冬下虫の見る夢─18
女は強い。
そんな言葉をここのところ、いやに噛みしめるようになった。
「南のギーズ領、王領備蓄庫を解放する。例年の計上は確認している。王領庫を空にしても、数年は南領の蓄えで補うことが可能だ。ギーズ領の新税制については財務室と審議中につき、追って通知を出す。以上だ」
言うべきことだけを告げて、席を立った男がいた。
金の髪に鮮やかな青の眸。辺りを払う気品と存在感──サウズリンドの次代を担う王子、クリストファー。
「お、お待ちください!」
すがるように一席から立ち上がったのは、重職を担う貴族の男。
「ギーズ領は南方貿易や新航路開拓、はては緊急時の海賊対応のため、常に一定の備蓄を備えていることを原則とされています。さらに友好国より、いつ如何なる時でも、柔軟な要請に応じる必要があるのが、ギーズ領の在り方で……」
「リッズス卿」
冷ややかな声が返された。その場を氷点下に置くような静けさ。今さらあらためて国の領地の在り方を説く男に向ける、聡明と名高い王太子の視線。
当然のように、目にした者が息を呑む迫力だった。声音もまた、それに準じている。
「今がいつ如何なる時。──そうではないのか」
王領庫と定められている備蓄。それを今開けずになんとする。
王子の無言の言葉はその場を圧する。しかし……、と蒼白な顔で食い下がってきたリッズス伯爵を少しほめてやりたい気もした。が、続いた言葉は決してほめられるものではない。
「……お、王孫に繋がる外祖父の方をないがしろにするような行為は……」
王領の名のもとに保管される備蓄。それを管理しながら、この国難、その王命に粛々と従えない理由。南方貿易から繋がる海上貿易とその利益──その先にたどりつく、大物。
うわ、と思わず目をつむる思いだった。よりにもよって、という思いは目前の王子の息を呑む迫力で示される。
「リッズス卿。そなたが仕えているのは、国と王家か。それとも、別の者か」
青く冷たい刃。それがリッズス伯に突き付けられるのを見た気がした。以降の反論は聞かんとばかりに、「本日中の手配報告書を上げろ」と一言で切って捨てた。
凍り付く重鎮たちを尻目に、次に向かう王子のそばにつくのは、筆頭護衛である自分、グレン・アイゼナッハと他二人。自分たちが物々しく周囲に目を光らせる光景も、もはやここ最近の日常だ。
サウズリンド国王が病に倒れた今、国の現在も未来も、この若き王子の肩にかかっている。一身に重責を担うその姿を見ながら、もどかしい歯痒さを内心でこらえる日々が続いている。
一室を出るや、同じく付いていた別の文官が次の議案と緊急の決済書類を差し出してくる。言葉少なにさばいて回廊を歩む王太子クリストファーは、昨今の情勢とあいまって、麗しの王子と称される微笑もなく、怜悧にあたりを払う様がまた素敵、と王宮内の女性の人気も高い。
そんなクリスの背を見ながら、冷静なのか、ただ静かにぶち切れているだけなのか、幼馴染の自分にもさすがに判断がつかない。
先の言葉にクリスの感情が逆撫でされたのはわかる。が、それを抑えてあくまで今必要なことを優先し、公正な判断を求めた結果があれでは、切り捨てるのも当然だろう。
先の伯爵がオーディン公爵派なのは明白だ。彼が当たり前のように口にしたように、今のサウズリンド王宮内はそれが事実であり、近い将来の出来事として受け止められている。
あの時から、クリスはその方面に関してピタリと感情を閉ざしたようだった。
──『王家の血を残すのは、あなたの義務です』
そう告げられた、あの夜から。あの夜以来、クリスの顔には作り笑いの欠片もなくなり、軽口さえも乗ってくることはなくなった。夜も、ほとんどまともに休めていないのが側仕えの者にはわかる。
こらえた内心の苛立ちは、どうしても今この場にいない者へ向かってしまう。
──何をしている、アレクセイ、と。
今のクリスを少しでも救い上げる唯一の存在は、エリアーナ嬢しかいない。そしてこの事態を打開する存在も。予想だにしなかった事態は様々起こっているが、現地にいるアレクセイがただ黙って事態を看過しているとも思えない。
しかし……寄越される情報はかんばしくないものばかり。それは、アレクの頭脳と手腕をもってしてでも手の打ちようがないのか、敵が新たな手を打っている証か。
少しでも、彼女に関する手掛かりが得られれば──と、もどかしさのあまり歯痒さばかりがつのる。今、身動きの取れないクリスに代わって、現地に自分が飛んで彼女の生存を確かめ、その身を確保できれば、どんなにいいだろう。
どんなに、クリスが安堵するだろう。
