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マサの果たし状

 正月が終わって、気付けばひと月が経っていて――自分は、温かい地方へ行って、球団の、合同の、春季キャンプに参加していました。

「サインくれやー」「頼むぞー」

 自分は恥かしながらも球団のいっとう投手でしたから、当然の如く一軍でのキャンプなんですね。そいで、一軍ともなりますと、やはり、地方であっても、試合でもないのに、応援の客やなんかがまあまあ集まって、そんな声援やら何やらを飛ばしては掛けてくれるのです。

「下手くそー! そんなんで抑えられるのかーァ!?」

 ですが、たまにはこんな具合の下手な声が飛んでくるんですね。こっちの身としましては、もう耳にタコができる程度には聞き慣れていますから、どうということもないんですが、その声ばかりはどうも、気に障るんです。

「これじゃあ足を引っ張るなア。下手っぴでいけねぇや!」

 明らかに私を指して言ってるんです。それはもう勘や何かでなく、必然の絶対として、わかっちまうんです。それが何故だかもわからないで、私は声の方へ振り向いて、こう言ってやったんです。

「いま、上手くなろうとしているんです」

 これがまた、向こうさんにこたえたようで、ぴた、っと声が止みまして、とすれば、他の客からは黄色い声援が飛び散るんですね。いやあ、我ながら、良いことを言ったもんだと、自惚れを思いました。

 けれども、奴にとっては、それを待ってましたと言わんばかりで――また、大きな声が飛んできやがるんです。

「女に呆けて野球か! 笑っちまうな!」

 自分はにんまりとも顔を綻ばせてはいなかったんです。それは本当なんです。ですがね、奴は、こっちの心中なんざお見通しだって言うように、得意気に声をあげるんです。

 さすがに鼻持ちならんということで、監督に一礼してからフェンスの向こうへ、ざっざと競歩のように進むんですね。先輩の方からは、聊か冷たい視線を向けられまして、後輩からは「やめたほうがいいですよ」とか何とか、静止の言葉を貰ったんですがね、ここは男として、ましてや一球団背負った投手として、売られた喧嘩にゃ負けてはならんと、その、何といいますか、男気なんてもんが叫ぶんですよ。

「おい。誰だ、言うのは」客の最中へ飛び込んで、ちぃとばかし強めの語気でもって言いました。「言うんなら、目の前で聴いてやるから」

 周りの客はすっかり怯えちゃって、黙り込むばかりなんですね。これはまたいかんことをしてしまったなと、早くも反省や後悔の類が胸を締め付けてきやがったんですが、それよりも強くあったのは、あの煩わしい声への怒りだったんです。

「なんだ、出てこないのか」

 憤懣遣る方なし。どうも出てこないってんで、諦めて、謝って、帰って行こうかな、なんて思い始めたところです、奇をてらったかのように、奴は人様の間から、にゅ、っと出てきやがったんです。

「俺だよ、俺。てめぇの下手っぴな球を言ってたのは」

 そいつはまた、豪気にもしたり顔で言いやがるんです。

「…………」

 コノヤロウ、まだ偉そうにしやがるか。こりゃあ据えてやる必要があるな、などと思いました――ところがですね、私は、そのツラ見て、固まっちまったんですね。いや、それよか、何でしょうか、呆れたんですかね。腰が抜ける思いでの、めいっぱいの呆れ。そういうもんが、顔にまで表れちまって、そいで凝固しちまったんです。

「おまえ……どうしてここにいる」

「ナーニ、いちファンとして、応援に駆け付けただけさ。それだけそれだけ」

 得意気なままで――マサの野郎は、そんなハチャメチャな語を話すのです。

「ふざけるな」相変わらず、怒り気味に言ってやります。「移ってすぐじゃないか。こんな馬鹿して……向こうの監督さん、カンカンになるぞ」

 キャンプってのは、決まって、どこの球団も同じ時期にやるんですね。ですから、こんな風にお忍びで、しかも他球団の練習模様を覗きになんて、あっちゃあならないことなんですよ。それも、移籍したばっかりの選手が抜け出してきたなんて、前代未聞、下手すりゃ空前絶後ってもんです。酷く空々しく、末恐ろしい話ですよ、まったく。

