サラゴサ
サラゴサは、マドリード北東三百キロにある古い都市だった。スペインが統一される前は、アラゴン王国の王宮のあった都市だ。
ランポートは、天蓋つきの二頭立て馬車の座席に揺られながら、向かい側に座る婦人を観察していた。
サルディニアの領主の次男、ガスパール・ド・カブリオの乳母、ファナ・カースィーだった。年の頃は三十五前後、ふくよかな体型で黒髪に緑の瞳を持ったかなりの美人だった。ファナは目を細めて車外の景色に見入っていた。
「あら、すいませんね、ランポート子爵さま。何もかも懐かしくて、夢中になってましたわ」
彼女は彼の視線に気づいて言った。
「私は、サラゴサで育ったんですの。ベガ伯爵さまのお屋敷に代々奉公していたんですが、伯爵さまの妹君マリアさまの二人目のお子さま「ガスパールさま」の乳母としてこの国を離れてから二十年あまりもたつもんですから、すっかりはしゃいでましてよ」
そういって彼女はコロコロと笑った。
「はぁ、二十年ですか? 随分と長いですね。お国には、ご両親はご健在なんですか?」
「あぁ、父は三年前に亡くなりましたが、母や兄は健在だと聞いております。子爵さまのご両親はいかがですの?」
「申し訳ありません。私の親族は皆死にました。ご存知かと思いますが、イングランドでは黒死病がはやっておりまして、一族郎党みなやられました」
本当は暗殺された訳だが、いつも病で死んだと周りの人間には説明している。
「あら、不仕付けな質問をしてしまいました」
彼女は、驚きと悲しみの視線でランポートを見詰めた。
「気にしないでください、これは私の運命なのですから」
ランポートは、優しく微笑み返した。
「まあ、なんて意地らしいのでしょう。まだ、十二、十三の年頃でしっかりしてらっしゃるのね。わたしのガスパールさまは、それに比べてなんと情けない」
ファナは、はらはらと泣き出した。ランポートはどうしたらいいのか判らず、おろおろと視線を彷徨わせたが、チョッキのポケットからレースの刺繍入りのハンカチを取り出すとファナに黙って渡した。
「すみません、取り乱してしまって、それもこれもこの懐かしいアラゴンの空気に当てられてしまったせいですわ」
彼女はハンカチで目を抑えながら言った。
「いえいえ、私のような赤の他人の為に涙を流して下さる心根の優しさは、大変心に染み入ります」
ファナははっと目を上げて彼を見ると頬をわずかに赤く染めた。どうやら、ランポートは彼女に気に入られたようだった。
「へーい、子爵さま」
その時馬を操っていた御者が、声を掛けた。
「どうやら、ベガさまのお屋敷に到着したようで」
ランポートはその声に馬車の窓から外を覗き込んだ。すると、一面の小麦畑の向こうに、がっしりとしたビザンチン風の城がこんもりとした森を背景にして見えた。
「ああ、懐かしい。ベガさまの居城ラ・ロマレダ城ですわ」
ファナの声が彼の耳元から聞こえランポートは一瞬ドキッとした。
「あのお城は、アラゴン王アルフォンソ様が四百年前にこの辺一帯の異教徒を打ち破り、平定した時の敵の砦址ですのよ。二百年前からベガ家の所有になり、館に改造されて使われていますの」
「伯爵さまは、私のようなよそ者に武芸の手ほどきをしてくれるものでしょうか?」
ランポートは、フッと不安になり呟いた。
「大丈夫ですわ、子爵さま。ディエゴさまは、私の兄のような方ですから、必ず貴方さまに剣術をお教えになられるように私が説得しますわ」
ファナは更に馬車の外に身を乗り出し、彼に密着しながら言った。
「そう願えれば、ありがたい」
ランポートはファナの豊満な乳房が自分の背に押し付けられてるのを意識して上ずった声で答えた。
やがて、馬車は城の馬回しを上り、ポーチの前で止まった。そこは二十畳ほどの大理石の敲きで、高さ五メーター近くある栗材の玄関扉の前には、家令と思しき筋骨逞しい中年の男が直立不動で彼らのことを待っていた。
ランポートの馬車の御者が、サッと御者台から飛び降りると、馬車の扉を開けてそこに踏み梯子を掛けてくれた。ランポートはファナより先に梯子を降りると彼女が降りるのを手を支えて助けた。
「イングランド=ケント公、ウィリアム・ランポート子爵さま、並びにスペイン=サルデニア副王のご子息ガスパール・ド・カブリオさまの乳母ファナ・カースィーさまご到着」
御者は畏まった声で、自分が誰を運んできたか、家令に向かって大声で叫んだ。すると扉の前に立っていた男が、二人の前まで進み出てきた。
彼はどう見てもヨーロッパ人には見えなかった。浅黒く黄色い肌で辮髪に結った髪は漆黒、瞳も漆黒で頬骨が高く糸のような細い眼を持っている。
