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スペイン

三月の弱弱しい太陽でさえ、アイルランドよりよほど強烈で王宮の中庭を進むランポートの目を弄った。

 彼はコストロ男爵と呼ばれる派手に着飾った中背の男に従って王宮内の東屋を目指している。

 マラガ港に着いたのは一週間前だった。タルキス婦人はマラガ港に到着すると地元豪族の屋敷に三日ほど逗留し、その間ランポートの衣装やら装飾品を買い揃えると、この嫌見たらしいコストロ男爵に彼を預けて「また、王宮で会いましょう」と言って彼と分かれた。そして、彼と男爵は仕立てた馬車でゆっくりとスペイン王宮のあるマドリードに向かったのだった。

「ランポート卿」

 男爵が肩越しに彼を振り返って言った。

「あなたはドイツ語が話せますかな?」

「はい、日常使う程度なら不自由しませんが」

 彼はいぶかしく思いながら答えた。

「ふむ、それは結構。これからお会いするフェリペ四世陛下は、神聖ローマ帝国ハプスブルグ家の系譜にあらせられるので、どちらかといえばドイツ語で話されるのがよかろう」

 男爵は慇懃な笑みを浮かべながら言った。

「これから案内する東屋は、厳重に人払いがされている。私も中までエスコートすることはできない。

 大恩あるタルキス婦人の頼みであるから黙って貴君をお連れしたが、私はもう猫のように好奇心で心が潰れて死んでしまいそうだ」

 ランポートは、男爵の悶えるような心の葛藤が彼自身の瞳に浮かび上がるのを見たような気がした。

「貴君はいったい何者なのだ?この世で最も偉大な帝国の王に単独で謁見できる者などそうはおるまい。

 婦人からは、アイルランドの一貴族の子弟だと聞いているが、単なる田舎貴族がこのような待遇をかつて受けた例をわたしは知らない」

 男爵の両手が両拳が小刻みに震えていた。ランポートにひどく無礼な言葉を投げつけている事など気にもしていない素振りだ。

 ランポートは、マラガ入港直前にタルキス婦人によって明かされた自らの信じられぬ生い立ちを、決して他人には口外しないと神に誓っていた。

「コストロ男爵様、わたくしはイングランドのジェームズ一世陛下により親族を皆殺しにされた哀れなアイルランドの小僧っ子にすぎません。フェリペ四世陛下はイングランド王の無慈悲な行いに同情され戯れにこのような孤児にお会いになってくださるのだと思います」

 ランポートは「その理由を知ってたらこっちが教えて欲しいものだ」と思いながら答えた。

「ふむ、戯れにとな?……まあよいわ」

 男爵は不承不承自分自身を納得させたようだった。

 そうこうするうちに二人は件の東屋に到着した。

 東屋といっても小規模な礼拝堂が付属する豪族の館ほどの大きさがある。玄関扉の前には色とりどりの羽飾りを帽子に挿した近衛兵達が厳重に警護している。

「ここにまかりこしましたのは、神君の忠実なる下僕ファン・ドローテス・コストロ男爵家の頭首ドローテスとアイルランド王国の貴族ウィリアム・ランポートでございます。

 本日はこのランポート卿を太陽王フェリペ四世陛下にお引き合わせすべく、まかりこしました」

 コストロ男爵はそう言うと衛兵長と思しき人物に向かって帽子を取って軽く会釈した。

「これはこれは、よくおい出になられました男爵殿。陛下は既に奥の礼拝堂にてお待ちでございます。

 男爵殿がお連れくださったウィリアム・ランポート卿との謁見を心待ちにしておられます。陛下の命令で屋内にはランポート卿ただ一人で参られるようにとお言いつけですので、男爵殿と我々はこちらにて控えているとしましょう」

 衛兵長らしき男はそういってテラスに置かれた野戦用のベンチを指し示した。

 コストロ男爵は、そのベンチを一睨みすると、ランポートの背中を扉のほうに押しやり体をクルリと回してベンチの方に歩み寄っていった。

 ランポートはごくりと生唾を飲み込むと、衛兵が開いた扉の隙間に踏みこんだ。

 床は磨きこんだ黒と白の大理石の市松模様で、玄関ホールの奥から届く風はひんやりとしていた。

 天井は高くドーム状になっていて、天頂から吊られたシャンデリアが、玄関の高窓から差し込む日の光でキラキラと輝き、壁や床に光の花びらを振りまいている。

 ランポートの目の前にある観音開きの扉は左右と正面に一つずつあったが、開いているのは正面の扉だけで、奥に多少薄暗い礼拝堂が見えていた。

 ランポートはブルッと体を震わすと、礼拝堂と思しき部屋に通じる開け放たれた扉をくぐった。

 そこは確かに礼拝堂だった。彼が踏み込んだ部屋の入り口から左右の壁までは五メートル前後、奥行きは二十メートルほどで、中央通路の両側には六人掛けのベンチが前方に向かって十列ほど並び、奥の壁には司祭用の祭壇と高さ三メートル程の黄金の十字架がかかっていた。