もしも──もしも、万が一。寄越される報告通り、エリアーナ嬢の身にもしもの事態が起こっているのなら。
クリスは、どうなるのだろう。
「…………」
ぐっと、もはやクセになった拳を固めた時、回廊の向こうから歩いてくる人物を認めた。同じく視界にとどめたクリスが、変わらぬ顔で横の文官に指示を出し続けるのも。
臣下の礼で相手だけが立ち止まり、軽い目礼とともに王太子が通り過ぎるのを待つ。クリスもまた、それを当然のようにやり過ごした。
他のだれとも変わらない態度。──相手が今現在、生死不明の自分の婚約者の父親であっても。
その至って平素な、無関心とも言える双方のやり取りに、焦れていた感情がスッと落ち着くのを感じた。それは──一月近く前。
新年早々、秘密裏にもたらされた会合だった。
発端は歴史的な敵国、マルドゥラからの報せ。それを以て、クリスはごく短時間の会合に挑んだ。わずかな人間、──自分とアレクセイだけを伴って。
対面した相手に、自分も少なからず緊張と、そして苦い思いを抱いたのは確かだ。
「──エリアーナに手掛かりを託す。それがあなたの出した結論ですか。クリストファー殿下」
顔をそろえたとたん、あいさつも前触れもなく本題を切り出してきた人物。
四十代半ばの、のほほんとした印象の男性。貴族階級にふさわしい鷹揚さと寛容さ。しかし、その印象とは裏腹の、穏やかながら相対する者を測る目付き。
サウズリンドの国庫を、たったの四年で赤字から回復に持ち直した手腕の持ち主。今や、一国の財政をその手に預かる重鎮の一人──ベルンシュタイン侯爵。
侮りやすい凡庸な容姿からは想像しがたい、王宮内でも屈指の賢臣。
その隣に並んだ息子である青年は、自分たちに心やすい友人でもあった。……が、今向かいにいる立ち位置が、彼の意志を教えてもいた。
前置きもない確認事項に答えたのが、自分たちをこの場に立ち合わせた張本人、クリストファーだ。
ええ、と愛想もない固い声で。一歩控えて侍したアレクセイにも疑問が浮かんだのがわかった。
当初、ラルシェン地方の冬の恒例行事、慰霊祭にはクリスが赴く予定だった。陛下の叔父にあたるラルシェン先々代伯爵、バーナードさまの見舞いも込めて。それが、マルドゥラからの急使ですべてが差し替えられた。
慰霊祭には、王太子婚約者エリアーナ嬢を。そして、エリアーナ嬢の護衛とマルドゥラへの威容のため、国軍のひとつ、黒翼騎士団を呼び寄せる。
ここまでは自分たちも周知の事実だ。
だが、クリスとベルンシュタイン侯爵との会話には、自分たちにも知らせていない情報と事態が動いていることを示している。
いったい何事だ、と思うそばで、対峙する相手がかすかに──ほんとうに、空気のようなかそけさで笑ったのがわかった。
それに反射的に返したのが、聡明で英邁と評判の王子だ。どうも、長年の宿敵に対しては感情が先に立ってしまうらしい。……積もり積もった怨念だろうか。
続く声には一転して苛立ちがあらわだ。
「いやほんとうに……、お見事としか言いようがない。あなたがこれまで上げてきた、海上貿易の税収と支出の流れ。その税収に比した船舶数の矛盾、ミゼラルや西国の商船印の増加等々。市場に運ばれる流行りの海産物、人材の流入、税収報告書に紛れて、情報をちりばめていただいた。いやまこと、まるで気付かせたくないのでは、といういやらしさだった」
問題はさっさと要点だけ知らせろ、と抑えた嫌味に、目前のベルンシュタイン侯爵も変わらぬ笑みで返してきた。
「昨日今日お渡ししたものならいざ知らず。ここ数年の報告書を見直してようやく気付けたからと言って、そう誇らしげになさるものではありませんよ。殿下」
さっさと気付かなかったマヌケ──と、これまた嫌味の応酬に、知らず冷汗が落ちるのを感じた。
剣呑な気配がつのるクリスを目前に、狸──いや、ベルンシュタイン侯爵の態度は変わらない。
「それに、私は数多ある芽のひとつを報告したに過ぎません。どれが芽吹くかは、時勢と──芽吹かせた人物による。それをあなたもご存じでは? 殿下」
グッと息を呑む様子がその拳からもわかった。……薄々、自分たちにもそれは理解できる。
クリスがもうずっと──それこそ、幼少期の頃から警戒し続けている人物。実母の兄、オーディン公爵。何かを芽吹かせたのは、彼か。
しかし、クリスはそれを警戒しているからこそ、今回、エリアーナ嬢に近いバクラ将軍を呼び寄せたはず。そう思う隣で、アレクの声にしない歯軋りが伝わった。幼い時から、クリスのそばで王宮の人間を見て学んできた者の空気。
……すでに事態は、自分たちの手の及ばないところで動き出している。──そういうことか?
