冬下虫の見る夢─28
受け止めた剣先で、驚きの目に出逢った。予測し得る想定の中で、あり得ないと言った表情。
「ジャン……貴様」
ふしぎだった。自分がこの行動に出るかも知れないという予想は、だれよりこの男が想定していたのではないか。それなのに、この様子。
なぜ、と浮かんだ次には思い当たっていた。自分にももはや帰る場所はないと、この男はどこかで同族意識を持っていたのかも知れない。最後には自分たちに与するしかない。深手を負ってまで付き従ってきたのだから──。
ヴァトー、とあまり呼んだことのない声を発しそうになった。が、その前に意識を立て直した男が吹雪の合間をかすめてすり抜けかけた。ハッとした。自分の後ろには、雪に埋もれた鈍くさい少女がいる。
彼女を失ったら──。
自分は何も変わらない。いつかどこか──今かも知れないどこかその辺で、ただ生を終える。いつかの昔に自分が踏みつぶした命のように。
自分の生はただ、それだけのものだ。だれの記憶にも留まらない、代わりのきく影の一部。そうやって生きてきた。でも、この少女は。
身をひねったのと同時に、ヴァトーと同じくらい深手を負った腹部から熱いものが出たのがわかった。それでも止まらなかった。
少女が何かの失敗をした時に、ぶつくさ言う自分を見上げてくる目。一緒に謝ってくれる? いやッス。明日のおやつあげるから。……いいッスよ。──そんなアホみたいな他愛もない会話。
一足先に少女の兄が王都へ行ってしまった時期は毎夕、図書館帰りに自分の服の端をつかんでいた。感情が薄そうでいて、表に出ないだけだと知った。本のことには敏感なのに、自分のことには鈍感で、周囲の悪口に傷付かないわけじゃないのに、本を読んで読み終わった後には忘れている。
とろくさくて、ぼんやりしていて、でも──人の痛みだけは忘れず気遣う少女。
ある日、聞いたことがあった。自分は確かに甘いものが好きだが、なぜいつもそれを自分に渡すのかと。使用人の子どもたちに渡してもいいじゃないか。
瞬いた少女がポツリと返した。
『ジャンが、ちゃんと食事してるってわかるから』
「…………」
少女は気付いていた。自分が生まれ育った経験から、臭いによる食べ物が好きではないことを。
腹はいつだって空いていた。けれど、あの時。自分の隣にいた小さなものの腐臭をかいでしまったあの時から、臭いがいつだって自分を苦しめた。
食べ物からもにおいがした。食べなければ自分の生命維持を損なうとわかっていても、苦手だった。いつしか、無味乾燥に流し込む術を覚えた。けれど、それまで誰かにそれを指摘されたことはなかった。あの人にだって──。
この少女だけが気が付いた。たぶんきっと、相手が自分じゃなくても。
でも、それでいいのだ。この少女なら、自分みたいなどこにでもいる生を当たり前に救う。
自分が救えなかった小さな命も、今も──これからもきっと生まれてくるだろう、同じような命を。お嬢なら。
「……っ!」
渾身の力で、ヴァトーが突きだした一撃をはね返した。崩れた体勢に一瞬の焦燥。ヴァトーは踏みとどまっている。またお嬢が狙われる。
──だれか、と今まで思ったこともない他人頼りが浮かび、そしてそこに、見慣れた影がふたつ。同じように風貌を隠した存在感の薄い人間。ヴァトーに数撃浴びせ、そのまま崖下に落ちて行くのを見届けてから、姿を消した。
一度だけ、自分に強い視線を向けて──。
王家の影。元同僚。切れた息遣いと白い視界。ドッと襲い来た安堵と激痛ですぐには反応できなかった。「ジャン!」と雪に埋もれていた体勢から這ってきた少女をのぞいて。
少し離れた場所で成り行きを見守っていたマルドゥラの王子も従者もアランも、五人ほど帯同していた黒翼騎士団も、だれも動かなかった。少女と、王家の影以外、だれも。
「ジャン! しっかりして……!」
