夏の日
「あの子、多感傷症なんだよ」
僕が初めてリョウの口から彼女のことを聞いたとき、さっぱりその姿をイメージできなかった。センチメンタル・シンドロームってなんだ。
「はあ」
「だから、多感傷症。永川さんと最近仲いいんだ、でも、自分の世界に浸っちゃってて」
それで迷惑してる、って訳でもないようだった。むしろ楽しそうだ。
レモン風味のアイスキャンディはかなり汗をかき始めていて、そろそろ崩壊する予感がした。早く、慎重に食べないと。
「それで、その永川って人がどうしたっていう話なの」
リョウはソーダ味のそれをいつのまにか、上手に食べきっていた。
「ん、あのさあ――好きになった、かも」
僕はアイスを落とした。
ついに三度目の三角関係が始まる。落としてしまった80円なんて気にしていられなかった。
「セキ、お昼一緒に食べない?」
衝撃の告白から数日、リョウは久々に昼食のお誘いをしてきた。
因みにセキとは関口という苗字からきているらしい。
「いいけど、なんでまた」
「あのさ、永川さんも一緒なんだけど、いいかな」
やっぱりね。薄々感づいてはいたけど、気が重くなる。
でもそこは元演劇部の底力で快く承諾した。
リョウと氷川さんは二組、僕五組。勿論僕がそっちの教室に移動した。遠くて辟易する。
「永川さん、こっちこっち。これがこないだ言った幼馴染。ほらセキ、挨拶して」
リョウは母親のような強引さで僕の背中を叩く。
「どうも。リョウがうるさくてごめんね」
「私、大丈夫だよ。リョウちゃんと仲良さそうで、羨ましい」
なるほど常人とは違う雰囲気。既に氷川さんのことは調査済みではあったけれど、ここまで接近したのは初めてだった。そして喋ったのも。
隣でリョウの心拍数が急上昇しているのが分かる。リョウは僕がいないと駄目なんだ。きっとまともに氷川さんとコミュニケーションできない。僅かな驕りと長年の経験がそう言っている。
「じゃあ、お昼、食べようか」
僕の使命はこの場を円滑に保つこと。ああ、悲しきかな、幼馴染。
永川さんは購買のおにぎりと烏龍茶。思った通りだ。リョウと僕は朝一緒にコンビニで買ってきた。小さな優越感に浸ってみる。
「あの、セキさんは」
「セキでいいよ」
間髪入れずにリョウが呼び捨て許可をする。それは僕の役目だろう。
「うん、セキは、素敵なフレームの眼鏡をしているね」
リョウが吹いた。
「そうかな、ありがとう」
「今日ね、星座占いでラッキーパーソンが『銀縁眼鏡を掛けた人』だったの。私、ちょっとついてる」
そういうことか。恋敵に誉められたって嬉しくないし、後でリョウに半殺しにされるのも勘弁だった。頼むから平穏に、平穏に食事してください。
リョウのイライラが最高潮に達する前に、間抜けな予鈴と共に二組を抜け出した。
会話して思ったのは、永川さんは今までリョウが夢中になった人達とは違ったということ。といっても、前例が二人しかいないのだから検証のし様がないのだけど。いつだって対象は女の先輩だった。そしてどちらかというと、オトコマエ。それは多分恋ではなく憧憬だったのだろう、卒業した途端会話に名前が上らなくなった。永川さんはとても女の子らしい。ふわふわの髪に、静かな佇まい。可愛らしい、という形容がぴったりだ。
「セキ、どしたん? かなり不機嫌でしょ」
隣の猫毛が乗り出してきた。きっと、ケータイを開いたまま何もしない僕に不安を覚えたのだ。
「そう見える?」
「うん、超見える。さてはお嬢さんに振られたか」
「ふざけんな」
「わー、図星だ、セキったら」
猫毛ともなんだかんだで付き合いが長く、「お嬢さん」との事情も知っている。にやつきながら、「お姉さんが相談に乗ってあげるわよ」なんて抜かしている。
「いらないよ、別に喧嘩したんじゃないし。……あいつ、また、好きな人できたって」