あなたは、とクリスから唸るような声がもれた。
「あなたは、事前にそれを止めることだってできた。なのに」
続いた歯軋りから漏れるような声は、普段あまり表に出さないクリスの本音だったろう。王子としてのものではなく、一人の男としてのもの。
「自分の娘を──エリアーナを、その中に向かわせるのか」
殺気と同じくらいの強い感情に、自然と剣の柄に手をかけそうになり、拳で抑えたほどだった。しかし、返される声は至って静かなもの。
「子どもじみた矛盾を繰り返すのは、大概にしていただきたい」
口調は穏やかに、辛辣な気配と眼差しのベルンシュタイン侯爵。それにクリスのみならず、アレクセイや自分も諫められたのがわかった。
すべてが、もっともだ。
クリスは私情ゆえに、エリアーナ嬢を王家に厳しい土地へは向かわせたくない。だが、立場ゆえに、現在の情勢ゆえに、それは致し方ない。そして、クリスはすべてを覚悟の上でエリアーナ嬢を望んだはずだ。また──。
動きだした事態になったのが、クリスの身内の野心と時勢ゆえ、というのをわかっていても、なお感情をぶつけずにはおれない。それが八つ当たりと自身で理解していても。
止められたはず、と。どこにもぶつけられない青臭い甘えを。
それを静かに受け止める侯爵とアルフレッドの表情を見て、ふと思った。
英雄王のその時代から与えられてきた隠し名。彼らがそこにあえて居続けたのは、表立って与えられるものを嫌厭したからなのではないか。自分たちは神ではない。──王ではない。
「王子。あなたはこれまで何を学んで来られた。愚王の道を踏襲するためか。繰り返す歴史におのれの未熟さを悔いて、ただ我らの名に頼り続けるためか。それが、あなたの選んだ王の道か」
王とは、なんのために存在するのだ。
そう、真摯な問いを向けられているようだった。逃げることを許さない空気。息も詰まる緊迫感の中、静かにクリスがおのれの非を認めた。
「失言だった。……取り消す」
会合一番、『エリアーナ嬢に託す』という文言が出、それをクリスも侯爵も受諾していた。その時点で、蒸し返すような言い合い自体、益のないことである。……それでも口にせずにはおれなかったクリスの青臭さを、侯爵はフッと明らかな失笑で返した。
「まあ、今にはじまったことではありませんからな。──マルドゥラの訪問に加えて、婚約者がそばに控えていない王太子の隣を狙う、馬や鹿が群がることでしょう。さらに付け加えさせていただくなら、重臣会議も荒れるでしょうな」
まあ、なんというか、と侯爵の口調はクリスを幼少期からあしらってきた者のそれだった。
「私と祖父が出した条件を上っ面で取り付け、事を急いたゆえのしっぺ返しと言いましょうか。青臭いひよっこのやることゆえ、予測し得る事態と言うべきでしょうか」
──ベルンシュタインの隠し名を使わず、婚姻の賛同を貴族たちから得ること。
四年前に出された条件をクリスは満たした。しかし、それは表面上に過ぎず、内面でくすぶったものがこれから噴出してくるだろう、と。
鼻で笑うベルンシュタイン侯爵に、クリスが抑えた感情を再燃させるのと、自分たちがあっけにとられるのは一緒だった。これは確かに、クリスをもってしてでも会話の主導権をにぎるのは難しいだろう。
先とは違う緊張と冷汗を覚えると、侯爵が静かな微笑で応えた。まあ、とこれまでとは少し異なる口調で。
「あなたが出した答えには敬意を払いましょう。クリストファー殿下」
ようやくクリスの名を呼んだのだと、続いた言葉で悟る。
「あなたが求め続けたエリアーナ。あの子に手掛かりを託すと決めた、あなたの判断を」