あらかじめ、決めていたのだろう。自分がなんとかするから、だれも手を出さないでと。そしてきっと、王家の影も不始末の落とし前は自分たちの手でつけたかったに違いない。
自分が──最後には、彼女に剣を向けることなどできないと、見透かされていたのか。
「……アホですか」
これが罠の考えは思い付かないのか。ヴァトーと共闘──もしくは囮に、警護の厳しい彼女の懐にもぐり込んで、今この瞬間、その胸に刃を突き立てることだって簡単だ。
すべてが一瞬で終わる。
ジャン、と手袋を取った彼女の手が、凍て付いた自分の頬にふれた。それはきっと、自分の状態を確かめるために、彼女が無意識に行ったこと。
あのね、と口にする言葉が拍子抜けするくらい、脱力するくらい、いつも通りだった。
「わたしも一緒に謝ってあげるから」
「…………は?」
「ジャン。あなたが裏切りたくない人に逆らってしまったことは、わたしが一緒に謝る。あなたが本当は甘味魔人で、家の厨房の香辛料をこっそり甘味一式に変えた真犯人だって、わたしは知ってる。昔、領地に来た料理人が大事にしてた飴細工をうっかり破壊しちゃってたけど、実はその欠片をくすねて食べてたのを知ってる。飴は食べてなんぼって、つぶやいてたのも知ってる。昼寝用にお日さまポカポカの藁を寝床のために奪ってたのも知ってる。実は寒いのが苦手で、動きが鈍くなるのも知ってる」
オレの観察記日記ッスか。少女の言葉にあぜんとする前で、その手が熱を帯びた。……ただ、自分がそう感じただけかも知れない。
「ジャン──。あなたがしてきたことは、わたしが一緒に背負う。あなたが実はどんなに悪い人間だって、食い逃げ犯だって、何を──どんなことをしてきた人だって、全部、わたしが一緒に謝るから」
だから、と少女の目からはじめて涙がこぼれた。自分がそばについてきた数年間、さみしくても悲しくても傷付いても、本以外には流したことのない涙を。
「ジャン。あなたが眠るのは、わたしのそばでして」
──夢を見た。
覚めたくない夢を。
あの領地で。過ぎる季節も、様々な騒動に振り回される日々も。同じくらい、感情を動かされた。驚いたり呆れたり怒ったり、──笑ったり。自分が今まで、知らなかったものを。
夢を……この少女のそばで見た。
ただひたすら、──いっぱいの日差しを吸い込んだ藁の寝床。そこで昼寝をしていると、時折、少女が近くで読書をしていた。人の気配に敏感であるよう訓練された自分が気付きもしなかった。しかし、なぜか安心した。あの一時だけは、いつも世の中の平穏を信じられた。
自分や、隣にいた小さなものが味わうような世界はどこにもない。そんな夢想。永遠に続いてほしかった午睡。
目覚めたくなかった。帰りたかった。──自分が帰りたかったのは、この少女が自分を呼ぶ声のもと。
その声はいつだって、自分を揺さぶって起こした。とんでもない騒ぎを引き連れて。
「…………」
この少女はきっと、どこまでも追って来る。自分が裏切った事実を目の当たりにしても、体当たりで挑んできた。それは自分だからだろうか。どんな自分でも、と言った。
あの人を胸に抱えたままの自分でも、彼女ならきっと──。
ふっと笑いが浮かんだ。
次々に言い訳とおのれを納得させる材料を並べていることに気付いた。答えなど、すでにもう出ていたのに。──自分に、彼女を手にかけることはできない。あの人の命に背いてでも。
ぬくもりをわけてくる小さな手。自分を呼ぶ、自信なさげな声。
「……ジャン」
どんなに辛い現実が待っていようと、彼女がそこで立ち向かっているのなら。冷たい土の中でも、やさしいまどろみの中からでも目覚めよう。
光を信じられる、この暖かさが待っているのなら。
起きたことを伝えるために、ふれた手に重ねて眸を落とした。大きなあくびのようなため息と多分な億劫さを込めた、いつもの返答で。