あちゃあ、と猫毛が苦笑いする。結局言ってしまった。この長期戦の片思い、大抵のことは自分ひとりで抱えてきたが、時々こぼれてしまうのだ。
両思いなんて、そんな高級なものはいらない。リョウと一緒に、幼馴染でいいからずっと暮らしたいだけだ。
「セキはねえ、ちょっとストイックすぎるんじゃないの、恋愛に対して。もっと欲出していいんだよ」
「……充分嫉妬まみれだよ」
「へえ、意外」
ふうん、と返事して、猫毛は廊下を通りすぎるお気に入りの先生を見付けると椅子から跳ねあがって駆けていった。そして入れ違いに、五限目の教科の先生が来た。
かつて一度だけ、リョウが僕の前で泣いたことがある。
それは確か、初恋のとき。「女が女好きになったら、いけないのかな」と。それはまだ中学生のころで、誰もいない放課後の教室だった。
もうリョウに対する恋心に気付いていて、相手の先輩を敵視していたから、「それは仕方のないことなんじゃないかな」としか言えなかった。そしてリョウを幸せにしてやりたいという気持ちの間でジレンマを感じたのだった。
そのジレンマは今も続いている。
『ちょっと担任に用事があるから、玄関で待ってて』。六時限が終わったとき、ポケットが震えた。リョウからだ。いつも通り一緒に帰るためなら、いくら待ったっていい。
のんびりと玄関に向かうと、そこはもう帰宅部組のラッシュは終わっていて静かだった。
暇つぶしに下駄箱の数を数えていると、昼休みに見た人を見つけた。
「永川さん」
「セキ」
わかってます、みたいな表情だ。
「セキも、リョウちゃんを待ってるんでしょう。リョウちゃんが言ってたと思うけど、今日は私もいっしょに帰るんだ」
知らないよ、そんなこと。リョウは、僕との時間すらこいつに与えてしまうのか。広がる苛立ち。そう思うといてもたってもいられなくなった。
「ごめん、用事思い出したから先に帰る。リョウにも伝えておいて」
永川さんの返事も聞かずに、乱暴に靴を履き替え出ていった。
なんなんだろう、どうしてこんなに悔しいんだ。猫毛に言われた言葉を思い出す。僕は全然、ストイックなんかじゃない。深い独占欲。汚い嫉妬。永川さんに負けたような気がして、泣きそうだ。
いつもの通学路を疾走する。息はとっくに上がってる。でも止まらない。隣にリョウがいないこと、それがどれだけ苦しいことか――改めて実感する。
家に着くと自分の部屋に閉じこもり、とまらない息苦しさに胸を抑えながら布団にもぐった。
白いカーテンの端からこぼれる夏の日差しに、うぅ、と猫毛がうなる。窓際の席である彼女の顔に直撃だった。
「まぶしいならきっちり閉めればいいのに」
「もしかしたら校庭に西谷センセー歩いてるかもしれないじゃん。それに午後になればそんな眩しくないよ」
ごくろうさまです、と感心して呟いた。
「これも愛の力ってやつよー」
「いや、ストーキングに近いと思う。というか先生は本命だったの?」
んー、と猫毛は顔を傾け、「ベクトルが違うだけだね。セキのお嬢さんに向かう気持ちと、似てるのかな? 見てるだけで満足って点では」
「それも何か違う気がしないでもないな」
僕の反論も聞かずに猫毛はケータイを開いた。メール受信を知らせるランプがチカチカ光っていた。
「わーお本命くんからだわ」
猫毛いわく、本命くんは他校の同級生でバイト仲間なんだそうだ。そして片思いだという。
確かに、顔の綻ばせ方が西谷先生と会話しているときと少し違う。文面を必死に考えているところを見ると、僕もなんだかあたたかい気持ちになれる気がする。
猫毛と僕の恋愛事情を比べると、確かに恋愛にはいくつか種類があるように感じる。
どこへ向かえば幸せになれるのか、よく分からない。
……幸せって、なに。