「ヘーキヘーキ。俺ァ、今日は休みなのよ。公認での許可アリ肯定アリ問題ナシ。ばっちしさ」

 有給ってのは野球選手にもあるんだぜ、と、親指を立てて見せながら、キメ顔で言いやがるマサでしたが――野球選手に有給なんて、ありゃしないんですよ、そんなもんは。もしあったなら、どこの監督さんだって、いまに寝込んで二度と起きやしない危篤まで追いつめられる羽目になっているでしょうね。

 だから、私は言ってやったんです。「ふざけるな。お前、向こうのサインやら何やら、覚えなきゃいかんぞ。それとも何か、もう勝負はやめるのか?」

 そうしますと手前さん、急に真面目な表情作って、こう言うんですね。

「んなわけあるか。てめぇの球も打たないで、やめるわきゃねぇだろうが」

「なら、どうしてここにいる」

「…………」

 黙り込んで、下なんか向くんですね、マサの奴は。どうせ、練習なんて退屈だってんで、抜け出してきたんじゃないですか。プロの自覚、スポーツマンの精神なんて微塵と無い、呆れた、見下げ果てた男だな、と、心の中で思ったりもしました。――ところが、

「いま、勝負してくれ」

 なんて、すっ飛んだことを言いのけやがるんです。

「はア? なに言ってんだ?」

 まさか各球団のキャンプ中に、それも記者や客なんかが屯する前で、別球団の選手と勝負を仕掛けようなんて考えていた奴がいるなんて、誰が思いますか。んなこと考えている奴ァ、いかれちまってる。そう思うに妨げなどありゃしませんよ。

「本気だ。真剣で言ってる」しかしですね、マサって男は、どうもおかしいんですね。こんな場で、強いて真面目な顔で、低く清らかな声で言うんです。

(私の悪友は、いかれた男だった。そういうことか……)

 許してよいものか、諦めや妥協なんかの気持ちが、滝のように流れていっては胸に溜まっていくんです。

 そうして、自分は、邪な願いが、どこか情熱に変換せられるのを感じてしまったんです。「監督次第だ。わからんぞ」

「おうよ。それきた!」

 途端に嬉々として跳ね回る頓馬な野郎なんですね。横にいたおっちゃんなんかに抱き着いて、歓びを爆発させていくんです。それは、なんだか、見ていて爽快なんですよ。胸がすくんです。不思議なことに。

「まったく……」

 はあ、と、一つ溜息を入れてから、歓声の沸き立つ客の間をすり抜けて、我が球団の長――園田監督のもとへ行って、頭をふかーく、頗る深く、下げに掛かるんです。

「頼みます。一打席で構いません。谷田と、勝負させて貰えませんか」

 あるいはクビになるんじゃないか。そんな風な、重たい空気を感じました。思っていたよりも、決死の覚悟での懇願だったわけですね、これは。

 一緒になって頭を下げているマサの姿がちらつくたび――こいつが頭を下げるとこなんざ、そう見られるもんじゃない――その想いが強くなっていくんです。これは酷く重大なことなんだって、理解がどんどん進んじまうんです。

「お願いします」

 もう一度、下げたまんまの頭で、乞うように言いましたところ、

「いいよ」

 と、いとも簡単に、監督さんは、承諾を下すったんです。

 これにゃあもう二人して大喜びです。

「よっしゃあ! ありがてぇ、監督さん!」

「ありがとうございます。ほんとうに、すみません」

 ああもう喜びで胸がいっぱいなんですね。この時ばかりは。嬉しくて嬉しくて、ちょっとだけ踊り回りたい気分なんです。「ありもしないあってもならない夢が、ア叶っちまったァ」とかって自作の詩でも高らかに歌ってしまいたい気分なんです。ほんとうに、嬉しかったんですね、その快諾は。

「へっへっへ。そんなに嬉しいかね」

 どうして監督が無茶なお願いを許してくれたのか。それはと言いますと、まあ、運の良さとでも言いますか、……ちょうど、私のとこの球団は不人気なとこでしたので、オーナーさんやら社長さんやらが会議して、新監督には明るく芸達者な人を呼ぼうって、そういう取り決めがなされて、そいで着任したのが、この監督さんだったんですね。

