私は不幸なんだろうか、と考えると何だか泣けてきた。
私は不幸なんだろうか、と考えたときに、いきなり涙が溢れたのは昨日のことだ。不意に湧いた疑問に、涙が溢れて止まらなかった。
心は乾いていたけれど。
からからに干からびていたけれど。
私は不幸なんだろうか?
違う。
私は別に不幸なんじゃない。
私より不幸な人はこの世に掃いて捨てるほどいる。
別に私は特別じゃない。
ごくありふれて平凡に。
ちょっと運が悪いだけだ。
でも。
他人と比べる意味なんてあるのか?
父は家に寄り付かず、別居して母に離縁を迫り、浮気も発覚して、今は冷戦状態だ。母は平気で父の悪口を言い、親であることを笠に着て理不尽を通し、思い通りにならなければ逆ギレ、小さく言い返せば屁理屈だと喚く。兄は我欲が異常に強く自己中。妹は受験生だというのにゲーム中毒。
自分が聖人君子だと言うつもりはない。だが彼らよりはずっとマシだろう。彼らが私の人間不信に多大な貢献をしてくれたのは言うまでもない。いつしか私は彼らを家族と思わないことにしていた。そのことに気付いたのはつい昨日のことだ。本当に、今までは家族というものに幻想を抱いていたのだろう。いや、むしろとうの昔に幻滅していたことに気付いたのが昨日だったんだ。親はただの金源であり、兄妹は単なる同居人だ。
恵まれてはいるんだろうとは、今までも思ってはいた。けれど、全く恵まれてなんかいなかった。そう思えば、随分と何かが軽くなった。
自分は不幸だろうか。そう問えば、違うだろうと答えていた。
今こそ答えよう。
私は不幸なんじゃないだろうか?
その通りだ。
家族は不信の筆頭だ。相談できる友人も頼ることのできる仲間もいない。思えば限りなく孤独じゃないか。
カウンセラーにかかることを本気で考えたことも何度もある。けれど、かかった段になって、カウンセラーと相対して、何を訊けばいいのか。どんな話をすればいいのか、全く想像できないので、一度も言ってみたことはなかった。
私は逃げる。一方通行の先に行く。他の皆より一足先に。
決意なんて大それたものもない。覚悟なんていうものもない。恐れも高揚も何もない。あるのは疲労とわずかな諦めと………一抹の、これは寂しさだろうか。
私以外の誰もが、優しく、暖かく、有り難い。同じクラスの人たち。同じ部活の人たち。誰もが善い人たちだ。思い返せば、心が暖かくなる。泣きそうになる。掛け替えなく大切だと思う。
そして、もうたくさんだと思う。
この街の片隅に、数年前ある男子が自殺した廃ビルがある。同じようにするのも悪くないけど、やっぱり私は嫌だった。
彼がどうして自殺したのかは知らないけれど、私の理由とは間違いなく異なるだろう。それなのに同じようにするのは彼への冒涜である気がしてならない。それに投身自殺というのは何だか性に合わない。せめてこのくらいは、決然とさせてもらおう。
「ねえ。やっぱり私って不幸だったよね」
いつの間にか後ろに付いてきていた野良猫に話し掛ける。あげられるものは何もないよ、と示しても付いてくるのでそのままにしてたら、最後の場所まで付いて来た。
猫は黙って私を見上げるだけだ。
未練はない。でも今までの人生に後悔はある。だがこれからのことを後悔するつもりはない。
まあ後悔も何もできたものじゃあないんだけど。
「いいこと全然なかったよ………何て言うかさ、神サマみたいな存在に、『君はよく頑張ったよ』みたいなこと言われたら、凄く楽になったのに………なんて、あはは、バカだね」
独り猫に語り掛ける。
「本当に、私は不幸だね」
言葉にしてから、声に涙が混ざっていることに気付いた。口を手で塞いで嗚咽を抑えようとしたとき、初めて猫はにゃあと鳴いた。
「お前は善い奴だね。最期の話し相手がお前でよかったよ」
頭を撫でると、猫は逃げもせずに撫でられていた。
「さ、どこか遠くへお行き。………私はこれで、最期だから」
トントンッと頭頂を指先で軽く叩くと、猫はにあ、と鳴いて背を向け、音もなく歩き去った。
私はしばらく猫の去った方向を見ていたが、やがて苦笑するとポケットからナイフを取り出した。
台所から拝借してきた果物ナイフだ。もう返すことも帰ることもないだろうが。
首筋を、緩く撫でる。
さて。
さあ。
サヨウナラ。優しくて下らない私の世界。声にせず、唇だけで囁くと、私は目を閉じて一つため息をついた。
最期は笑顔で終わらせてもらおう。
せめてもの私のプライドだ。
頬を、唇を歪める。
私は今、笑えているんだろうか。
あはは。
本当に、サヨウナラ。
ふっ、と息を詰め、
そして私は頸動脈に深くナイフを走らせた。






