかと思います。みなさん、よいお年を!
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「――エリシェナ、手が止まっているぞ」
「あ……申し訳ありません、お父様」
そんなやりとりが聞こえたからつい顔を上げると、少しあわてたように書類――たしか『領地から入った今年の税金のうちわけ』だと父上が言っていたそれに目をむける姉上が見えた。けどそのまま少しの間こっそり見ていたら、姉上が時々窓の方を見ていることに気がついた。
「……エリシェナ」
僕が気づけることに父上が気づかないはずがない。そう思っていたら、公爵の仕事をする机に座っていた父上がまた姉上の名前を呼んだ。いつものお叱りの時の声とはちがって、なんとなく『しかたがないな』というふうに聞こえるのは気のせいだろうか。
「はい、お父様」
「今は学ぶためとはいえ、執務中に気もそぞろでは些細なところでいらぬ見落としをすることになるのだぞ」
「……申し訳ありません」
父上にお叱りを受けて姉上はうなだれた。いつもなら姉上がお叱りを受けているところなんて見たこともないのに、その本当に申し訳なさそうな顔を見るだけで僕まで辛くなってくる。
父上のおっしゃるとおり、今姉上と僕は公爵家の跡取りとして、父上の部屋で仕事を手伝っているところだ。ただ、手伝いと言っても見習いの僕は仕事によく使われる言葉や文の型、算術を学んでいるくらいで、姉上でも誰が決裁してもいいような簡単な仕事しかやっていないと聞いている。父上によると、『少し失敗したくらいでは誰にも迷惑がかからない』ようになっているらしい。
でも、『だからといって生半な覚悟で決裁をするようでは、公爵家の跡を継ぐ資格はないと思え』とも父上がよくおっしゃっているから、いつもなら姉上も僕もとても真剣に仕事に取り組んでいる。将来は公爵家を継ぐ姉上と、その騎士として補佐をする僕にはとても重要なことなんだから、当然だ。
……ただ、ここ最近――具体的に言うと一昨日お爺様がアイツと出発してから、姉上は少しでも暇があると外の景色を眺めるようになった。しかもどうやら無意識のうちに外を見ていたようで、僕が何を見ているのか尋ねるとハッとしたように視線を戻しては「なんでもないですよ」とごまかしていた。そしてまたふとした拍子に窓越しの世界を羨ましそうな目で見る。
それでも昨日までは仕事をしている間に外を見るような事はしてなかったのに……原因は分かり切っている。どれもこれも、ちょくちょく屋敷にやってくる虹色の髪をした小憎たらしいアイツのせいだ。
元々、姉上は冒険譚や英雄譚がとてもお好きだ。そういった物語を読み聞かせてくれる時はとても楽しそうで、そんな姉上を見ていると話の内容もあって、僕もとても楽しくなる。
そんな姉上の元に、臨険士のアイツは本当の冒険譚を届けてしまう。今まで物語の中の出来事だったものを、本当に体験した人間の言葉として聞くことのできる姉上は本当に楽しそうで――姉上をそんな顔にしてあげるのは、いつか強くなった僕の役目だと思っていたのに。
最初は駆け出しだから大した話はできないだろうって思ってたのに、ただの採取依頼でも、アイツが話せばちょっとした危険と緊張の潜んだ冒険になってしまう。近くの森に行って帰ってきたっていうだけの事のはずなのに、ついつい続きが気になってドキドキしてしまうのがなんだか負けた気分になる。
それでも口だけ達者なヤツならまだよかったのに、ちゃんと強いところがまた憎たらしい。屋敷に来るたび稽古を付けてもらうという理由で本気で倒しにかかってるのに、いつも笑いながらいなされてしまうのが自分でも情けない。
一度なんくせ付けて父上の守りの騎士をけしかけた時は決着がつかなかったけど、終わってみれば騎士が全身汗にぬれて肩で息をしていたのに対して、アイツは涼しい顔で平然としていた。あのまま続けていたらどっちが勝ってたかなんて誰にでもわかる。
こっそりといつか必ず倒すと誓っているけれど、アイツは姉上にとって、まさに絵に描いたような臨険士だった。しかも姉上とほとんど年が変わらなくて、見た目もかなり――ちがう、そこそこ整っているのも評価が高いようだ。まだ駆け出しに近いのも、『これから英雄になっていくかもしれない人と親しくできる』というところがいいらしい。
「――カイウス、お前も手が止まっているぞ」
急にそんな風に父上に呼びかけられて、いつの間にか仕事をにらむことしかしていなかったことにハッと気付いた。
「も、申し訳ありません父上!」
アイツのことを考えていたせいで、僕もお叱りを受けるはめになった。これもアイツのせいだ。本当に腹が立つ。
「……よいか、我が子達よ」
そう思いながらも急いで続きに取りかかろうとペンを握り直したら、おもむろに父上がお話しを始めたので慌てて顔を上げた。チラッと見れば、姉上も書類から顔を上げてしっかりと父上の顔を見ている。
「何事にも心囚われるなとは言わん。私とて人の身である以上、気を取られる事象には事欠かん。だがそれこそが『人』であり、『人』であるからこそ人々も導く者と仰ぐ。何も感じず何も思わず、ただ定められた事を繰り返すだけの者に人々の上に立つ資格などない」