 部屋の造りは伝統的なゴシック様式で左右の縦長のステンドグラスの窓からは色とりどりの光が射して、床や壁・ベンチや祭壇を鮮やかに照らし出していた。

 彼はそれらをいっぺんに目にして、軽いめまいを覚えた。

「おお、主よ。悪魔の手を逃れたこの若者に祝福あれ」

 彼は咄嗟に気づかなかったのだが、祭壇のすぐ横に立つ背の高い男が彼の方を向いてそうつぶやく声を耳にした。

 彼は反射的に床に方膝を着き、深々と頭を垂れた。

「尊王・フェリペ四世陛下、お初にお目にかかります。アイルランド子爵ウィリアム・ランポートめにございます」

 彼は床に視線を落としたまま、上ずった声で名乗りをあげた。

「存じておる、もっと近う寄りなさい」

 フェリペ四世の声がそう言った。

 彼は「では御免」と答えると体を起こし、初めてフェリペ四世の事を目で捕らえて歩み寄った。

 宮廷での作法はロンドン時代に散々学んでいたが、スペイン王宮で通用するものなのかまったく確信がなかった。彼はスペイン王の七歩前ぐらいまで歩み寄って再び方膝を落とした。

 フェリペ四世はすらっとした筋肉質の体型で肌は雪のように白く、栗色の長髪に黒い瞳、

面長で小さめの口にうっすらと髭を蓄えていた。着衣は全身黒のビロード地で細かな金刺繍の縫い取られたマントをざっくりと羽織っている。年回りは二十台前半といったところか。

「若者よ、『ご尊顔を拝し奉り』などの宮廷言葉は抜きだ。ざっくばらんに話すとしよう」

「は、はい陛下」

 彼は緊張の為しわがれてしまった声で答えた。

「タルキス公爵婦人から、おぬしの確かな身分を知らされてはおらんが、世が見ればすぐに判る身の証を何か持っていると聞いた。それを世に見せるが良い」

 フェリペ王はそういって彼に悪戯っぽくウィンクしてみせた。

「はい、陛下。これに……」

 彼はそう言って懐から件のロザリオを取り出して、フェリペ四世に更ににじりよってそれを差し出した。

 フェリペ四世はロザリオをヒョイッと受け取ると眉をひそめてそれをつぶさに観察していたが、「ほう!」という驚きの声を発して、ランポートの顔をまじまじと見詰めて言った。

「おぬしの赤毛交じりの金髪、広い額、鋭い剣のように尖った顎と切れ長の目・・・その青い瞳はちと違うが、それ以外は曾祖母殿に生き写しだな。はっはっはっ……」

 そして腹を押さえてひとしきり笑った後、続けて言った。

「すまん、すまん。チューダーの家系は滅び去ったと思って居ったから、運命の皮肉さに込み上げてくる笑いを堪えることができなかったのさ。しかも、ヨークの血も入って居るとは念が入っている」

 フェリペ四世は笑みを浮かべながら彼にロザリオを返して寄越した。

「して、ランポート卿。おぬしはこの私に何をして欲しいのかな?」

 彼はフェリペ四世の問いに咄嗟に答えることができなかった。

 このヨーロッパの半分と新世界の半分を統べる大王の真意を感じ取ることができなかったと言えば聞こえはいいが、単純に王の事が怖かったと言うのが本心であった。

「わたくしが今日ここにいるのは、イエズス会の司教様、布いては後ろ盾となって下さる陛下の恩義おかげです。このランポート、陛下の為にこの身を粉にして尽くせればと思っております」

 彼はその発育しきってない体を打ち震わせて声を搾り出した。そんな彼に対しフェリペ四世は肩をすくめて見せた。

「話にならんな、若者よ。私をがっかりさせるな。おぬしは、そこらにゴロゴロいる単なる貴族と呼ばれる輩とはまったく立場が違うのだぞ。

 おぬしの好むと好まなざるにかかわらず、おぬしは伝統ある家系のたった一人の末裔なのだ。このスペイン王家よりも古いかも知れぬ。

 そんなおぬしが、私の王国の中で私に仕えてみろ、いかに出自を隠したと言えど、必ず誰かがおぬしの家系の事を掘り起こしてくるに決まっておる。おぬしを庇護している法王庁にしても、おぬしをネタに私に強請りをかけてくるかもしれん。だから、おぬしは私に尽くすことはできないのだ」

 フェリペ四世は悲しそうに言った。

「おぬしが私に仕えるという可能性はなくなった。残る道は二つある。私の庇護を受けるか受けないかだ」

 ランポートはフェリペ四世の彼に接する態度がいきなり変化した事を感じ取った。

 最初は面白がり、次に哀れみが感じられ、今は王の威厳に裏打ちされた無慈悲な態度である。ランポートは身の内に沸き上がってくる得体の知れない無力感に怒りを覚え始めていた。

 この一ヶ月何も知らなかった少年が、衝撃的な現実を突きつけられ文字通り運命に翻弄されているという無力感。

「僕は……僕はまだ何も判らない。命の危険に晒されているっていう実感さえもない!陛下の言ってる事の半分もわかんないんだ」

 彼は拳を力いっぱい握り締めて、吐き出すようにフェリペ四世に向かって叫んでいた。

 何故か、瞳から熱いものがあふれ出し頬を伝っていた。

 気が付くとフェリペ四世が屈み込み彼の肩に手を置いて優しく摩っていた。

「おぬしは今年でいくつになるのだ?」

「・・・十二です」

 彼は鼻をすすりながら当感して答えた。

「そうか、まだ子供なのだな。それではこうしよう。おぬしが十八になるまでは、私の翼の下で密かに庇護しよう。おぬしはそれまでにこの世界の事情を学び、生きる道を探すが良い。

 そして決めるのだ何がしたいのか、私とどうやって付き合ってゆくのか」

「は・・・はい・・・陛下」

 フェリペ四世はランポートを優しく抱きしめた。

「ちぇ・・・一本取られたな・・・法王め・・・まったく」

 太陽王フェリペ四世は小さくつぶやいた。

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