「……ホントに、アホッスね。お嬢は」
目前の少女がひっしな顔から、ふわりと春のやわらかさのように笑うのがわかった。
~・~・~・~・~
『――夢を見る虫?』
思ってもみなかったことを返された人の反応で、だれかが返した。
同年代の少女たちだけで開いた野外園遊会。男性は禁止。少女たちだけで交流を広げて友好を深めましょう、という趣旨。発案者はもちろん、王家縁の発言力のある友人、テレーゼ。
でも、ほんとうの目的は王都の社交界に慣れていないその人を、皆に周知させたいのだとわかった。
日に透ける、白金のクセのある髪。夢見るような青灰色の眸。おっとりとしたお人形のような、感情の見えない人。エリアーナ・ベルンシュタインさま。王太子、クリストファー殿下の婚約者になられた人。
あたりさわりなく対応する彼女は別段、社交界に慣れていない風でも、同年代の交流に緊張や物怖じしている風にも見えなかった。……ただ、話題に対する受け答えが少々変わっていただけで。
時折、顔を横にそむけて肩をふるわせている友人は、彼女の性質をとうに知っていたらしい。人が悪い、と小さな嘆息で、しつこく一人に絡まれている様子にさすがに口を出そうとした。そこで、小さな悲鳴が上がった。
令嬢たちが日差しにあたらないよう、木陰や近くに簡易屋根を張ろうとしていた場所からだった。どうやら、設営のため土を掘ったそこから幼虫が出てきて、侍女たちに悲鳴を上げさせたらしい。
季節は初夏。暑くなる時季に向けて昆虫たちも動きだすのだろう。一人の令嬢が嫌悪を込めた様子で口にした。
「春は社交界がはじまって好きだけど、虫が出てくるからイヤだわ。夏はもっとイヤ」
それに皆が次々に賛同した。女性にとって、虫は天敵だ。あら、でも、とエリアーナさまに絡んでいた一人が意地悪く口にした。
「その虫の愛称をつけられた方もいるわ。まるで、みんなの嫌われ者みたいね」
クスクスと笑う令嬢は子爵家の出だと思い当たった。王妃さま主催の茶会などには招かれず、有力貴族の夜会の招待状を手に入れるのも四苦八苦していると聞く。
今日は発案、主催のテレーゼが階級を問わず、と公言したため参加できているのだろう。あけすけな物言いに、さすがに周りの令嬢が眉をひそめた。
私は少し目をみはる思いだった。有力な招待状を手に入れるのにも苦労するようなら、なおさら王太子婚約者には媚びて取り入ったほうが良策だろうに。その面には、隠し切れない憎々しさがある。
……ああ、と思い至った。
王太子婚約者になられた彼女、ベルンシュタイン家は有力貴族ではない。はっきり言って、婚約者になるまでその名も知られていなかった家。社交界デビューした時には同等の立場だったのが、一夜にして雲上の人になった。
認めたくないのだろう。彼女はもしかしたら、エリアーナさまに同じ仲間意識、……もしくは、少し下に見ていたのかも知れない。
下に見ていた者に憧れた場所を奪われるのと、不意打ちのように出てきた者に自分が努力して目指した場所を奪われるのと──どちらがましだろう。
主催者のテレーゼも沈黙しており、どうするのだろうと周りのほうが緊張したそこで、彼女がポツリと答えた。虫は、と。
「虫は、一般的に嫌われ者です。害虫被害や虫が運ぶ病気、人体や作物に影響するもの、蝗害などは歴史にも記されるような大災害です。でも……虫がいなければ、わたしたちの生活もまた成り立たないのです」
ダニエル・レーンバウム氏の『親愛なる虫へ』という著書によりますと、……と滔々と人と虫の密接な生活を語りだした。曰く、虫がいなければ麦や野菜など主産物が育つ土壌も豊かにはならないこと。
虫がいなければ花々も受粉せず、私たちが春に花を愛でることもできなかった。その花も、香水や贈り物などで需要を生み出している。そして東洋から伝わってきた、とても高価な布、絹の原産も蚕という虫が作る繭が元である──。