そう話しながらも書類をめくり、僕とは比べものにならない速さでペンを動かす父上は、その言葉にあるような何か他に気になることがあるような人には見えない。
「だが、時に我々は『人』であることを忘れねばならぬ。『人』であっては進めぬ道があり、救えぬモノがある。この相反する宿業を背負うからこそ、人々は我らを貴き者と恐れ敬うのである」
そこで一区切り付いたのか、父上はペンを机に置くと両手を軽く組み合わせ、強い目で姉上とボクを見つめた。
「然して、だからこそ心に囲いを作れ。常は『人』としてあり、そして『人』であることを忘れなければならぬ時、己の『人』を囲うのだ。それが我ら国に仕えし者の在り方だ」
「はい、お父様」
「……はい、父上」
いつもみたいにはっきりと返事をした姉上は、父上がおっしゃったことがわかったのだろうか。正直、僕は話の半分もわかった気がしない。
でも、父上がわざわざ言い聞かせてくださったんだ。きっと大事なことに違いない。姉上ほど頭はよくないけれど、もっと大きく強くなればいつかわかるはず。それまでしっかり覚えておかないと。
そうして今おっしゃったことを頭の中でくり返していると、父上がいつもの厳しい顔つきを少しだけ緩めた。
「よい機会だ。さしあたってはこの時間、気がかりを忘れず、しかし目の前の事に専念せよ」
「「はい!」」
とっさに姉上と揃えて返事をしたのはいいけど……アイツのことを考えながらも学ぶことに集中、すればいいのだろうか? それで手が止まって叱られたのだから、とりあえずはそうしてみよう。
そう思って再び仕事に向かいながら、アイツの顔を思い浮かべる。ゆらゆらとした虹色の髪が縁取る、まるで人形みたいな細い顔。金色の目はいつも楽しそうで、口元は笑みの形に――いや、あれはただ笑ってるんじゃなくて、ニヤニヤとかニマニマとかそんな感じの、どこか意地の悪い笑い方で、姉上と話しているときは普通に笑ってるのに僕と話すときはいつもいつも人をバカにしたような笑い顔でからかうようなことばかり言ってきていくら言い返しても全然やめようとする気配がなくてこらしめてやりたいのにどんなことをしてもまた笑っていなされてああもう本当に腹が立つ――
「――カイウス、また手が止まってるみたいですよ」
急にすぐ隣から聞こえてきた声にハッと我に返った。どうやらまたアイツのせいで手が止まっていたらしいけど、今のお叱りは父上のものじゃなかった。
あわててそちらを向けば、自分の仕事を持っていつの間にか僕の隣に椅子を並べている姉上の姿。
「あ、姉上? どうしてこっちに?」
「先程お父様がおっしゃった心がけが上手くできないので、カイウスと一緒に頑張ろうかと思ったのです」
たずねた僕にそう笑顔で返事をしてくださる姉上。さすがは姉上、とても素敵な笑顔だ。アイツがいつも浮かべているものとは天と地ほどの差だ。
「はい! そうしていただけるととても心強いです!」
「ふふ、共に励みましょうね、カイウス――ところで、先程もあなたは心ここにあらずといった様子でしたけど、どんなことを考えていたのですか?」
何気ない様子でそう聞かれてぐっと答えに詰まった。アイツのことを考えていたなんていうのも嫌だけど、姉上に聞かれたら答えるしかない。
「……ウルのことです」
「まあ、あなたもウル様のことを考えていたのですね!」
そうすると、とても嬉しそうな顔になる姉上。やっぱり姉上もアイツのことを考えていたみたいだけど……たぶん、考え方は反対方向だと思う。でもさすがにそんなことは言えない。
「でしたらちょうどよかった。一緒にウル様のことをお話ししながらお仕事に取り組んでみませんか?」
だから必死に笑顔だけ作ってごまかそうとしていると、なぜか姉上はそんなことを言い出した。
「えっと……姉上、それではもっと集中できなくなるのではないですか?」
「そうかもしれません。でも、お父様はよく他のことをお話ししながらも手を止めたりはしていらっしゃいませんよね」
そう言われて父上の方を見れば、今も確かに執事のマイルズと何かお話しをしながらも書類にペンを走らせていらっしゃる。さっきも僕達に語りながらお仕事の手はまったく止まらなかったから、姉上の言うことは間違っていない。
「わたしも、心に囲いを作るというのがどのようなことなのかわかりません。ですから、まずはお父様と同じ事ができるよう、頑張ってみませんか?」
どうすればいいのかまったくわからないのだから、父上の真似をしてみようということらしい。なるほど、確かに父上と同じ事ができるようになれば、父上のおっしゃったこともわかるようになるかもしれない。さすがは姉上だ。
……ただ、そうなるとアイツのことを楽しそうにお話しする姉上を見ていなければならないことになる。
「はい、喜んで、姉上!」
だけど姉上がそうしたいなら断るなんてできるはずもなく、僕は笑顔でそう頷いた。
姉上が楽しそうなことはべつにいい、喜ぶべきだ。ただ、それがアイツのことだと考えると……なんだかこう、胸の奥がものすごくモヤモヤする。
とりあえずそのモヤモヤをなくすためにも心の中でアイツをなぐ――れなかった。くっ、笑ってよけやがって! 僕の心の中でくらいおとなしくなぐられていろ!