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ヨシとマサの休暇

 私は、それから、マサの忠告に従って、監督さんに「休ませてくれ」と、図々しくもお願いをしに行きました。

 にべもなく邪険にされるだろうと思っていたんですが、

「そうか。わかった」

 と、正に二つ返事で承諾して下すったんです。

「……いいんですか。それじゃあ、優勝は……」

「ハタがいないだけで、優勝できないなんてこたぁ、あるまい」《ハタ》というのは、私の姓から取った渾名です――監督は、少しおどけたように言うんです。「それとも何か? ハタだけで回ってるとでも?」

「いえ、そういうわけでは……」

 監督の言うことにも一理あるってのはわかるんですが、しかし球団の現状を考えますと、どうあっても私が抜けたら不味い筈なんです――八月半ばでの我が球団の順位は、例年にない健闘があっての二位でして、首位との差はほんの少しとくれば、ファンや選手の気持ちも、もう優勝へ向かうしかないんです。とはいえ、三位や四位との差もそれほどありませんから、ちょっと連敗でもすりゃあ転落しちまって、いつも通りの寂しい立ち位置、閑古鳥の鳴く姿が目に浮かんじまうってぇ、謂わば修羅場のような状況なんです――それなのに、監督は私の我儘を許すって言うんですね。自分にはもう、わけがわからないんです。

「ハタはうちの顔だ。ちょっとくらいの我儘、聞いてやるさ」

「でも……もしかしたら、二十年ぶりに優勝できるかもしれないんですよ」

「今年だけの機会じゃない。来年もある」

「……それは、毎年、言っています」

「なら、毎年、優勝しているんだ」

「…………」

 本当は、わかっているんです。監督は、私の身体を思って、了承をしてくれたんです。きっと、過度の登板を命じる時には、胸が痛んでいたんじゃあないですか。監督は、元は投手ですから、肩の疲労やなんかが、わかっちまうんでしょう。それでも我慢をして使い続けていたのに、私の言葉一つで、全てが水の泡……――だから、自分は、監督の苦渋の決断を無駄にしない為にも、必死で投げ続けていたんです。

「夜中、泥酔していたそうじゃないか」

 ぎょっとして、身を小さくするようにしました。「……はい」

「わかっているな? 休むのも、仕事の内だって」

「……はい」

 監督の脅しに、もう抵抗の術はないのだと悟り、とぼとぼと監督室を出て行きました。

 その日の昼に発表された『出場選手登録および登録抹消』の登録抹消の欄に、私の名前がきっちりと書きこまれていました。まあ、わかっていたことなんですが、監督が考えを翻すって可能性を、俄かに期待してたもんですから、やはり、少しさびしく、また悔しいんですね、その一覧表は。

 そいで、さらにこちらの感情を乱す出来事が、すぐさまやってきたんです。

「愛してるぜ」

 電話越しでも、奴さんがにやにやと笑っている様がよくわかるんです。

 試合の二時間前だってのに、マサが電話を掛けてきたんです。つくづく、馬鹿な奴なんです。

「これでいいんだろう」

「おうよ。完璧だ」

 プロ野球ファンの皆様は知っての通り、『出場選手登録および登録抹消』において、抹消を公示されると、少なくとも向こう十日は一軍での出場が出来なくなるんですね。ですから、二軍戦にでも出ない限りは、その十日はまるまま休み、ってわけにもいかないですが――肩は休めても足や腰なんかは動かさなきゃいけない。でなきゃ鈍る一方です――まあ、一軍に居るよりは明らかな休暇ですから、狂おしくもマサの言う通り、思惑通りに事が運んじまったってぇ、悔しさ二倍の状況なんです。

「なあ、一緒に温泉にでも行こうや。肩に良い湯があるらしいぜ」

「馬鹿言え。こっちが休みでも、お前は……」

「俺も外してもらうさ」

 その言葉を聴いて、――無意識の内だったんです、程なくして、声を荒げている自分に気付きました。

「ふざけるな! お前、野球をなんだと思ってる! そんな軽い気持ちで休むのか!」

 正直、怖かったんです、自分が。まさか、怒鳴り声を上げるなんてこたぁ……思いもしませんでした。何か、不安定だったんですね、心持ちが。それが、マサの軽口なんかで破裂しちまって……これもまた、消し去りたい過ち、恥ずべき後悔、その一つです。

「いや……」さすがに野郎も戸惑っていましたね。私の激昂に、言葉が無くなっているんです。本当に、気の毒な事をしたと思います。「あのな……」

 私は自分に恐れを抱き始めていたんですが、込み上げた怒りは口元の辺りで停滞していやがるんです。「なんだよ」

 ただ、次のマサの言葉を聴いて、ようやく我に返るんですね、私は。はっ、として、夢から覚めたみたいな、酔いから醒めたような、不思議な気持ちが、くるくると身体の中を巡るようなんです。

「俺も、痛めちまったんだよ」

「……、…………」

 聞けば、腰をやっちまったそうなんです。こいつが怪我するなんざ、下手したら初めて見るかもしれません――マサはとにかく腰を使う打者でしたからね、それはどうにも致命的で、日々を誤魔化し、外連味を利かせて、騙し々しで八月を頑張ってきたそうなんですが、そろそろ限界だって言うんです。