その瞬間ほど、クリスの感情がふくれ上がったことはなかったかも知れない。それは認められた喜びなどではもちろんなく、──自身への激しい怒りだった。
ふざけるな、というこの世のすべてを暗黒に染め変える、この上なく禍々しく、闇夜の漆黒にも似たものを。
その後もいくつか言葉を交わし、会合はごく短時間で終わった。
今。あの時のクリスの憤りがわかる。
話し合いが終わった後、当然のように自分とアレクセイはクリスに詳細を求めたが、一言で断ち切られた。「言えん」と。
あれはおそらく、どこからか情報が洩れるのを懸念しての判断だったろう。王家の影に異変が起こった今なら、あの時の判断はもっともだとわかる。
そしてきっと、できる限りの情報は与えた。後は自分たちで推測せよ、というクリスの無言の信頼だったろう。
それがまさか……灰色の悪夢の再発とは、思いもよらなかったが。
クリスは事前にその情報を掴み、解決への手掛かりを目を皿にして探した。そうして得たものを、エリアーナ嬢へ託した。──彼女が感染するかも知れない可能性を、視野に入れても、なお。
ベルンシュタイン侯爵は、その判断を評価したのだ。
幼い頃から求め続けた女性をただ王宮の奥深くに隠して守るのではなく、おのれが与えた立場と責任、──なにより、国の将来を見据えて。
これがサウズリンドの頭脳と呼ばれる一族か、と今さら戦慄を覚える。時勢と未来を見て、それが最善と思えば、自身の娘でさえ危地に向かわせるのにためらいはない。その冷徹な判断力。
もし──と、埒もないことを思う。
もし、クリスがエリアーナ嬢を閉じ込めてただ守るだけの男だったのなら。侯爵たちは、どんな手を使っても婚約は破棄し、王宮を辞して領地に引きこもったのではないか。
そんなもう一つの未来が見えて、あわててそれを追いやった。
今、エリアーナ嬢の姿は王宮になく、その生死すら不明のままだ。クリスが自身へ向ける憤りは如何ばかりだろう。そばにいてほしいと望み、婚約者の地位につけた。この先の未来をともに歩む者として臨んだ。
そして今。それが彼女の命を脅かす事態となり──立場をも危うくしている。
そばに望まなければよかったのか……。クリスは今、幾度かわからない自問と自責を内で繰り返していることだろう。そしてだからこそ、ベルンシュタイン侯爵は何度矛盾を繰り返せば気が済むのだと叱責したのだ。
「…………」
静かに声にも気配にも出さない息をついて、冷然と歩む幼馴染の背を見る。
あきらめていない。きっと。
なぜと聞かれても、そうわかるのだとしか答えられない。たとえ――。
「クリストファー殿下」
クリスの執務室、ごく厳選されたものしか出入りがゆるされていないそこから、明るい声で出迎えてきた者がいた。
扉が開かれ、朗らかにいたわる微笑を向けてきた令嬢。その性質を示すように、やわらかく相手を包み込む気配。けして派手ではない、ささくれた気持ちをいたわるようなやさしさ。
今のクリスには打って付けのような女性、ファーミア・オーディン。
まるで彼女こそが王太子の執務室を支え守る古参侍従のように、クリスを迎え入れ、甲斐甲斐しく重責多忙の身をいたわる。
普通の男なら──いや、こんな困難な状況に置かれた者なら、そばにいて支えてくれる存在にほだされるだろう。あり得ることだ。クリスがそちらに心を許しても、仕方がないと思っている。……だが。
どんなに好意的に見ようとしても、やはり彼女の行動にはぬぐいきれない不快感が残る。彼女はまるで──意識してふるまっているようだ。王子に婚約者がいた、その場所をひとつひとつ塗り替えるように。
そしてクリスもまた、彼女の姿を認めたとたん、ピタリと政務に関する指示を止めた。視野に入れているはずなのに、まるでいない者のような態度。