なにより、とエリアーナさまの表情が少し沈んだ。今まで生き生きと虫が生み出す需要と副産物を話していたのに。
「先日、王都で流行りの『琥珀の愛』という甘ったるい……いえ。甘いお菓子をいただきましたが、あの原料も蜂蜜、ミツバチなくしては作られなかったものです」
そもミツバチは──と講義をはじめる風だったのが、 『琥珀の愛!』知ってるわ、と皆が色めきだった。予約制で、数量限定販売、手に入らなくて! あらあなたも? 従者に並ばせたけど、予約券もつかめなかったの、もうっ! と憤慨する声等々──。
あら、でも、と憧憬の視線がその人に集まった。エリアーナさまはお口にすることができたのですね、さすが王太子婚約者さま、という流れに移り、とまどった様子の彼女が返した言葉はまた異なっていた。
「いえ、あの……蜂蜜にも種類があるのです」
口にした彼女は、なぜか自分に突っかかっていた令嬢に目を止めていた。たじろぐ令嬢に、ジッと興味深い眼差しで。
「蜂蜜の収穫は通常、春──花にミツバチが集まる時季です。レーンバウム氏によると、それを琥珀の時季と言い、風味や甘さ、すべてが整った最上級とされています。しかし、ラナケイン・コンスタンティンという食通家が書いた『我が美食・死ぬまでに食べるべき料理と食材五十選』によりますと、アンゼルム地方で極少量しか採れないキハダ蜂蜜は花ではなく樹木から採れる蜂蜜で、少し苦みもあり、甘さ控えめ。甘いものが苦手な方にも好まれるものなのだとか──。しかし、今はその養蜂を行う者はなく、まさに幻の食材なのだと……」
そ、それがなによ……と及び腰な令嬢に、目をそらさず一歩踏み込むエリアーナさまは、傍目にも少々異様だった。
「わたくし、それを常々、食してみたいと思っていまして……。ビアンカ・ボルツマンさま。すぐに思い出せず、申し訳ありません。あなたさまのご親戚か、ご家族に、ボルツマン養蜂という商売をなさっている方はいませんか? ダン・エドルド氏の旅行記にありました。そこで初夏にのみ採れる蜂蜜は、まさにそのキハダ蜂蜜なのだと……!」
食い付かれそうな形相に、ビアンカ嬢がヒィッと声を上げた。
「お、おおぉ叔父の親戚筋にそんな人がいるとか、聞いたことはあるけどー!」
ぜひ、とエリアーナさまが乗り出しかけたそこで、小さく両手を打つ音がした。視線が集まった中で優雅にほほ笑むのは、その年で場を取り仕切ることに慣れた少女、テレーゼ。
素敵ね、と口にしたことで方向性は決まった。
「私の母も年配の女性方も、甘いお菓子は好きだけれど、やっぱり女性だもの。体型は気にされているわ。エリアーナさまのおっしゃる、その甘さを抑えた蜂蜜。それで『琥珀の愛』が作られたら、もっと評判になるのではないかしら」
もし……それが無理でも、甘さ控えめな蜂蜜菓子はきっと、女性たちに喜ばれること間違いなしだわ、と繋げるテレーゼに、顔を見合わせる少女たち。
希少な菓子に、さらに希少性を加えたもの。女性、ことに上流階級の人は希少、限定、という言葉に弱い。『琥珀の愛』はその希少蜂蜜と手を携えれば、さらに人気になるだろう。そして一躍、この場で新たな流行りに繋がるかもしれないと目されたビアンカ嬢。
先を見越して、彼女と誼を結ぼうとする少女たちが殺到した。王太子婚約者、エリアーナさまが注目している食材なのだから……! と。
これでは、エリアーナさまに敵意を持ち続けることなどできないだろう。テレーゼの手腕と、流行が作られていく流れを目の当たりにして苦笑し、しかし内心、くすぶるものがあった。
テレーゼがきれいにまとめた。けれど、もとはあの人の知識があったから。テレーゼはそれを知り、信頼していた。だから、口を出さなかった。
……けれど、それがもし、私だったら?