「もう監督にも言った。さっきの見て、《オーケイ》って言ってたよ」どうやら向こうの監督さんは、今日の『出場選手登録および登録抹消』を見て――つまり現状での宿敵と言える我が球団、そのいっとう投手である私が抹消されたとあって、ならば自分の球団のスターを抹消したところで、足し引き零だと、そういう決断に至ったようです。「な? いいだろうが。文句の言いようなんざ無ぇだろ?」

 生意気な、それこそ勝ち誇ったかのような物言いに、少しばかり機嫌が悪くなっちまって、冷めたとは言っても、それでも僅かに残る怒気も相まって、断ってやろうかって、そんな気にもなるんですが――底から湧き出た言葉は、つまらない合理性の台詞でした。詰まる所、マサのふざけた頼みを、あろうことか、承諾しちまったんです。

 次の日の『出場選手登録および登録抹消』には、マサの登録抹消がしっかと公示されていました。

 それから――つまり、マサとの小旅行が確定しちまった後って事ですが――私は東奔西走と言った感じで、方々に連絡して、許可を取ったり、確認を取ったり、それはもう大変な時間を過ごしました。まさか旅行一つでこれ程まで忙しくなるのかって……当時としましては、もう色んなものに呆れて、愛想尽きちまうような気分でしたね。「なんて面倒な世間なんだ」って、愚痴をこぼしたところを後輩に見られたりもしちまいました。

 ようやく準備が整って、いざ出掛けるぞって時に、もう見るのも嫌になっていた携帯電話が、ぴぴぴ、って鳴りやがったんです。

「……モシモシィ?」

 声音で向こうにも不承不承ながらの応対だってことが伝わっているでしょう、仕方なく出ましたら――第一声に、私の背筋は反射で伸びきったんです。

「下手は打つなよ。いいな?」監督の声で、携帯電話は言うんです。「プロなんだから、休みだからって気を抜くなよ。なんせシーズン中なんだからな」

「はい。重々、承知です」

 ほんの二言くらい、正しくそれだけの忠告をして、携帯電話は、ツーツー、と切れたんです。あんまりな文言でしたが――それだけで十分すぎるほど、身が引き締まる思いになりまして。監督の偉大さ、雄弁さ、そして人の良さってもんが、身に染みて、わかったんです。

 今となっても、監督に対して感謝の念が潰えることはありません。自分の野球人生、その責任を一身に受け、全うさせたのは、他でもない監督でしたから、もはや感謝のしようがないんです。下手すりゃ懺悔の言葉ばかりが浮かぶようで――その大きな背中が、いつまでも彼方に見えるようなんです。

 携帯電話をポケットに入れて――また、愉快な音が鳴り響きました、不思議にも。

 こんな間髪入れずに着信が入るなんざ、そうそうありませんからね、監督が何か言い忘れでもしたのかと思ったんですが――電話は、憎き野郎の声音をして、生意気な事を言うんです。

「遅いぞ。何してんだよ」

 マサなんです。

 腕時計を見遣りますと、まだ予定の三十分前なんですが、マサの逸る心では一時間ほど進んで見えているんでしょうね。子供っぽくも、これなんです。

「遠足じゃないんだから……」溜息混じりに言ってやるんです。「何か勘違いしてないか?」

「休養だろ? スターの嗜みさ」

 何とも遺憾な……不遜な態度を崩すことなく、マサは今日も今日とて自由気ままな振る舞いで、私を振り回してやろうって、粋がっているんですね、困ったことに。

 もうそれだけで参っちまいまして、下手な応答しちゃあいけないって、早々に通話切って、七面倒に思う気持ちや倦怠感なんかを引き摺りながら集合場所まで行って、そいで得意満面なマサを見遣って、また気が滅入っちまうんです。

「どうよ、俺の愛車」

 見れば、これまた仰々しく黒光りするアストンマーティンが、何でもない公道の脇に停車しているんです。それは、もう、呆れかえるには十分なんですね、ほんとうに。殴ってやりたい気持ちばかりが湧き上がるんです。

「こんな目立って……」

「スターにゃ相応しいだろ?」

「だったらスターレットにでも乗ってればいいじゃないか」

「あいつじゃ格が違う。俺には合わんのよ」

 なんて失礼な奴なんでしょうね。自分の姉が乗っている車だっていうのに。馬鹿な奴なんですよ、年がら年中、休みなしですね、まったく。

 燃え盛る怒気が握り拳に乗り移らんとする間際、「あれって、野球選手の……誰だっけ?」なんて声が聞こえてきまして。どうにか冷め始めた気持ちと共に、僅かばかりの焦りがやってきました。

「ちょっと正面から見てくれ。こいつの顔をさ。すげえイケメンなんだよ」

「わかった、わかったから。早く乗ろう。人目に付いて仕方ない」

「いや。まずこいつの顔を……」

「蹴っ飛ばすぞ」聴かぬ子供には、時には暴力と言う名の制裁が必要だと思うんですよ――新品同様に光り続ける車体に対して、右足を構えるようにしてやるんです。

「やめろ! やめてくれ! わかった! 乗ろう!」

 どうにか右足の脅しだけで話を進め、新車とは程遠い、既に男臭くなってしまっている車内に乗り込んで、ようやく旅路の出発というものに漕ぎ付けました。

「短気なんだよなあ、もう」

「お前が悪いんだ」

 球史でも稀に見る、頓痴気なバッテリーでした。


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