「よくぞ、遠路はるばるお越しいただけました。私は当ベガ家の家令を勤めますウコン・サナダ・ハポンと申します。
御者の方は、そのまま馬回しを館の裏手のほうに進んでいただけますと、厩と使用人の住居がございますので、そちらへお進み下さい。子爵さまとファナ嬢は、私に付いて来てください。当主の執務室までご案内いたします」
彼はそう言うと二人に背をむけて玄関扉の方に先導するように歩き出した。
「くくく……」
ランポートには、ファナが必死に笑いを噛み殺してる姿が横目で見えた。
「あ~、エヘン。ファナ嬢、お行儀が悪いですぞ」
ランポートの前を歩く家令が、困ったようにぶつぶつと呟いた。
「だぁ~って、私が乳母としてカブリオ家に行く時、あなたはまだ十歳で『おねしょ』してたじゃないの」
ファナは笑いを堪えられなくなって、ケラケラと笑い始めた。
「し、失敬な。口を慎みなさい!」
彼は真っ赤になって二人の方を一瞬振り返ると、ファナに文句を言ってすぐにまた先導する為に歩き出した。ランポートは、ファナとウコンが幼馴染であったらしいことを察して、思わずニヤリとした。
一行は、大扉の一角に作られたくぐり戸を抜けて屋敷の中に入っていった。ガランとした玄関ホールを通り、幾つかの長い廊下を抜けてウコンは、二人を案内していった。
館の内部の作りは、いたって質素だった。既に暮れかけた屋内を照明する明かりも、高価な蝋燭ではなく、陶器でできた菜種ランプだった。だがそれが、元々この屋敷がイスラム様式で建てられたものであることを強調して、ランポートに異国感を感じさせた。
ウコンはとある扉の前で立ち止まり、咳払いを一つすると言った。
「旦那様、ファナ嬢とイングランドの子爵様をご案内いたしました」
すると、扉の向こうからバリトンの年配の男の声が答えた。
「お通ししなさい」
ウコンは扉をさっと開くと二人を中に招き入れた。
そこはなんという部屋であったろうか、広さは十畳ほどだったが部屋の壁と言う壁に見慣れぬ武器が飾り立てられ、これまた見慣れぬ甲冑らしきものが何体も飾られていた。
そして、部屋の右奥にこれまた異常に低い机が置かれガウンの様なものを羽織った初老の男が胡坐をかいて座っていた。部屋の明かりは、四隅に立てられた四角い紙張りの置物が、柔らかく照明しており、不思議な雰囲気をかもし出していた。
「よく参られたランポート殿。仔細は甥のガスパールから聞いております」
初老の男は胡坐を崩して立ち上がりながら言った。
「こちらがコンキスタの英雄=ディエゴ・デ・ラ・ベガ伯爵でございます」
ウコンが初老の男を指して言った。
ベガ伯爵は中肉中背で、均整の取れた体づきをしていた。ウェーブの掛かった銀髪を後ろで束ね、賢知を秘めた穏やかな緑色の目はランポートとファナを優しく見詰めていた。
「ベガさま……お会いしたかった」
ファナは伯爵の下に走りより、その胸に体を預けて言った。
「おお、ファナ。良くぞ戻った」
伯爵もそんな彼女を力を込めて抱きしめた。
「甥のガスパールも味な事をしてくれる。二十年ぶりに愛しいお前を私の元に返してくれた」
二人はどうやら使用人と主人という関係以上の間柄だったらしい。ランポートはそんな二人をニコニコして見ていた。
「ウォッホン」
しかめ面をしたウコンが、二人の注意を促すように咳払いを一つした。
「これは失礼したランポート殿。甥の奴がようやく私の思い人を返してくれたのでついうれしくなって貴殿の事を失念しておった」
ベガ伯爵は屈託の無い笑顔でランポートに言った。
「いえいえ、伯爵さま。事情を知らぬ私は多少びっくりしていますが、あなたの甥子どのには私も嵌められたようです」
ランポートは苦笑いを浮かべながら答えた。
ガスパールは最初からファナ嬢を叔父の下に返すべく計画していたのだ。ランポートの件は、ガスパールの母に対する言い訳に利用されたらしい。
「甥もマドリードでゆっくり羽を伸ばしたかったのだろう。許してやってくれ。だからという訳ではないが、貴殿の稽古はみっちりと付けてやるつもりだ」
ベガ伯爵はニッコリと彼に微笑んだ。
「では、ランポートさま夕食の前に貴方様のお部屋にご案内いたします」
ウコンはまだ身を寄せて見詰め合うベガ伯爵とファナ嬢を横目で見ながら、ランポートに声を掛けた。ランポートは軽く肩をすくめるとウコンの後についてベガ伯爵の執務室から退散した。
兎にも角にも、ランポートの剣術修行はすんなりとスタートしたのだ。後に彼がスペイン随一の剣の使い手として有名になる修行が始まったのである。