私があの人の立場にいたら、テレーゼはきっと早々に注目を自分に集めていた。私が非難されないように。困った立場に追いやられて、傷付かないように。……昔、そういうことが何度もあった。テレーゼと比較して表舞台に立たされた時、私はいつもうまくできなかった。
お父さまや、周りにいる人たちの望むようにできなかった。『あのご令嬢は、血筋だけはいいのに能力は……』そう、ささやかれる言葉をいつも耳にした。父の叱責は直に向けられはせず、期待していない睥睨だったけれど、その後、親しんでいた教師は解雇され、厳しさしかない者が増えていった。私のすべては、父の管理下だった。
明日も明後日も。──きっと、生涯終えるまで。
時々、苦しくて辛くて、影で泣く私をいつもテレーゼが救ってくれた。父の了承も得ず、お泊り会を催したり、街中に連れ出したり、観劇や園遊会や地方の小旅行や──。
私の世界を広げてくれた。心を開放してくれた。叱られる時は、いつも一緒だった。
大好きな親友──。
「さよならー!」
大きく響いた声にビクリとした。目を上げるといつもの神殿。自分を気遣う側付きの侍女が、「……ファーミアさま?」と体調をうかがうように手を添えてくる。
私が転ばないように。私が心身を損なったり、傷付けられたりしないように。常に三、四人の侍女と護衛兵五人が、周囲を固めている。
ほんとうはもう、外出することにも難色を示されるようになっていた。それでも無理を通して日課の神殿通いをしているのは、引き返せないことを自分に教えているためだ。
代わりというように、身辺は日に日に厳しくなった。目にする者は近い未来の王太子妃だから、と思う者と、聖女の評判を聞いてここまでやって来たのに結局は貴族令嬢のおままごとか、とその近寄りがたさに失望する者──様々だ。
瞬きを繰り返して、息を整えた。
さよならと大きな声が出た元は、英雄王カルロ神殿前に建てられた簡易小屋、そこから出ていく人に向かって投げられた子どもの言葉だ。何をこんなに動揺する必要があるのか。
神殿内部に向かう私に、いつも通り「聖女さま」と救いを求める声が出る。そのひとつひとつに足を止め、容態や困ったことがないか、足りないものはないか、声をかけてまわる。それが私の日課。
けれど──それは明らかに減っていた。向けられる視線も懐疑的なものや、影でささやかれるものになりつつある。なぜなんて、考えるまでもない。
──治療薬。その存在がささやかれはじめたから。王太子婚約者、虫かぶり姫──エリアーナ・ベルンシュタイン。
その人が生きていた。治療薬を持って、王都を救いに来てくれる──!
そんな話が瞬く間に広まった。王宮内での重臣会議、ようやくすべてが決まると思っていたそこに──、あの人の生存が知らされた。灰色の悪夢の治療薬とともに。
どうして?
私の頭の中に真っ先に浮かんだのが、その思いだった。それを思った時、自分の中にもあるどす黒い感情が全身を染め変えたのを知った。
クリストファーさまのそばに行きたかった。あの方に眼差しを向けられて、想いを込めて名を──いえ。もうそれは無理だとわかっても、一度でもいいから、そばに行きたかった。
義務でもなんでも、あの方に触れてほしかった。私に。ファーミア・オーディン。私に。
でも……叶わなかった。私が望んだすべては、あの人のものだった。
昔、一度は仕方のないことだと思った。私には、テレーゼのように人を魅了する容姿も華も、機知に富んだ会話術もない。あの人のように、万物に富んだ知識や好奇心、貧しい者たちに向ける思いや国を豊かにする志もない。
私にあったのは、血筋と一般的な教養とクリストファーさまへの想い……そして、父の権力だけ。
一度は、納得させようとした。私はどうあがいても、彼女たちのようにはなれない。クリストファー殿下の隣に立つのなら、私より優れた人でなければ──。
それなのに。
あの人は、社交界にほとんど姿を見せなかった。名ばかりの婚約者なのだと噂が広まった。夜会に殿下が姿を見せると、とたんに元婚約者候補たちとその親たちが群がった。殿下の状態は、傍目には婚約前と変わらなかった。
……私なら、そんなことは絶対にしないのに。
一度は納得させた私の中に芽生えた思い。そして、徐々にあの人の功績が民や貴族の中にも広まり──春先のあの出来事が起こった。行儀見習いとして後宮に上がった令嬢、アイリーン・パルカス。私やテレーゼたちの間では愚かなことをしている、という認識だったが、あの方にはあの方の考えと思いがあったらしい。
結局は……すべてが殿下の思惑の内で、その中でまとめられてしまったけれど。でも、──おそらく、父も私もあの時に同じことを思った。
付け込む隙は、まだある。そして──機が来た。
「…………」
ふるえそうな口元をひっしな思いで抑え込む。側付きの侍女が顔色をうかがってくるが、他人が私の内を知れば、口が裂けても聖女さまなどという言葉は出て来ないだろう。
私はどこかで知っていたのだから。
あの人が──父の手の者によって、どこかで命を落としている可能性。
いえ──その事態を。私はどこかで望んでいた。いなくなってほしかった。クリストファー殿下のそばから……!