お茶を出されても手をつけず、話しかけられても目も上げない。……俺だったら、好きな相手にここまで徹底した態度を取られたら、かなりへこむ。
しかし──。
「グレンさま。どうぞ」
傷付いたふりも見せず、にこやかにお茶を差し出してくる。勤務中なので、と断るまでが最近の流れだ。
彼女もそれ以上は強いることなく、微笑で引く。執務室内の本の整理や資料整理、クリスの執務机のインク瓶をさりげなく交換したりと、細々気を配っている。
幼い頃から知っている女性だが、彼女がこういう強さを持ち合わせていたのをはじめて知った。そして、女は強い、と思う。
彼女のめげない心の拠り所はどこだろう。執務机で黙々と書類をさばいているクリスを見やって、おそらく……と思う。
この部屋に自由に出入りしても咎められていない現状。王太子執務室に、部屋の主が不在でも出入りができたのは、婚約者であるエリアーナ嬢だけ。
今や、ファーミア嬢はそのエリアーナ嬢以上の扱いを周囲から受けている。執務室にさすがに専属侍女は入室していないが、一歩出れば、歩き回ることさえ気を遣う侍女たちに囲まれる。その身を慮る、オーディン公爵家の侍女たちによって。
状況が人を作ることもある。それを、俺はまざまざと思い知らされるようだった。
ファーミア・オーディン公爵令嬢は、今やサウズリンド王宮内で王太子クリストファーの寵を受けた女性──次代をその身に宿した令嬢。確実にそう思われていた。
それゆえに、先のオーディン公爵派の人間が当然のように外祖父を慮れと口にしてきたのだ。クリスは確実に相手の勢力を見定め対処していっているが……すべてが後手だ。この状況では、どうしてもそう見えてしまう。
国内の評判、情勢、王宮内での黙認される事態。
クリスは……当初、執務室への出入りをやめるようはっきりと告げていた。しかし、彼女はなぜ? とやわらかな笑顔で返してきた。
『エリアーナさまも、自由に出入りしていたではありませんか』
クリスの眉宇がはっきりと深まるのを見、俺も冷汗を覚えた。
彼女は――なにかに怒っているのではないか。そんな直感も覚えた。が、以降は彼女の存在を無視するようになったクリスと、それを気にしない彼女と、その光景がただ悲しく映る。
幼い頃、互いの身分も気にせず、無邪気に遊びまわった時期が確かに自分たちにはあった。子ども特有のいたずらや、秘密の共有事、困った時にはたすけ合い──行儀も作法も気にせず遊びまわった夕暮れ、同じ夕日をながめた。だが。
「殿下。──クリストファーさま」
侍従の取次ぎを代わりに受けたファーミア嬢が、はじめてみるような嫣然とした微笑をクリスに向けた。
「マルドゥラ国王子を拘束している軍部から、矢の催促です。しかるべき対処をして本国へ送り返すべきだと。──たとえ、どのような形であろうと」
室内にいた近衛が戦慄の気配を走らせたのがわかった。
どのような形であろうと。──人の形をしていなくとも。それは、サウズリンドからの宣戦布告を急かす声。
さすがに書類に落としていた眸をクリスが上げた。青く、燃えるような静かな憤り。
それに対して、やわらかな微笑で受け返す女性。
「私なら、軍部の強攻派を抑えることができます。私と──父なら」
オーディン公爵家の名があれば。
王宮内、王都、国内と、彼女の存在と立場は固められつつある。あとは、王太子クリストファーが確固たる肩書を彼女に与えるだけ。
『王太子婚約者』という地位を、彼女に。
そうすれば、公爵家の力で軍部は抑えて差し上げる。自分たちの望みを、あなたが叶えてくれるのなら。
そう、言葉にしない声が聞こえた気がした。