 ええ。この人は、噂に違わぬお調子者で、すぐに人を笑わせに掛かる、それこそ芸人みたいな人なんですね。それでも野球に関しちゃ燃え滾る情熱をしっかりと持っているってんですから、これが客から受けないわけがないんです。着任してから三年が立っていますが、以前に比べて、球場への客入りなんかは見違えたものになっているんです。いやあ、人が一人、盛り上げをやるだけで、こうも変わってくるたぁ、誰も思いもしませんでしょう。びっくりしたもんですよ、監督さんの舌先三寸には。

 まあ、そういう人だってんで、普通は許されない頼み事でも、面白くあれば、また野球に関する熱い話であれば、快く許諾を下さる方なんですね、面白いことに。

「構わんさ。そのかわり、怪我はするなよ」

 私とマサは、甚だしく元気に、敬礼付きで返事をして、すぐに準備に取り掛かりました。

「ああ、向こうの監督には、僕から言っとくよ」

 監督の言葉を背に、心置きなく、――マウンドへ行って、ルーティンなんかをして、状態や調子を確認し始めました。

「変わらんな、それ」右打席で素振りをしながら、奴が言うんです。「俺に見せていいのか? しなりだけで、調子がわかるぜ」

「構わんよ」

 後輩の捕手に「練習がてら、頼むよ」とお願いをして――承諾してくれた捕手相手に三球ばかし試投をして、――それから、一気に振り被るんです。

「こいやァ!」

 吠えた男の胸元へ――ちゃちな真似を、誰がするってんですかい?――浮いてすっ飛ぶような直球を投げ込んでやりました。

 自分としても文句の無い良い球を投げたんですが、

「うりゃァア!」

と、豪快なファウルボールを打たれちまったんです。

 そうしましたらもう、私としても意地がありますから、余計にも熱が入るんです。ありもしない豪速球が、頭の中で唸りあげて奴のバットをへし折りにかかるんです。それをどうにか現実で見てやりたいと、渾身のしなりが、球に乗り移って、ベース板の向こうまで真っ直ぐに伸びていってくれるんです。

「――ヘッ」

 見逃しておいてなお、何だか嬉しそうに、マサは笑うんですね。

「もういっちょ! ヘイ、カモン!」

 たった二球なのに、どっと汗が出てきて、そいで、肩が頗る熱いんです。まだ冬だってのに、燃えそうなほどに熱くて、ですから、摩擦なんて欠片と起こしそうにないほど、よく廻り、曲がり、しなるような気になるんです。

「勝つぞ!」

「俺がな!」

 もう無我夢中で、最高の出来ですよ、実際に浮かび上がる高回転の快速球を、その左片隅、いわゆるアウトローへ、ベタピンで投げ込んだんです。

「――ッ!」

 きしり。

 ぐしゃり。

 乾いた音が、

 壊れた音が、

 小気味よく響いていきました。

「……はあ、……はあ」

 いや、もう、音なんて、聞こえやしないんです。

 その時にはもう――打たれた後にはもう、鼓膜なんて、機能しやがらないんです。

「どうだぁ! 見たか! 完璧だったろォ! 俺の勝ちだなァ!」

 折れたバット片手に、子供もさながらに歓び、雄叫び、はしゃぐマサの姿といったら。

 もう、背中向けたまま、その場で項垂れるなんて真似さえ、する気になれないんです。

「……怖いな、どうも」

 開幕までに、サボりなんて許されない。そう思いました。

「だっはっはー。これだよなー、これ! やったぜオレサマ、勝っちまった!」

 フェンスの向こうからも、始終を見ていたでしょう客や記者なんかが、どっと声をあげて楽しんでいるんですね。やっぱり野球は良いもんだとか、勝負事は気持ちがいいだとか、マサはハンサムですねだとか、そういうことを思っていたりするんでしょう。実際、私もそんなことを考えていたに違いありません。

「はは……、はあ……」

 ゆっくりと目を瞑って、――強引さなんて必要ないんでしょう、見事なまでに流されて、右翼場外へ飛んでいった白球が、今でも瞼の裏で、お日様かお月様でも目指して飛んでいっているのが、こう見えるようなんです。

 ここから、自分にとっての『打倒マサ』が、粛々と始まったのです。


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