「──ファーミアさま!」
よろめいた私に周囲がざわつく。自分の中のどす黒さに吐き気がするようだった。
心の奥底では望んでいながら、見ないフリ、考えないようにしていたことにあの時気付いた。あの人が生きている。それを知らされた時に、私の中に一番に浮かんだ思いとともに。
どうして、邪魔をするの……?
あともう少し──夢見た場所まで、あともう一歩。手にかけていた。幼い頃からずっと、夢見ていた場所まで、あと──。
『夢を見る虫』──そう言ったのは、あの人だった。
周りの令嬢が蜂蜜菓子に話題を移していた中で、希少蜂蜜から話題が移ってやきもきしている彼女に、テレーゼが聞いた。でも私、ふしぎ、と。
『虫って、冬場はほとんど姿を見ないのよね。集団で越冬する虫がいるのは、少し前に小耳にはさんだけれど。……土の中にいる虫たちは、どうやって春を知るのかしら』
虫は暖かい春になったら出てくる。そんな当たり前のことを、なぜかしらという友人。再度、エリアーナさまの本知識がはじまるのかと思った。けれど違った。彼女も少し考えて、思うように口にした。
『夢を見ているのかも……』と。
『夢? 虫が?』
思ってもみなかったことを返された口調で声にしたのは、テレーゼだった。うなずいた彼女は、例えば、と口にした。
『セミは七年間、土の中で幼虫のまま過ごすという論文があります。七年もの間、自分が目覚める時をただひたすら、じっと待っているのです。春も夏も、冷たい冬も──。そして、時が来たら目覚める。自分の命を燃やす時を、自分でわかっているのかも知れません。そして』
と、明るい日差しに目を向けた。近くで少女たちが語らう様子にも。
『──その時を、夢見ているのかも』
自分が目覚めて、羽化する時を。だれもが夢見る、自分が主人公になるその時を。
なのに、と思わず恨み言がこぼれそうになる。
どうして? どうして邪魔をするの? 私が目覚めるのは今この時。サウズリンドの聖女としてクリストファー殿下の隣に並び立つ。ようやく、私の番が来たのに……!
めまいがするような吐き気をこらえる私に、周囲があわてだした。お身体が、王の子を宿したお身体が、と。
「……っ」
叫びだしそうな声もどうにかこらえた。
周囲の者たちも皆知っているはずなのに。今民の間でささやかれはじめた言葉。『偽聖女』。聖女が配るポメロの実は病に効かない。王都の施療院関係者たちの言葉が、今頃浸透しはじめた。
「治療薬」、「虫かぶり姫」──その存在だけで。王宮に情報がもたらされたのは、たった一昨日の出来事なのに……!
それは、民がどれだけその存在を待ち望んでいたかの証明でもあった。私が何日もかけて自ら足を運び、行動と名を周知させた努力も、一瞬で崩壊。
砂上の楼閣。ウソで塗り固めたものが見る間に崩れていく。
父は、まだ何かの手を打っている。私をどこまでも利用しようとしている。……いえ。父の思惑に乗ったのは、私。その中には、エリアーナさまを手にかけることだって想定内だった。
すべてを呑んで、それでも諦められない想いと夢のために、この道を選んだ。親友と決別しても。
もう、幼い頃のように失敗をしていた私とは違う。テレーゼやあの人の後ろでほほ笑んでいた私とは。夢見た場所。そこに至る道に、今、私は立っているのだから。
周囲の侍女や、人が込み入ったこの場所まで馬車を呼び込もうとした護衛兵を止めた。ごめんなさい、大丈夫よ、と。
息を整えて吐き気を逃し、静かに立ち上がる。いつも通り背筋を伸ばし、周囲にほほ笑んで神殿内部を目指す私に、小さな拍手が起こった。偽物の聖女を、まだ信じてくれている人たち。
「…………」
クッと息を呑んで神殿最奥、カルロ神への拝謁を行おうとした。そこに私の救いはないと自身で知っていた。覚悟はとうにしていたと改めながら──それでも浮かんでしまう思い。
自ら切り捨ててまで望んだ道。それなのに、──私はどこかで待ってしまっている。
『──ミア』と呼ぶ、救いの声を。




